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第1節 正義の味方、月光仮面

前章では、東宝という組織が怪獣映画を量産する体制へと育っていく過程を見た。しかし怪獣だけでは、まだ「特撮ヒーロー」というジャンルは成立しない。怪獣に立ち向かう者、怪獣と拮抗する力を持つ者が現れて初めて、
この国の子供たちが半世紀以上にわたって夢中になり続けるジャンルが生まれる。その最初の設計図は、東宝の特撮スタジオではなく、まったく別の
場所——予算不足に追い詰められた小さな広告代理店の窮余の企画から引かれた。

第1節       正義の味方、月光仮面

『月光仮面』が生まれた経緯は、思想からではなく、放送枠の危機から
始まっている。

1957年11月から、KRテレビ(現・TBSテレビ)は宣弘社を番組代理店と
して、10分間の帯番組形式のコメディー時代劇『ぽんぽこ物語』を放送していた。しかしこの番組は翌年2月での打ち切りが決まり、スポンサーであった武田薬品工業が降板しそうになる。武田薬品と縁の深い広告代理店であった宣弘社は、放送枠を維持するため、その後釜としてのテレビ番組を急遽
企画しなければならなくなった[i]。

この時点で、KRテレビ側が提示した制作予算はわずか10万円だった。その後交渉によって15万円まで増額されたものの、テレビ番組の制作費としては非常に少ない金額だった[ii]。そこで宣弘社社長の小林利雄は、この予算不足を自社制作によって補うべく、広告制作会社であった宣弘社プロダクションに、新たにテレビ番組制作部門を設立することになる[iii]。

企画の方向性を決めたのも、まず小林だった。小林は「スーパーマンみたいなヒーローにしよう」と語ったとされる[iv]。一方、川内康範もまた、当時
アメリカのテレビドラマを輸入することで金が外国に流れていることを苦々しく思っており[v]、これに応える形で映画製作者の西村俊一を小林に引き合わせ、新しい番組企画に取り組むことになった[vi]。

つまり『月光仮面』は、思想が先にあって形になった作品ではない。予算難という現実的な制約、アメリカ製ヒーローへの対抗という産業的動機、
そして川内個人の宗教的素養——この三つが、ほぼ同時に一つの企画へと
収斂した産物である。

川内康範自身の出自は、この収斂において小さくない役割を果たしている。川内は1920年、北海道函館の日蓮宗住職の家に生まれた。実家は寺院を持たず、生活は貧しかったという[vii]。その後、日活を経て[viii]、1941年に東宝演劇部へ入社し、やがて撮影所の脚本部に転属、特撮や人形劇映画を担当
した経歴を持つ[ix]。『月光仮面』という名称自体、薬師三尊の脇侍である
月光菩薩(がっこうぼさつ)に由来する[x]。日光・月光の両菩薩は、単体で作られた像がほとんど確認されておらず、常に本尊である薬師如来の脇に
控える存在として造形されてきた。川内はこの「脇仏」という位置づけに、自らのヒーロー観を重ね合わせたとされる。

この点について、川内自身が後年、次のように語った証言が残っている。

「月光仮面は月光菩薩に由来しているんだけど、月光菩薩は本来、脇仏なんだよね。脇役で人を助ける。月光仮面もけっして主役じゃない。裏方なんだな。だから「正義の味方」なんだよ。けっして正義そのものではない。この世に真の正義があるとすれば、それは神か仏だよな。月光仮面は神でも仏でもない、まさに人間なんだよ」[xi]。

ここには、単なるヒーロー設定の解説を超えた、一つの明確な哲学がある。人間は、どれほど正義に殉じようとも、「正義そのもの」にはなり得ない。せいぜい、その側に立とうとする「味方」でしかあり得ない——この謙抑的な自己規定が、主題歌の一節「月光仮面のおじさんは 正義の味方よ善い人よ」に結晶し、以後の日本の特撮ヒーロー像全体を規定する型となった。
作品のキャッチフレーズであった「憎むな、殺すな、赦しましょう」も
また、この哲学と地続きのものである。悪人を滅する(殺す)のではなく、懲らしめて改心させるという月光仮面のスタンスは、敵対者を絶対悪として排除する物語文法とは異なる、独自の倫理を作品に与えた[xii]。

『月光仮面』は放送開始とともに社会現象化した。平均視聴率は40%、最高視聴率は67.8%を記録し、月光仮面の真似をする子供の姿が日本中で見られ、放送時刻には銭湯から子供の姿が消えたとまで言われている[xiii]。

ここで、一つの慎重な留保を挟まなければならない。「正義の味方」という言葉そのものは、川内康範の造語ではない。

この点は、しばしば誤って伝えられてきた[xiv]。しかし実際には、「正義の味方」という表現は19世紀後半から存在する語である。徳富蘇峰の『国民之友』誌の記事[xv]や内村鑑三の著作[xvi]にたびたび用いられているほか、多数の用例が確認されている[xvii]。創作物のヒーローを指す用法としても、永松健夫の漫画『黄金バット』が、『月光仮面』以前に「正義の味方」という語をたびたび用いていたことが分かっている[xviii]。さらに、童話作家の森三郎が1935年に使用した例が現在確認できる最も古いものだ[xix]。

つまり、「正義の味方」という言葉そのものは、川内が発明したのではない。しかし、この事実は川内の功績を否定するものではない。むしろ問う
べきは、既存の言葉に、川内が何を付け加えたか、という点である。

「正義そのものにはなれない、あくまでその側に立とうとするに過ぎない」という自己限定的な意味を、この語に明確に込めたことは、川内以前には
確認されていない。この意味づけについて、川内康範事務所の公式サイトは、正義そのものになりうるのは神仏のみであり、人間はあくまで脇役にしかなり得ないとする川内自身の仏教的な思想に基づくものだったと説明している[xx]。だとすれば、川内康範の功績は「造語」ではなく「意味の再定義」にあったと位置づけるのが、事実に即した理解である。すでに存在していた言葉に、「人間は正義そのものにはなれず、せいぜいその味方でしか
あり得ない」という、戦争を知る世代特有の謙虚さを刻み込んだこと——
これこそが、川内が『月光仮面』を通じて成し遂げた仕事だった。

この謙抑的な正義観は、なぜこの時代に、この形で現れたのか。川内自身は後年、この主題を「お国のために死ぬことが正義」とされていた時代に、
その正義に殉じた人々についての記憶と結びつけて語ることはなかったが、1945年から10年間にわたって戦没者の遺骨引揚運動に従事したという川内
自身の経歴を踏まえれば[xxi]、「正義」を無条件に称揚することへの警戒が、この世代の実感に根差していた可能性は高い。ここでは、この推論を
根拠ある仮説として留保しつつ、次節では、この思想が『月光仮面』という一作品の枠を超えて、どのように業界の共有財産へと広がっていったのかを見ていく。



[i] 「月光仮面制作秘話」宣弘社公式サイト。
[ii] 樋口尚文『「月光仮面」を創った男たち』平凡社、2008年、55-56頁。
[iii] 「月光仮面制作秘話」宣弘社公式サイト。
[iv] 同上。
[v] 『’60年代 蘇る昭和特撮ヒーロー』株式会社コスミック出版、2013年、17頁。
[vi] 「月光仮面制作秘話」宣弘社公式サイト。
[vii] 函館市文化・スポーツ振興財団「川内康範〜函館ゆかりの人物伝」。
[viii] 同上。
[ix] 同上。
[x] 函館市文化・スポーツ振興財団「川内康範〜函館ゆかりの人物伝」。おたくま経済新聞「「正義の味方」第1号 誕生60年「月光仮面」の軌跡」(2018年2月24日)。
[xi] 竹熊健太郎「川内康範先生の想い出(2)」たけくまメモ、2007年3月23日。
[xii] おたくま経済新聞「「正義の味方」第1号 誕生60年「月光仮面」の軌跡」。月光仮面の「憎むな、殺すな、赦しましょう」という、罪を憎んで人を憎まず、悪人を滅する(殺す)のではなく懲らしめて改心させるというスタンスは、月光菩薩の影響を受け、「正義そのものではない」という立場を反映させたものとされる。
[xiii] 「川内康範 その代表作|月光仮面、日本昔ばなしなど」川内康範事務所公式サイト。平均視聴率は40%、最高視聴率は67.8%を記録している。
[xiv] 竹熊健太郎「川内康範先生の想い出(2)」。同記事は、主題歌『月光仮面は誰でしょう』の「月光仮面のおじさんは 正義の味方よ善い人よ」の一節を「日本最初の使用例」として紹介する。この「日本最初の使用例」という主張自体は、後述の反証により事実誤認であることに留意。
[xv] 「増刊社告」『國民之友』第8号、1887年9月15日、表紙裏側頁。複製版:『国民之友 明治文献版』1巻、株式会社明治文献、1966年、95頁(オンライン版、国立国語研究所)。「德川武士の典型」『國民之友』第87号、1890年7月3日、15頁。複製版:同7巻、13頁(オンライン版、国立国語研究所)。「大磯に於ける一週年前の事」『國民之友』第107号、1891年1月23日、16頁。複製版:同8巻、56頁(オンライン版、国立国語研究所)。『国民之友』の該当記事は無署名記事であり、徳富蘇峰個人の執筆と確認されたものではなく、同誌(徳富が主宰)掲載記事という位置づけである点に留意。
[xvi] 内村鑑三『後世への最大遺物』東京独立雑誌社、1899年、132頁(初出1894年)。内村鑑三「奇蹟の事」『宗教座談』東京独立雑誌社、1900年、83頁。内村鑑三「摂理と歴史」『独立雑談』聖書研究社、1901年、166頁(初出1900年)。いずれも国立国会図書館デジタルコレクションで本文を確認可能。
[xvii] ウィキペディア「正義の味方」。
[xviii] 作中での「正義の味方」の使用例:永松健夫『黄金バットなぞの巻』明々社、1947年、88・106頁(マンガ図書館Zインターネットアーカイブでオンライン確認可)。永松健夫『黄金バット 地底の国』明々社、1948年、1・17・97頁(同)。永松健夫『黄金バット 天空の魔城』明々社、1948年、20頁(同)。永松健夫『黄金バット 彗星ロケット』明々社、1949年、67頁(同)。永松健夫「黄金バット 科学魔篇」『黄金バット 天空の魔城・彗星ロケット』桃源社、1975年(初出1950年)、179・185・192・193頁(同)。
[xix] 森三郎「夜中」『赤い鳥』第10巻第3号、1935年9月、70-71頁——街頭紙芝居屋が黄金バットを「正義の味方」と呼ぶ場面の描写で、確認できる最古級の用例。「坊やおなじみ"黄金バット" 丸の内に現る!ビル渡り」『読売新聞東京夕刊』1950年12月18日、3面(ヨミダス歴史館)。
[xx] 「川内康範 その代表作|月光仮面、日本昔ばなしなど」川内康範事務所公式サイト。正義そのものになれるのは神仏のみであり、人間は脇役にしかなり得ないという川内の哲学に基づき、「正義の味方」という概念が広まったとされる。
[xxi] 函館市文化・スポーツ振興財団「川内康範〜函館ゆかりの人物伝」。

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