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第5節 三つの軌跡――迷走・革新・再生という同時代性

ここまで見てきた三つの物語――ゴジラの迷走、ガメラの逆襲、ウルトラマンの再生――を並べると、一つの誘惑的な図式が浮かび上がる。1990年代の特撮は、旧来の主題を消耗させたゴジラと、そこへの批評として先鋭化したガメラと、自らの神話的出自を問い直したウルトラマンという、三者三様の危機と応答の物語として語ることができる、という図式である。本章も
また、ここまでその図式に沿って三者を論じてきた。

だが、この図式そのものに対しては、メタ的な留保が必要である。「迷走・革新・再生」という三区分は、あまりに整いすぎてはいないだろうか。
ゴジラ・ガメラ・ウルトラマンは、それぞれ製作会社も、観客層も、置か
れていた経営状況もまったく異なる作品群であり、それらを「1990年代
特撮」という一つの時代精神のもとに束ねて対比的に語ることは、歴史記述としてはむしろ不自然な整理である可能性がある。

とりわけ注意すべきは、この図式が採用する評価軸――「主題の深さ」
「作家性の有無」を成功や革新の尺度とする見方――そのものが、いつ、
どこから来たのかという問題である。この評価軸は、集団製作物のうちに
個人の作家性を見出そうとする「作家主義」的な特撮観と地続きである[i]。庵野秀明が2016年の『シン・ゴジラ』以降、みずからの作家性を特撮に刻み込む監督として広く知られるようになったことも[ii]、この物差しを強化する一因になっている。ただし、こうした批評的言説が特撮批評全体の潮流を
どこまで塗り替えたかについては、実証的な受容史研究による裏付けはまだ
ない。もしこの見立てが妥当であれば、私たちは過去の特撮作品を振り返る際にも、「誰の作家性がどこに宿っていたか」を無意識に探すようになっていることになる。本章がガメラを「革新」、ゴジラを「迷走」と評価する
背後にも、この作家主義的な物差しが働いていないと言い切ることはでき
ない。

言い換えれば、1990年代当時の観客や制作者自身が、果たして本章と同じようにこの三者を対比的に捉えていたかどうかは、別の問いである。ゴジラの観客とガメラの観客と、ウルトラマンの観客は、多くの部分で重なり合っていたとしても、当時それぞれの作品を「同じ時代の三つの応答」として意識的に見比べていたわけではないだろう。この図式は、あくまで後年、とりわけ2000年代以降の特撮史記述・特撮批評の蓄積を経て、事後的に構成された物語なのである。

とはいえ、この留保は、図式そのものを放棄すべきだという結論には至ら
ない。歴史記述である以上、ある程度の物語化は避けられず、重要なのは、その物語化を自覚した上で提示することである。本章が示したかったのは、「ゴジラは迷走し、ガメラは革新し、ウルトラマンは再生した」という単線的な結論ではなく、興行的安定と思想的評価のずれ、個々の作り手の技術的・作家的達成と作品全体の評価とのずれ、そして後年の作家主義的視点による遡及的な意味づけそのものが持つ危うさである。1990年代の特撮作品の作り手たちは、私たちが今日物語として整理する以上に、それぞれ乏しい
予算と不確実な観客の反応の中で、手探りのまま自分たちの物語を作って
いた。

次節では、この同時代性の先ではなく、むしろこの同じ1990年代のただ中で起きたもう一つの事件――ハリウッド版ゴジラ(1998年)という「誰のゴジラか」を問う出来事――を見ていく。



[i]作家主義」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館、コトバンク版。作家主義の起源、対象とされた監督群、および後年寄せられた批判については同項目による。本書第15章第1節も参照。
[ii] 公開直後の批評として、映画評論家・小野寺系「『シン・ゴジラ』は日本の何を破壊する? 庵野秀明監督が復活させた「おそろしい」ゴジラ像」Real Sound|リアルサウンド映画部、2016年8月2日、 は、庵野個人の嗜好が作品構成を規定している点を指摘している。庵野の作家的ヴィジョンを軸に「シン」シリーズ(『シン・ゴジラ』『シン・エヴァンゲリオン』『シン・ウルトラマン』『シン・仮面ライダー』)を論じた学術論文として、横山孝一「真の『仮面ライダー』とは何か――藤岡弘、対 庵野秀明――」『群馬工業高等専門学校研究紀要(The Gunma-Kosen Review)』第42号、2023年、 も参照。また、須川亜紀子「『庵野秀明展』を2.5次元世界として読む」Tokyo Art Beat、2021年11月19日、 は、少年期の特撮・アニメ体験から一連の作品に至る庵野の創作を、一貫した作家的ヴィジョンとして位置づけている。

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