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第4節 技術が太平洋を渡る——日本への映画受容と「見立て」の観客

映画は誕生から間もなく、日本に届いた。
明治29年(1896年)、神戸でキネトスコープが初めて公開され、同年中にリュミエール兄弟のシネマトグラフが大阪と東京でも上映された[i]。わずか1年足らずの間に、フランスで生まれた技術が太平洋を越えて日本の観客の前に現れた。その速さは、明治の日本が西洋の新技術をいかに貪欲に吸収しようとしていたかを示している。
そして「嘘をつく技術」もまた、間もなく日本に根づくことになる。
 
「日本映画の父」と呼ばれる牧野省三の明治末期の撮影現場で、偶然の事故が起きたと伝えられている。フィルムを交換する間に役者の一人が用を足しにその場を離れ、気づかないまま撮影を再開したところ、現像してみると人物が忽然と消えていた[ii]
この事故はメリエスがストップトリックを発見した経緯と、構造的に同じだ。偶然の失敗が、映像の新しい可能性を開いた。
「中止め(なかどめ)」と呼ばれるようになったこの技法は、やがて尾上松之助を主演とする忍術映画の量産へとつながった。日本独自のトリック映画の系譜が、ここに始まった。

しかしこの黎明期のトリック映画は長くは続かなかった。忍術映画は子供たちに熱狂的に受け入れられたが、真似た子供の怪我が続出したことや松之助との確執もあり、牧野省三は1921年(大正10年)、「興行映画の製作をしない」ことを条件に日活を退社。等持院境内に牧野教育映画製作所を設立し、教育映画の製作へと転換した[iii]。日本における最初の「特撮映画」の時代は、こうして幕を閉じた。

この盛衰の中に、一人の若者がいた。
1919年(大正8年)、18歳の円谷英二が天然色活動写真株式会社(天活)に入社し、映画界へと踏み出した[i]。天活の撮影技術部門の中心人物だった枝正義郎は忍術映画のトリック撮影で名を馳せた技術者であり[ii]、円谷は枝正のもとで撮影・現像・編集など映画製作の基礎を習得した[iii]
この事実は重要な意味を持つ。円谷英二は後に『キング・コング』と出会うことになるが、その出会いは「何も知らない者が新技術に驚いた」という話ではなかった。彼はすでに、牧野省三の忍術映画が切り開いた国内のトリック映画の系譜を、自分の手と目で知っていた。西洋から届いた技術の系譜と、日本国内で独自に発展したトリック映画の系譜——円谷英二はその二つが交差する場所に立っていた。

1932年(昭和7年)に日活太秦撮影所に移っていた円谷英二は、翌年RKO社の映画『キング・コング』と出会う[iv]。巨大な類人猿をストップモーション・アニメーションで表現したこの作品に、円谷英二は大きな感銘を受けた。彼は上映用フィルムを取り寄せ、1コマずつつぶさに検証したとされている[v]
メリエスのストップトリックからオブライエンのストップモーションへ——第2節で論じた技術の系譜は、こうして円谷英二の目に届いた。

しかしここで問いを立てておきたい。
円谷英二は『キング・コング』から何を受け取ったのか。オブライエンと同じものを見ていたのか。それとも、異なる何かを見ていたのか。
この問いに答えるために、日本の観客が映画をどのように受け取ったかという、より根本的な問題に立ち返る必要がある。

前章で論じたように、映画が日本に根づくとき、それは日本固有の文化的土壌と結びついた。活弁士という存在がその最もわかりやすい例だ。西洋の映画館では楽団が無声映画に音楽をつけたが、映像に語りをつける弁士という形式は日本独自のものだった。映画という西洋発の技術が、「語りの文化」という日本の伝統と接続したのだ。

しかしここで注目したいのは、より深いところにある観客の構造の問題だ。
第2章で見たように、江戸の見世物小屋の観客は「知っているが驚く」という逆説的な状態の中にいた。「人魚のミイラ」が作り物かもしれないと知りながら、「本物であってほしい」という欲望を持って小屋に入った。歌舞伎の観客はワイヤーの存在を知りながら、宙乗りに驚いた。「嘘だとわかっていながら体験する」——この観客の構造は、日本においては長い文化的蓄積を持っていた。

能や歌舞伎における「見立て」という美学は、この構造をさらに洗練させたものだ。「見立て」とは、あるものを別のものとして読み替える知的・詩的な操作である——茶人が庭石に山岳を見、俳人が露の一滴に宇宙を見るように。舞台においては、竹の束が林を喚起し、白い布が波を現す。観客はそれが「本物ではない」と知っている。しかし「本物ではないものを本物として読み替える」という参加の形式そのものが、日本の舞台芸術では様式として確立されていた。これは欺瞞への受動的な服従ではなく、観客側の能動的な読み替えの技術だった。

映画という技術が日本に届いたとき、この「見立て」の観客性は映画の受容をどのように形づくったか。
これは現時点では仮説として提示するしかない問いだ。しかし一つの推論は可能だ。「嘘と知りながら本物の感覚を覚える」という映画の逆説は、西洋の観客にとっては新しい体験だったかもしれない。しかし日本の観客にとっては、見世物小屋や歌舞伎の舞台で長年かけて培われてきた観客性と、構造的に響き合うものがあった可能性がある。

この仮説が正しいとすれば、円谷英二が『キング・コング』から受け取ったものは、オブライエンが作り出したものと完全に同じではなかったかもしれない。牧野省三の忍術映画で培われた国内のトリック映画の感覚と、歌舞伎・見世物が育てた「見立て」の観客性——それらが円谷英二の中で西洋の技術と結びついたとき、その技術は別の何かへと変容する条件をすでに備えていた。
それが何であったかは、第5章「ゴジラとは何者か」で明らかになる。


注釈・参照文献・ウェブサイト
日本における映画の最初の公開については諸説ある。明治29年(1896年)神戸でのキネトスコープ上映を起点とする説と、同年大阪・東京でのシネマトグラフ上映を起点とする説がある。岩本憲児編『日本映画史叢書① 日本映画の誕生』(森話社、2011年)を参照。
[ii] 水口薫「京都の映画の昔と今」『立命館大学アート・リサーチセンター研究紀要』第1号(1999年度)、53–61頁。
ただし、同論文自体が『確証はない』と留保している伝承的エピソードである。
[iii] 水口、前掲論文。


[i] 『平成24年度日本特撮に関する調査』第2章10頁。メディア芸術カレントコンテンツのウェブサイト下記ページでダウンロードできる。https://mediag.bunka.go.jp/article/tokusatsu_report-916/
[ii] 国立映画アーカイブ『五郎正宗孝子伝』解説
[iii] 国立映画アーカイブ「生誕120年 円谷英二展」公式ページ
[iv] 『平成24年度日本特撮に関する調査』第2章11頁。
[v] 同上。

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