第5節文脈が変わるとき——次章への接続
ここまで辿ってきた事実を、改めて重ね合わせてみたい。
円谷英二は、戦時下において軍の要請に応じ、現実にないものを現実のように見せる技術を、戦意高揚という目的のために用いた。その技術は精緻であるがゆえに、観客を欺くほどの力を持った。敗戦後、その円谷は公職追放によって東宝を去ったが、技術そのものを手放したわけではなかった。自宅に研究所を構え、他社の仕事を請負いながら、技術の蓄積を絶やさなかった。
第3章の終わりに、一つの命題を立てた。技術は引き継がれる。しかし技術を取り巻く文脈は変わる。
円谷の軌跡は、この命題を最も具体的な形で証明している。1942年の円谷が持っていた技術と、1954年に東宝へ復帰した円谷が持っていた技術は、本質において同じものだった。ミニチュアを操り、現実を模した嘘を作り上げる手技に変わりはない。しかし1942年、その技術は戦争を遂行する国家のために動員された。1954年、その同じ技術が向かうべき先は、もはや存在しなかった。国家は戦争を遂行していない。検閲は消えた。円谷の技術は、いわば「使い道を失った」状態で、占領期の終わりという時点に置かれていたことになる。
ここで本多猪四郎の存在が意味を持ってくる。
円谷が「使い道を失った技術」を抱えていたとき、本多は中国戦線で見た現実を抱えていた。本多にとって戦争は、技術が動員された場としてではなく、人間が人間を殺し合う現場として刻まれていた。円谷の技術と本多の体験——両者は別々の場所で、別々の意味を持って戦争を経験した者たちだった。
そして田中友幸が、この二人を一つの企画に結びつけた。
田中の企画立案の経緯について、確定的な因果関係を主張することはまだできない。インドネシア出張の頓挫がどの程度直接的に着想へ結びついたかは、資料的な検証を必要とする。『原子怪獣現わる』への言及についても、田中自身がこの作品を念頭に置いていたという証言は確認されておらず、後の研究者による推論にとどまる。しかし一つだけ言えることがある。田中が結びつけたのは、単なる監督と特撮監督という分業上の組み合わせではなかった。「使い道を失った技術」を持つ円谷と、「言葉にできない戦場の記憶」を持つ本多——この二人を同じ作品の中に置くことによって、田中は意図したかどうかにかかわらず、技術と体験という二つの異なる種類の戦争の遺産を、一つの器の中に流し込んだ。
その器が、怪獣という形式だった。
なぜ怪獣でなければならなかったのか。第1節で確認したように、アメリカの怪獣映画は、核を「コントロールすべき脅威」として描き、最終的に排除する物語を選んだ。ドイツの映画人は、廃墟を直視する社会派ドラマを選んだ。しかし日本の映画人たちが置かれていた条件は、そのいずれとも異なっていた。彼らは、占領期には戦争の現実を生々しく描くことを許される立場にはなかった——その後検閲は消えたとはいえ、その記憶を直接描くことへの逡巡は、本多自身の内にもあったかもしれない。同時に、彼らは核という現実を「コントロールすべき力」として見過ごせる立場にもなかった。被爆国の映画人にとって、核は征服すべき脅威ではなく、抱え続けるべき恐怖だった。
怪獣という形式は、この両者の間に成立した。それは現実そのものではないがゆえに、戦場の記憶を直接語ることを回避できる。しかし同時に、それは単なる娯楽の脅威でもなく、抱え続けてきた恐怖そのものの姿を取ることができる。円谷の「現実にないものを現実のように見せる技術」が、本多の「言葉にできない記憶」を、初めて受け止める器になったのだ。
ここまでが、ゴジラという作品が生まれるまでの条件である。
しかし条件が揃ったことと、その条件のもとに何が実際に作られたかは、別の問題だ。円谷の技術と本多の記憶が一つの作品に流し込まれたとき、スクリーンの上に現れたものは何だったのか。それは本当に、ここまで述べてきた仮説を裏づけるものなのか。
次章では、ゴジラそのものに向き合う。1954年に完成したその作品が、何を描き、何を描かなかったのか——その問いへと向かう。
