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第5節 見せようとする衝動——前史と断絶

   怪物を語ることと、怪物を見せることは、同じではない。
 本章でここまで辿ってきた怪物たち——オロチ、グレンデル、メデューサ、饕餮(とうてつ)、ナーガ——はいずれも、言葉によって伝えられてきた。神話は語られ、聴かれ、記憶され、また語られた。怪物の姿は聴き手の想像の中に生まれた。語り手が「八つの頭と八つの尾を持つ蛇」と言うとき、その蛇を実際に見た者はいない。怪物は言葉の中にのみ存在した。

 しかし人間は、語るだけでは満足しなかった。
 見せようとした。
 その衝動は、文字の発明より古い。フランスのラスコー洞窟やスペインのアルタミラ洞窟に残された壁画——約1万5千年から2万年前以上に描かれたとされる——には、野牛・馬・鹿といった動物が躍動する姿で描かれている 。これらが儀礼的な目的を持っていたのか、単なる記録なのか、あるいは別の何かなのかは今も議論が続く。しかし確かなことが一つある。誰かが「見えないものを見えるようにしたい」と思い、岩壁に向かったということだ。

 怪物を「見せる」試みは、いつから始まったのか。
 文字記録が残る範囲で言えば、古代メソポタミアの造形物にはすでに怪物が描かれている。紀元前575年に建設されたバビロンのイシュタル門には、蛇の体と獅子の前足・鳥の後足を持つ複合怪物ムシュフシュが青い釉薬瓦の浮彫として刻まれ、シュメールの円筒印章には獅子頭の巨大な鳥アンズーが刻まれた 。これらは「語られる怪物」であると同時に、「見せられる怪物」でもあった。

 日本に目を向ければ、怪物を「見せる」装置として最も古い形式の一つが神楽だ。
 神楽は神話を演じる儀礼的な舞であり、演者は面を被り、神や怪物の姿に変容する。石見神楽の花形演目「大蛇(おろち)」では、スサノオを演じる舞手が、和紙と竹で作られた巨大な蛇胴をまとった複数の演者と舞台上で格闘する 。語り手が「オロチがいた」と言うのではない。オロチが「そこにいる」のだ。神楽においては、怪物は言葉の中ではなく、舞台の上に出現する。聴衆は怪物を想像するのではなく、目の前で見る。

 この「見せる」という行為の系譜は、能・狂言・歌舞伎へと続く。能の鬼面、歌舞伎の隈取り——これらはいずれも、「現実にはない存在」を「現実の空間に出現させる」ための技法だ。江戸期の見世物小屋はさらに直接的だった。「人魚のミイラ」といった怪物の「標本」が展示され 、観客は怪物の「証拠」を目の当たりにした。もちろんそれらの多くは作り物だったが、観客はそれを知りながら見た——あるいは、知りたくなかったのかもしれない。

 東アジアにも「見せる」文化の豊かな系譜がある。中国の皮影戯(影絵芝居)は、光と影を使って「現実にない存在」を「現実のように見せる」技法だ。薄い革や紙で作った人形を光源の前で操り、スクリーンに影を投影する。インドネシアのワヤン(影絵人形劇)もまた、神話の神々と怪物を影として出現させる。これらはいずれも「見せる衝動」の実践であり、後に登場する幻燈機や映画の原型として位置づけることができるとされる。

 ここで、一つの問いを立てなければならない。
 神楽の演者も、影絵師も、見世物師も、みな「現実にないものを現実のように見せようとした」という点で共通している。とするならば、これらはすべて「特撮の前史」と呼べるのではないか。
 呼べる。しかし、そこで話を終わらせてはならない。
 前史と本史の間には、連続性だけでなく、断絶がある。

 神楽の演者がオロチを「見せる」とき、観客はそれが演者だと知っている。人間が舞台の上で動いている——その事実は隠されていない。見世物小屋の「人魚のミイラ」が作り物かもしれないと観客は薄々知っている。皮影戯の影がスクリーン越しの人形であることは、観客には分かっている。「見せる」行為は成立しているが、「これは現実だ」という錯覚は、完全には成立していない。

 特撮はここで根本的に異なる。
実写のカメラは、現実を記録する装置だ。カメラのレンズを通じて映し出される映像は、「これは現実に起きたことだ」という感覚を、言葉では届かない深さで呼び起こす。1954年の映画館でスクリーンに映し出されたゴジラは、カメラが捉えた「何か」として観客の前に現れた。それがミニチュアと着ぐるみによって作られた虚構であることを、観客は頭では知っていた。しかし身体は知らなかった。

 プロローグで記したように、初日の観客たちは泣いた。
 神話の語り手が聴衆に「信じさせた」のとは異なる意味で、特撮は観客に「見せた」。言葉が想像を喚起するのに対し、映像は知覚に直接働きかける。「嘘だと知りながら本物の恐怖を感じる」——この逆説が、特撮という表現形式の核心にある。そしてこの逆説は、神楽にも影絵にも見世物にも、完全な形では存在しなかった。

 実写カメラという技術の発明が、「見せようとする衝動」の歴史に質的な断絶をもたらした。
 それ以前のすべての「見せる」試みは、この断絶の手前にある。神楽の演者も、影絵師も、見世物師も、幻燈機の操作者も——彼らは皆、特撮が達成することを夢見ていた実践者たちだ。しかし彼らには、実写カメラがなかった。
 では、カメラはどのようにして怪物と出会ったのか。映画という技術が生まれ、特撮という表現形式が誕生するまでの歴史を、次章では辿る。

締め

 最後に、一つの問いを立てて本章を閉じたい。
 怪物のいない神話は、存在するか。
 おそらく、存在しない。少なくとも、記録に残る人類の神話の中に、怪物も異形の存在も持たない神話体系は見当たらない。どの社会も、秩序の外側に何かを置いた。その「何か」に形を与えたとき、怪物が生まれた。怪物は社会の産物であり、社会がある限り怪物は生まれ続ける——本章の議論はそこに行き着く。

 しかしもう一つ、問いを加えたい。
 怪物を退治しない神話は、存在するか。
 本章で見てきたように、答えは「存在する」だ。ナーガは崇拝され、ヨルムンガンドルはトールと相打ちになり、荒魂は祀られることで和魂へと転じる。「怪物を退治して終わり」という物語は、数ある応答様式の一つに過ぎない。それが「当然の結末」に見えるとすれば、私たちがすでにある特定の秩序観を内面化しているからだ。

 特撮はこの問いを、1万年の時を経て映像の上に蘇らせた。
 ゴジラは倒されるべきか。ウルトラマンは怪獣を倒してよいのか。仮面ライダーは怪物に改造された自分自身をどう引き受けるのか。これらは子ども向けの娯楽作品における単純な問いではない。神話の時代から人間が繰り返し問い続けてきた問い——怪物とは何か、怪物にどう応じるべきか——の、最も新しい形だ。

 怪物の発明は、1万年以上前に始まった。
 その発明は、まだ終わっていない。


注釈・参照文献・ウェブサイト
1 ラスコーは約1万7千年前、アルタミラは約1万4千〜1万9千年前と推定されている。
2 イシュタル門の復元品はベルリンのペルガモン博物館(中近東博物館)に所蔵されている。ムシュフシュはシュメール語で「怒る蛇」を意味し、バビロニアの創世神話『エヌマ・エリシュ』にも登場する。はシュメール語でズーとも呼ばれ、天命の石版を盗む怪鳥として『アンズーの神話』に記される。
3 石見神楽「大蛇(おろち)」(島根県西部・石見地方に伝わる伝統芸能)。大蛇の舞手は和紙と竹で作られた蛇胴の中に身体を隠して舞う。通常4頭、大きな会場では8頭以上の大蛇が登場し、スサノオと格闘する場面が演目の中心をなす。
4 倉敷芸術科学大学「人魚ミイラの実態解明/圓珠院所蔵『人魚のミイラ』研究最終報告」(2023年2月7日公開)https://www.kusa.ac.jp/news/2023/02/20230207mermaid.html


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