第5節 多義性こそがゴジラの強さ——あるいは、決定不能であることの意味
ここまで、三つの読みと、それらが行き着く結末の分析を並べてきた。核の恐怖の身体化。戦争で死んだ者たちへの鎮魂。文明以前の力と、それを
鎮める代償的な国家の物語。そして、勝利を拒む結末。
どの読みも、それぞれに根拠を持っていた。しかし、どの読みも、他の三つを排除するほどの決定力は持っていなかった。
この事実そのものに、もう一度向き合っておきたい。
映画研究者チョン・ノリエガは1987年の論文で、日米の怪獣映画の構造的な違いを指摘した。1950年代のアメリカ怪獣映画——『原子怪獣現わる』(1953年)、『放射能X』(1954年)など——に登場する怪物たちは、「Them(彼ら)」や「It(それ)」といった非人称的な名前で呼ばれ、その「完全な他者性」が強調されている。一方、ゴジラには最初から名前があり、それに紐づく伝説のようなものがある。ノリエガは、名前と伝説を与えられたことによって、怪物は文化の中に「常にすでに存在していたもの」として組み込まれ、ゴジラが常にすでに日本的な存在であったがゆえに、その存続も
保証される、と論じた[i]。
これは、第2節で見た議論と、ジャンルの構造のレベルで重なっている。第2節で確認したように、川本三郎・赤坂憲雄の読みに立つなら、ゴジラは秩序の外からやってきた異物ではなく、秩序の内側——日本社会自身——が生み出し、見送った自国の死者だった。ノリエガの議論が示すのは、この「内側性」が、戦争の死者という特定の読みだけに依存するものではなく、ゴジラという存在の名前と伝説そのものに、最初から組み込まれていたという
可能性である。
この違いは、物語の構造そのものにも影響する。アメリカの怪獣映画では、怪物は最終的に、それを生み出した技術の変形によって、力で破壊される。しかしゴジラ映画では、ノリエガによれば、力でゴジラに対抗できないからこそ、「ゴジラは何を望んでいるのか」という問いが、大量破壊そのものと同じくらい観客を引きつける、より開かれた問いになっていく[ii]。
この「答えの出なさ」は、偶然の産物ではないかもしれない。
2025年時点での東宝社長・松岡宏泰は、2025年のシンポジウムで、ゴジラをできるだけ神秘的なままにしておきたいと語っている。観客に「ゴジラが何をしているのか」「なぜそれをするのか」を想像する余地を残すこと——その神秘性こそが、ゴジラの人気の秘密かもしれない、と松岡は述べた[iii]。これが意図的な制作方針だとすれば、ゴジラの多義性は、後年の批評家たちが勝手に読み込んだ過剰解釈ではなく、作品の側が積極的に育ててきた性質だということになる。
ただし、ここで一つ、慎重であるべき点がある。
ゴジラ研究者ウィリアム・ツツイは、ゴジラがホラーの存在にも英雄にも、不気味な復讐者にも滑稽な守護者にもなり、核の終末から自然災害、戦死
した日本兵の魂に至るまで、あらゆるものを背負わされた象徴になってきたと記している。ツツイが引用する研究者ピーター・ハイの評言では、ゴジラを「完璧な、浮遊する、空白の隠喩」と評した。ツツイ自身も、ゴジラを、変化する観客の期待や映像技術、政治的文脈、社会的力学、文化的規範に
絶え間なく適応し続ける、映画的カメレオンと呼んでいる[iv]。1本の映画が抱える多義性と、35作を超えるシリーズ全体が70年かけて積み重ねてきた、この絶え間ない変容とは、本来別の現象である。両者を安易に混同し、
「ゴジラ」という一つの怪獣から「戦後日本人の精神そのもの」を読み取ろうとすることには、つねに一定のリスクが伴う。1本の作品、あるいは一つのキャラクターを、一つの国家の集合的な心理の代表として扱うことは、
しばしば実際よりも単純な物語を作り出してしまう。
だからこそ、本書はここで一つの読みを選び取ることをしない。
核の恐怖、戦争の死者、恐竜という代償の物語、勝利を拒む結末——これらの読みは、互いに反証し合うものではなく、70年以上にわたって決定不能なまま拮抗し続けてきた。そしてこの「決定不能でありながら拮抗し続ける」という状態そのものが、一本の怪獣映画を、単なる時代の産物ではなく、
神話に変えた条件だったのではないか。
第1章で本書が掲げた問い——ゴジラは倒されるべきか——も、この決定
不能性から逃れることはない。山根は最後まで殺すことに反対し、尾形は
それを脅威として滅すべきだと考えた。実行者である芹沢は、尾形の道を
一度だけ実行し、ゴジラを倒した。しかし山根の道へも、尾形の道の先に
あったはずの未来——兵器としての継続的な運用——へも進むことを拒み、技術ごと自らを葬った。三つの声は、ゴジラの死後もなお、和解することなく残っている。本書がここでその対立に代わりの裁定を下すことはしない。
しかし、本章が答えたのは、「ゴジラは何を意味するか」「ゴジラは倒されるべきだったか」という二つの問いにすぎない。
プロローグで本書が掲げた、もう一つの、より根源的な問い——なぜ人間は噓を本物として受け取るのか、なぜ「作り物」と知りながら涙を流すのか——には、本章はまだ十分に答えていない。ただし、一つだけ確認しておきたいことがある。
本章の冒頭で確認したように、大戸島の村人たちの多くは、海の怪物の伝承を噓だと意識せずに生きていた。一方、1954年に映画館でこの作品を見た
観客は、ゴジラが噓であることを最初から知っていた。彼らは、自分たちが負けた戦争の歴史が、この映画によって実際に書き換えられたとは信じて
いない。それでも、ネイピアが論じたような、発散的かつ代償的な経験は、確かに起きていた。観客は噓だと知りながら、その噓の中に身を置くことを選び、そこで現実の感情の動きを経験する。
書き直されるのは歴史そのものではなく、噓と知りながらその噓に動かされるという、観客の心の中で起きる出来事のほうだ。ケロイドを思わせる皮膚を持つ着ぐるみが、なぜ噓だと分かっていながら観客の涙を本物にできたのか。その問いには、本章はまだ答えない。しかし、答えるべき問いの形は、ここで少しだけ明確になった。
次章では、ゴジラが「何を意味するか」という問いから離れ、ゴジラが
「どう作られたか」という問いに向かう。精巧に作られた東京の街が、なぜ壊されるために存在するのか——この新しい問いを通じて、本章が開いた
ままにした「噓と本物」の問いに、次章は別の角度から迫っていくことに
なるはずだ。
[i] Chon Noriega, "Godzilla and the Japanese Nightmare: When Them! Is U.S.," Cinema Journal, Vol. 27, No. 1 (Fall 1987), pp. 63–77.
[ii] Ibid.
[iii] 松岡宏泰(東宝社長), CULCON Symposium "Shaping the U.S.-Japan Partnership" での発言、2025年2月18日。William M. Tsutsui, "Teaching Gojira: Godzilla in Japanese History, Folklore, Culture, and Film," Education About Asia, Vol. 29, No. 1 (Spring 2026) に引用。
[iv] Tsutsui, op. cit. ゴジラを「完璧な、浮遊する、空白の隠喩」と評した言葉は、Peter B. High, "Godzilla," KineJapan Message Board, May 29, 1998に遡るものとして同論考で引用されている。
