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第4節 仮面は素顔より真実か——「ヘンシン」の身体が完成させたもの

前節で見たように、「変身!」の掛け声と決めポーズをめぐっては、長らく「藤岡弘の事故と、佐々木剛の運転免許の不所持という、二重の偶然が生んだ産物」という説明が広く流布してきた。しかし前節末尾で確認した通り、この因果関係そのものは、当の佐々木剛自身の証言や複数の資料によって、単純な「偶然」の物語として片づけることに近年疑義が呈されている。免許問題が浮上する以前から、「変身の仕組みをはっきり示す」という制作側の意図はすでに存在しており、佐々木自身も、風圧任せの受け身な変身様式に対しては、みずから「自分から仕掛けるポーズ」を望んだとされる。
つまり、参加型の変身儀式の成立を、免許という事務的制約だけに還元することはできない。それは、事故という偶然、制作側の演出意図、そして
佐々木自身の能動的な働きかけという、複数の要因が絡み合った末に生まれたものだったと見るべきだろう。

この複合的な経緯を踏まえたうえで、本節では、この参加型の身体儀式が、なぜこれほどまでに子供たちを捉えたのかを見ていく。

実は、『仮面ライダー』の企画段階には、すでにこの問いへの手がかりと
なる資料が残されている。当時の企画書には、仮面というものについて、次のような趣旨の記述があったという。仮面は人類の歴史とともにあり、それを身につけることで一つの人格が別の人格へと生まれ変わる。仮面の下に
誕生した別の人間が、日常性を脱して、我々の悩みを解決してくれるとしたら、それに勝る快事はない——というのである[i]。ここには、単なる変装や偽装としての仮面ではなく、仮面をつけることで「日常の自分」を超えた
別の人格が現れる、という考え方がすでに明確に示されている。

同じ頃、制作陣は先行するヒーローアニメ『タイガーマスク』についての
子供たちへの調査データも参照していたことが分かっている。それによれば、子供たちは、仮面を外した伊達直人が優しく平凡な男であるのに対し、タイガーマスクの仮面をつけると無敵のレスラーになるという落差に強く
惹かれていた。「自分も仮面をつければヒーローになれる」という夢や願望に、この落差が応えていたのだという[ii]。つまり、「仮面が別人格を呼び出す」という発想は、石ノ森や平山の哲学的な思索から降ってきたものというよりも、すでに子供たちの反応の中に見出されていた欲望を、制作陣が意識的にすくい上げた結果だったと考えられる。

ここで、慎重な留保を挟んでおきたい。「仮面は素顔よりも真実である」「変身とは弱い自分を隠すことではなく、強い自分を解放することだ」——こうした、より深く哲学的な読み筋は、1971年当時の制作陣がどこまで明確に言語化していたかは定かではない。前節で確認した通り、参加型の変身
儀式そのものが2号以降に確立したものであり、その様式が半世紀にわたる作品群を通じて反復されるうちに、批評的な言説の蓄積として、この読み筋が徐々に強化されていった側面は大きい。したがって、この解釈を1971年の制作意図としてそのまま遡及的に当てはめることには慎重であるべきだろう。

とはいえ、前節で見た「変身の仕組みをはっきり示す」という制作側の狙いと、この節で見た企画書の記述、そして『タイガーマスク』に関する子供
調査という三つの材料を重ね合わせると、次のことは言えるはずである。
すなわち、仮面をつけることで「別の、より強い人格」が呼び出されると
いう感覚は、後年の批評が仮面ライダーに事後的に読み込んだ深読みというよりも、企画の初期段階からすでに、子供たちの欲望の構造として制作陣に把握されていたものだった。ただし、それを「参加型の身体儀式」として、子供自身の身体を通して反復可能な形に結晶させたのは、藤岡弘の事故、「変身の仕組みをはっきり示す」という制作側の意図、そして佐々木剛自身が「自分から仕掛けるポーズ」を望んだという能動的な働きかけ——これら複数の要因が重なり合った末のことだったのである。

この構造を、もう少し踏み込んで考えてみよう。仮面をつけた本郷猛は、
仮面を外した本郷猛よりも「本当の自分」に近いのだろうか。それとも、
仮面とは、日常では表に出せない怒りや暴力性を、社会的に許された形で
発散するための、都合の良い隠れみのにすぎないのだろうか。この問いに
対して、本書は一方の答えだけを選び取ることを避けたい。仮面ライダーという物語が示しているのは、おそらくそのどちらでもなく、両者の間の往還である。本郷猛は、仮面をつけていない時は、ショッカーに対する怒りを
抱えながらも、それを誰にもぶつけられない、孤独な改造人間として日常を生きる。仮面をつけた瞬間、その怒りは初めて、正当な戦いという形を得る。仮面は、隠していた自分を暴くのでも、まったく別の自分を作り出すのでもない。抑えていた感情に、行動という出口を与える装置なのだ。

もっとも、仮面をこのように、日常の規範や制約から人を一時的に解き放ち、そこでしか許されない行動を可能にする装置として捉える視点自体は、仮面ライダーに固有のものではない。通過儀礼における仮面や、身分制約からの一時的な解放を伴う仮面舞踏会の仮面など、仮面を日常の秩序の外側へと人を導く装置として位置づける理解は、仮面をめぐる民俗学・人類学の
一般的な知見として広く共有されている[iii]。本稿がここで見出しているのは、こうした仮面の一般的な機能——日常では許されない行動への回路を開くこと——が、本郷猛という個別の物語において、「怒り」という具体的な感情と「正当な戦い」という具体的な行動に結晶した、その一事例だということである。

そして、この装置が子供たちの身体を捉えたのは、まさにそれが「見ているだけ」では終わらない参加型の儀式だったからである。掛け声とポーズを
真似ることで、子供たちは、本郷猛や一文字隼人が仮面をつける瞬間の感覚——日常の無力さから、行動する力への切り替え——を、自分の身体を通して疑似的に反復することができた。この反復可能性こそが、仮面ライダーの変身儀式を、単なる映像的な見せ場から、半世紀にわたる文化的儀式へと
押し上げた原動力だったと考えられる。

反復が行為を儀式たらしめるというこの理解は、仮面ライダーに固有のものではなく、文化人類学における儀礼論の中核をなす知見でもある[iv]。人類学者ヴィクター・ターナーは、儀礼的行為の反復を、社会のなかで確立された意味を再演すると同時に追体験する行為として位置づけ、それによって当の意味が日常的・儀礼化された形で正当化されると論じた。子供たちが変身ポーズを繰り返し真似ることは、この意味で、仮面ライダーという物語が体現する「無力さから行動する力への切り替え」という意味を、みずからの身体を通じて反復的に正当化し続ける行為だったと捉え直すこともできるだろう。

仮面をつけることで生まれる「別の人格」が、日常に無力感を抱える者を、行動する主体へと変える。この構造は、しかし、あくまで個人の内側で完結する物語である。次節では、視点を個人から共同体へと広げ、仮面ライダーが体現する「孤独」というものが、同時代のウルトラマンや、他の東映ヒーローたちとどう異なり、どう重なっていたのかを見ていく。



[i] 岡謙二『不滅のヒーロー 仮面ライダー伝説』ソニー・マガジンズ、1999年、p.18。同頁は秋保慎太郎「仮面ライダーはなぜ人々に共感されるのか」(東北大学大学院情報科学研究科修士論文、2011年)注76でも引用されている。
[ii] 池田憲章・高橋信之『ウルトラマン対仮面ライダー』文藝春秋、1993年、p.23。同頁は秋保、前掲、注77でも引用されている。
[iii] 仮面が持つこの一般的な機能については、たとえば「仮面」(『日本大百科全書』、コトバンク)の解説を参照。ただし、仮面ライダーの本郷猛における「怒りの出口」という具体的な結晶のさせ方について論じた先行研究は、管見の限り見当たらない。
[iv] ヴィクター・ターナーの儀礼的社会劇論、およびそれを反復(パフォーマンスの反復による意味の正当化)という観点から発展させたジュディス・バトラーのパフォーマティヴィティ論を参照。藤高和輝「J・バトラーのジェンダー・パフォーマティヴィティとそのもうひとつの系譜」Gender and Sexuality (12)、国際基督教大学ジェンダー研究センター、2017年、183-204頁。
https://subsite.icu.ac.jp/cgs/docs/fujitaka.pdf
ただし、仮面ライダーの変身ごっこという具体的事例をこの理論的系譜と結びつけて論じた先行研究は、管見の限り見当たらない。

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