第1節 量産という体制——ミニチュアから産業へ
前章の最後に、本書はミニチュア特撮を一つの「技術」として論じ終え、
その技術が東宝という組織の中で「どのように体系化され、量産される一つの産業へと育っていったのか」を、次章の課題として残した。
その課題に答えるためには、まず一つの体制を、できるだけ具体的に見る
ことから始めなければならない。1本の映画を成立させるための技術は、
すでに前章までに確認した。しかし1本の映画を、2本、3本、10本と作り
続けるためには、技術だけでは足りない。そこには、技術を運用する人間
たちの体制——だれが何を決め、だれが何に口を出さず、だれとだれが衝突するかという、組織としての構造が必要になる。
『ゴジラ』の成功は、本多猪四郎・円谷英二・田中友幸という三人を、一回限りの出会いから、繰り返し呼び戻されるチームへと変えた。この章でこれから見ていく『空の大怪獣ラドン』(1956年)、『モスラ』(1961年)、『三大怪獣 地球最大の決戦』(1964年)は、いずれもこの体制の産物
である。だとすれば、まずこの体制そのものの内側を見ておく必要がある。それは果たして、後から見えるような、安定した協業だったのか。
第1節 量産という体制——ミニチュアから産業へ
本多猪四郎と円谷英二が本格的な特撮作品として初めて一つの作品を共に手がけたのは、『ゴジラ』より1年前、1953年公開の戦争映画『太平洋の鷲』だった[i]。山本五十六の半生を軸に太平洋戦争の開戦から敗戦までを描いたこの作品で、本多は監督を、円谷は特殊技術を担当した。その関係は翌1954年の『ゴジラ』へとそのまま引き継がれた。
本章が新たに問うのは、この「コンビ」が、一本の傑作を生んだ偶然の出会いから、10年以上にわたって怪獣映画を量産し続ける一つの体制へと変わっていく過程である。
その体制を支えたのは、本多・円谷の二人だけではなかった。プロデューサーの田中友幸は、企画立案から予算管理、撮影スケジュールの調整までを
統括し、『ゴジラ』を一作限りの企画に終わらせず、続く怪獣映画群へと
発展させた中心人物だった[ii]。脚本面では、『ゴジラ』と『ゴジラの逆襲』を手がけた村田武雄に続いて、1961年の『モスラ』以降は関沢新一が東宝
特撮の主要な脚本家として加わり、『キングコング対ゴジラ』、『三大怪獣 地球最大の決戦』、『怪獣大戦争』などを担当した。
監督・特技監督・プロデューサー・脚本家——この四者が固定された配置として繰り返されることで、東宝の怪獣映画は、一本ごとに体制を組み直す
単発企画から、一つの製造工程を持つ産業へと変わっていった。本章で扱う三作品は、いずれもこの工程の上に成立している。
しかし、この体制を「協業」という言葉で要約してしまうと、見えなくなるものがある。
円谷の沈黙——技術の独占という統治
円谷英二の現場には、一つの際立った特徴があった。円谷は、特撮班が撮影した未編集のラッシュフィルムを、特撮班以外の人間には決して見せなかった[iii]。
この秘匿は、本多にも例外なく及んでいた。両者は長年のコンビでありながら、本多が目にするのは、ラッシュフィルムではなく編集完了後のフィルムだった[iv]。撮影を担当した有川貞昌は、本多からラッシュを見せてほしいと頼まれ、円谷との間で板挟みになることがしばしばあったという。円谷組でキャメラマンを務めた富岡素敬は、この秘匿の理由について、編集前の失敗したカットを他人に見られ、悪い評判が立つことを円谷が恐れたためではないかと推測している[v]。
音楽を担当した伊福部昭も、同様の経験を語っている。円谷はラッシュの
段階でさえ、特撮部分だけを白抜き——何も写っていない白いコマ——の
ままつないでおくことを平気で行っていた。『ゴジラ』の作曲にあたっても、円谷は特撮場面の映像を見せず、「あそこからぐわーっとゴジラが出てくるんだよ」という口頭の説明だけで済ませようとした。伊福部はこれでは音楽の設計が立てられず、困惑したという[vi]。
ここで確認しておくべきことは、この秘匿が、円谷個人の気質の問題にとどまらない、という点である。本多との編集作業においては、円谷は綿密な
打ち合わせを行い、明確な方法論を本多と共有していた[vii]。つまり円谷は、誰とも協業できない孤立した職人ではなかった。むしろ、何を誰に見せ、何を見せないかを、その都度、自らの判断で統御していた。特撮という工程そのものが、円谷の手の中で完結する、もう一つの独立した制作単位として機能していたことになる。
本多・円谷・田中・関沢という四者の配置を、対等な協業の体制として描くなら、この事実は奇妙な余白として残る。技術の中核を握る者が、その技術の過程を他のスタッフから遮断していたという事実は、「体制」という言葉が示唆する円滑な分業のイメージと、必ずしも一致しない。
「おとなしすぎる」という評価——プロデューサーと監督の緊張
体制の内側にあったもう一つの緊張は、円谷との関係ではなく、プロデューサーとの関係に現れている。
1962年、本多は『妖星ゴラス』の監督を依頼された際、プロデューサーの
田中友幸から、次のような言葉を受けたことが、本多自身の日記に記録されている。「あなたの演出はおとなしすぎるという意見が多く、この作品の
監督を任せるについても強い抵抗があった。その辺を十分に考えて返事を
してもらいたい。どうしても、そういう演出が出来ないというなら断って
くれていい。前々からそういう意見があって、私もそれには同感だ」[viii]。
この時点で本多は、すでに『ゴジラ』『空の大怪獣ラドン』『モスラ』を
含む数多くの特撮映画を監督し、東宝の看板作品を支えてきた中心人物
だった。それでも田中は、本多の演出を「おとなしすぎる」と評し、辞退を勧めるに等しい言葉を投げかけている。これは、田中が本多を単純に重用していたわけではなく、両者の間にも具体的な評価上の緊張が存在したことを示す記録である。
この緊張は、本多のその後の評価史にも影を落としている。映画評論家・
切通理作は、本多について、長らく「クラフツマン(職人)」としてしか
評価されてこなかったと指摘する。映画の黄金期であった1950年代、黒澤明のような「アーティスト」が作品としての映画を作る一方で、本多のような監督は、映画会社の求めに応じて手早く手堅く撮る存在とみなされてきた。怪獣映画もまた、怪獣ブームに便乗しようとする会社の意向に従順であったがゆえの産物であり、ブームの終焉とともに本多の監督生命も終わった——という見方が、長く通説として流通してきた[ix]。
切通はこの通説に異を唱え、本多がもともと「科学好き」であり、会社の
意向に単に従ったのではなく、誠実に工夫を凝らして怪獣映画やSF映画を
撮り上げたのだと再評価している[x]。
ここに、本章が向き合うべき一つの緊張関係が浮かび上がる。田中友幸は、本多を「おとなしすぎる」と評しながらも、本多を中心とした体制を十年
以上にわたって維持し続けた。本多自身は、会社の意向に従順な職人では
なく、怪獣映画というジャンルに誠実に向き合う作り手だった。この二つの
評価——プロデューサーが下した当時の評価と、後年の評論家が下した
再評価——は、同じ本多猪四郎という一人の人物について、まったく異なる像を結んでいる。
どちらが正しいかを、ここで確定的に判定することはできない。本多の日記に残された田中の言葉は、当時の現場における具体的な評価として確実な
事実である。一方、切通の再評価は、後年の研究を通じて積み重ねられた、根拠ある推論である。両者が同時に成立し得ること自体が、この体制の複雑さを物語っている。
体制の産物としての三作品——次節への問い
本多・円谷・田中・関沢という配置は、こうして見れば、決して摩擦のない円滑な協業ではなかった。円谷は技術の過程を自らの手の中に閉じ込め、
田中は本多の演出力に公然と疑問を投げかけ、本多自身の評価は、当事者
たちの間でさえ一致していなかった。
それでも、この体制は十年以上にわたって機能し続けた。なぜか。
その理由は、これらの緊張が、互いの領分を奪い合う対立ではなかったと
いう点に求められる。円谷が統御していたのは、特撮という技術の実行過程——ラッシュを誰に見せ、いつ完成形を披露するかという、技術の手の内
そのものだった。円谷はこの領分に本多を立ち入らせなかったが、逆に本多の演出や物語の組み立てに口を挟むこともなかった。同様に、田中が問題にしたのは本多の演出の強度であり、それは企画統括者としての領分から発せられた評価だった。田中は本多を「おとなしすぎる」と評しながらも、本多を演出の座から外すことはなく、また自らが演出に手を出すこともなかった。
つまりこの体制は、各々が自分の管轄を統御し、相手の管轄には踏み込ま
ないという、暗黙の境界線によって支えられていた。緊張は消えなかったが、その緊張は体制の機能不全には至らず、むしろ各々の領分における判断の自律性を保つ形で、十年以上にわたる量産を可能にした。本多・円谷・
田中・関沢という四者は、互いを完全に信頼し合う仲間ではなく、それぞれの持ち場を守ることで初めて共存できる、緊張を内包したまま動き続ける
機構だったと言える。
『空の大怪獣ラドン』、『モスラ』、『三大怪獣 地球最大の決戦』——本章で扱うこれら三作品は、いずれもこの、内部に緊張を抱えた体制から生み
出された。
だとすれば、次に問うべきことは、この同じ体制が、なぜ三つの異なる作品において、三つの異なる意味を怪獣に担わせることになったのか、という点である。ラドンが壊した街と、モスラが壊した街は、同じ体制が作ったミニチュアでありながら、まったく異なる社会的眼差しを背負っていた。
次節では、この二つの作品を並べて見ることから始める。
[i] Brandon Daake. "Godzilla and World War II: Long Live the King of Monsters" National WWII Museum. Published August 15, 2024. Accessed June 27, 2026.
[ii] 田中友幸のプロデューサーとしての役割については以下を参照。中島紳介「本多猪四郎と戦争・ゴジラ・原水爆 「101年目の本多猪四郎」特別編(上)」Ishiro Honda.com
[iii] 伊福部昭「特撮映画の音楽」『東宝特撮映画全史』(東宝株式会社、1983年12月)、伊福部昭公式ウェブサイトにて全文公開。
[iv] 真鍋公希「『空の大怪獣ラドン』における特撮の機能——怪獣映画の「アトラクション」をめぐって」『映像学』第99号、28頁。日本映像学会、2018年1月。
[v] 東宝ゴジラ会編『特撮 円谷組 ゴジラと東宝特撮にかけた青春』(洋泉社、2010年)所収「第二章 円谷組スタッフインタビュー INTERVIEW1 富岡素敬」。
[vi] 伊福部、前掲。
[vii] 真鍋、前掲28頁を参照。
[viii] 本多の日記からの引用。中島前掲論考に収録。
[ix] 切通理作『本多猪四郎 無冠の巨匠』(洋泉社、2014年)。
[x] 同上。切通理作「無冠の巨匠 本多猪四郎(第五回)」Ishiro Honda.com
