第4節 動きが語るキャラクター――能・歌舞伎の「型」という仮説
顔の表情という俳優にとっての最大の武器を封じられた状態で、スーツアクターはどのようにして感情や威厳を伝えてきたのか。この問いに答えるための補助線として、本節は能・歌舞伎における「型」の概念を、仮説として
導入したい。能には「構え」(静止した基本姿勢)と「運び」(足の動き)という基本動作があり、その上に様式化された「型」を重ねることで、
あらゆる感情と物語が表現されるとされる[i]。鈴木美潮は、スーパー戦隊
シリーズの女性キャラクターを男性スーツアクターが演じる事例を、歌舞伎の女形の発展と同じような構造を持つものとして位置づけている[ii]。
この仮説を具体的に検討するのに格好の事例が、初代ウルトラマンの必殺技「スペシウム光線」のポーズをめぐる、複数の関係者の工夫が重なり合って一つの型を形作っていった経緯である。この経緯は、当事者たちの証言に
よってたどることができる。
スーツアクターの古谷敏自身の証言によれば、光線の出し方に行き詰まっていた撮影現場で、彼がふと思い出したのが力道山の「空手チョップ」だった。これを真似て見せたところ、飯島敏宏監督の「水平の手は防御、垂直の手は攻撃」という言葉をきっかけに、右手を縦にして敵に向けるポーズが
定まったという[iii]。
ここに光学合成技師・中野稔から「手が動くと光線がぶれる」という技術的な指摘が入り、左手を右手の前に十字に交差させて固定する型が出来上がった[iv]。さらに特技監督・高野宏一からのアドバイスで、手が顔にかからないよう少し腰を落とし、カラータイマーが隠れないよう体の位置をやや右に
ずらすという微調整が加えられた[v]。
飯島監督自身も、この頃は光学合成の予算的制約が大きく、光線を安定させるために手をしっかり固定する必要があったと振り返っている[vi]。
この経緯を報じた記事には、ポーズを収めた写真に添えられたキャプションとして「スペシウム光線のポーズには、古谷氏が学んできた日舞や能の要素も含まれているそうだ」という記述もある[i]。これは古谷本人の発言の直接引用ではなく、記事側による伝聞形の説明であり、根拠ある推論の水準に
留めるべきだが、もし事実であれば、古谷個人の中に日本舞踊の素養があったことになる[ii]。
なお古谷は、そもそもウルトラマン役に選ばれた経緯について「アクションができる俳優を求められていたんですけど、僕は殺陣とかアクションができないのに選ばれてしまいました」と証言している[vii]。もっとも日本舞踊は殺陣・格闘アクションとは異なる身体技能であるため、この証言と、日舞の素養を伝えるキャプションの記述は、必ずしも矛盾しない。ただし、後者があくまで伝聞情報である以上、これを確定的な事実として扱うことは避けるべきだろう。
古谷個人の経験に加えて、より制度的な経路も参照しておきたい。東映特撮の殺陣を長らく支えた大野剣友会の系譜である。大野剣友会を1964年に設立した殺陣師・大野幸太郎は、殺陣師・大内龍生の門下だった[viii]。
この「殺陣」という言葉そのものが、歌舞伎の「立廻り」から派生した演劇史を持つ。歌舞伎の立廻りは、様式美を見せる舞踊的な要素を大切にし、
主役は要所で「見得」という静止した型を示しながら、周囲の捕手たちが
アクロバティックな動きを見せるという構成を取る[ix]。
大正10年(1921年)、剣劇集団・新国劇は、この歌舞伎の様式的な立廻りとは異なる、スピード感とリアリティを追求した格闘シーンを創り出そうとして、謡曲「田村」の伴奏による演目「殺陣」を初演した。
もっとも、この時点ではまだ「田村」の名を冠してはおらず、「殺陣田村」という演目名で定着し、「殺陣(たて)」という読み方が演劇界に広まっていったのは、そこから十五年ほどを経た1936年9月の大阪歌舞伎座公演からだとされる[x]。つまり「殺陣」という語自体が、歌舞伎の様式的な立廻りへの一種の対抗・改良として生まれた経緯を持つ。
大野幸太郎に連なる殺陣師の系譜は、この演劇史の延長線上にあり、大野
剣友会に所属した岡田勝・中屋敷哲也ら――『仮面ライダー』をはじめと
する東映特撮のスーツアクションを長年支えた俳優たち――は、歌舞伎の
立廻りから枝分かれした殺陣という技法体系を、その専門教育の出自として共有していたことになる[xi]。
この経路の性格には注意が必要である。歌舞伎の立廻りに対する新国劇の「殺陣」は、様式性への忠実な継承というより、様式性からの離脱―より
リアルな身体表現を志向した改良―として生まれたものだった。したがって大野剣友会に連なる系譜は、能・歌舞伎の「型」をそのまま受け継いだ例というより、歌舞伎という起点から一度分岐した後に、変身ヒーローという
新しい容れ物の中で再び様式化されていった例と見るべきだろう。それでもなお、この系譜が示すのは、スーツアクターという職能を支えた身体技法が、個々の演者の偶発的な工夫だけでなく、歌舞伎の立廻りに端を発する
殺陣という、日本の演劇史に連なる専門的な訓練体系を制度的な出自として共有していたという事実である。
この点を踏まえるなら、能・歌舞伎との接続は、二つの異なる強度の経路において見出しうる仮説だということになる。一つは、大野剣友会という職業訓練の系譜――そこに所属した複数のスーツアクターたちが共有していた
制度的な出自であり、複数の資料によって裏付けられている。もう一つは、古谷個人が日本舞踊の素養を持っていたという、伝聞情報に基づく、より
弱い経路である。もっとも、中島春雄の動物観察による歩行法の発明(第1節)のように、これらの経路とは無縁のところから様式を確立した例も同じ職業の中に存在する。本書はしたがって、能・歌舞伎との接続を、スーツ
アクターという職能全体に一律に適用できる系譜としてではなく、制度的な訓練体系を通じた継承と、個々の演者が持ち込んだ個人的な素養という、
強度の異なる複数の経路が並存する、複数ありうる様式的資源のひとつと
いう仮説として位置づけたい。
[i] 「知っているとより楽しめる!『能』の"型"と"動き"大研究――基本姿勢」Discover Japan、2021年2月28日。
[ii] 岡部匡志「『スーツアクターの矜恃』著者の鈴木美潮さんに聞く」美術展ナビ、2023年12月10日。
[iii] 玉城夏「『スペシウム光線』ポーズにはモデルがあった?」マグミクス、2025年6月21日。
[iv] 同上。
[v] 同上。
[vi] 「スペシウム光線のポーズが誕生した」Stereo Sound ONLINE、2019年11月19日。
[i] 「スペシウム光線のポーズが誕生した」Stereo Sound ONLINE、前掲。本文中の発言引用ではなく、記事中に掲載された写真のキャプションとして「スペシウム光線のポーズには、古谷氏が学んできた日舞や能の要素も含まれているそうだ」と記載されている。伝聞形の記述であるため根拠ある推論の水準に留める。
[ii] 古谷に日舞の素養があること自体については、次の記事で本人が東宝芸能学校で日舞を習ったと言っている。「『ウルトラセブン』放送開始45周年記念企画 - 怪獣とウルトラマンとアマギ隊員になった男・古谷敏」マイナビニュース、2012年9月30日。ただし、この記事ではスペシウム光線のポーズと日舞の関係についてはふれていない。
[vii] 「古谷敏が『ウルトラマン』を続けられたワケ…飯島敏宏氏とともに感動の撮影秘話を披露」ENCOUNT、2019年11月16日。
[viii] 岡田勝編著『[増補新版]大野剣友会伝――特撮ヒーロードラマを支えた達人たち』彩流社、2023年、162-253頁。大内との出会いから独立までの経緯が記述されている。
[ix] 「立廻り」歌舞伎の演出と音楽、ユネスコ無形文化遺産 歌舞伎への誘い。
「立廻り」歌舞伎用語案内。
[x] 小川順子「チャンバラ時代劇映画における「殺陣」の変遷」『日本研究:国際日本文化研究センター紀要』第24集、2002年、37-54頁。「創立70周年特別寄稿『東映行進曲』」note、東映株式会社公式アカウント。松竹大谷図書館の調査により、新国劇は1921年5月に大阪・浪花座で謡曲「田村」の伴奏による演目「殺陣」を初演し、「殺陣田村」という演目名が確立したのは1936年9月の大阪歌舞伎座公演からとされることが確認できる。
[xi] 壬生智裕「昭和特撮アクションを支えた『大野剣友会』レジェンド集結に海外ファンも熱視線 変身ポーズ秘話など貴重エピソードに沸く」シネマトゥデイ、2025年11月30日。
