第1節問いの設定——なぜ敗戦国・日本だったのか
廃墟の上の撮影所で、円谷英二は何を作ろうとしたのか。
その問いに答えるために、まず一つの事実を確認しておきたい。
1954年、ゴジラが日本の映画館に現れたとき、世界はすでに核の恐怖の中にあった。1945年8月の広島・長崎への原爆投下から9年。その間に1949年にはソ連が核実験に成功し、1952年にはアメリカが水素爆弾の実験を行った。1954年3月には、ビキニ環礁での水爆実験が第五福竜丸を被曝させた。核の恐怖は、日本だけのものではなかった。
ならば問いはこうなる。なぜゴジラは日本で生まれたのか。
同じ時代、アメリカでも核への恐怖を題材にした怪獣映画が量産されていた。1953年の『原子怪獣現わる』(監督:ユージン・ルーリー)では、北極圏での核実験によって眠りから覚めた恐竜が、ニューヨークを襲う。翌1954年の『放射能X』(監督:ゴードン・ダグラス)では、ニューメキシコの核実験で巨大化した蟻が最終的にロサンゼルスを脅かす。これらの作品など、核実験が巨大生物を生み出すというモチーフは、1950年代のハリウッドで一つの定型を生み出していた。
しかしこれらの作品と『ゴジラ』の間には、決定的な差異がある。
アメリカの核怪獣映画において、怪物は「核実験の副産物」だ。核が生み出した脅威として現れ、軍によって駆逐される。物語の構造は「脅威の出現と排除」であり、核そのものへの根本的な問いは封じられている。核保有国・アメリカにとって、核は「コントロールすべき力」であり、「否定すべき存在」ではなかった。
同時代のドイツに目を向けると、別の対比が浮かび上がる。敗戦後のドイツ映画は「廃墟映画」または「瓦礫映画」(Trümmerfilm)と呼ばれる一群の作品を生んだ。廃墟となった都市を舞台に、戦争による喪失と戦後の再建を描いた作品群だ。しかしドイツの映画人たちが選んだのは、廃墟を直視する社会派ドラマという表現形式だった。怪獣は現れなかった。
なぜ日本の映画人は、廃墟を直視する社会派ドラマでも、核を「コントロールすべき力」として描く娯楽映画でもなく、怪獣という形式を選んだのか。
この問いへの答えは、一つの要因に還元できない。それはこれから辿る、複数の条件の重なりの中にある。円谷英二という技術者の戦中と戦後。GHQの占領政策が映画界に課した制約。東宝という会社の論理と、田中友幸というプロデューサーの直感。そして本多猪四郎という、戦場を知る監督の存在。
これらの条件が交差する地点に、ゴジラは生まれた。
注釈
「廃墟映画」の代表作としては、1946年の『殺人者は我々の中にいる』(監督:ヴォルフガング・シュタウテ)が挙げられる。
