第4節 英雄は怪物を必要とするか——退治しない神話のこと
前節までの議論で、一つのことが明らかになった。怪物の形と機能は社会が決める。「英雄が怪物を倒す」という構造は世界中に存在するが、その意味は文化によって根本から異なる。
ここで、さらに踏み込んだ問いを立てたい。
「英雄が怪物を倒す」という物語の型は、どこまで必然なのか。怪物は必ず退治されなければならないのか。英雄は必ず怪物を必要とするのか。
まず、逆から問うてみよう。英雄なき怪物は存在するか。
答えは明白だ。存在する。
前節で見たナーガに英雄は現れない。ヨルムンガンドルとトールは相打ちになり、どちらも「英雄が怪物を征服する」という図式には収まらない。中国の龍に至っては、退治される怪物ですらない。世界の神話を見渡せば、英雄なき怪物——あるいは英雄と怪物の二項対立に収まらない存在——は至るところにいる。
では、怪物なき英雄は存在するか。
これは難しい。英雄という概念は、何らかの困難・試練・敵対者を必要とする。試練のない英雄は英雄ではなく、ただの人間だ。その意味で「英雄は怪物(あるいは怪物に準じる何か)を必要とする」という命題には一定の妥当性がある。
しかしここで注意が必要だ。「英雄は試練を必要とする」ことと、「英雄は怪物を退治しなければならない」ことは、同じではない。
1954年に公開された映画『ゴジラ』 を考えてみよう。
初代ゴジラには、実質的な意味での「英雄」が存在しない。自衛隊はゴジラに歯が立たない。科学者の山根博士はゴジラを研究対象として見つめるが、倒そうとはしない。唯一ゴジラを倒せる可能性を持つ芹沢博士は、その兵器「オキシジェン・デストロイヤー」の使用を最後まで拒み続ける。そして彼がとる行動は、ゴジラを「征服」することではない。芹沢博士は海に潜り、ゴジラとともに海底に沈む。兵器の秘密が悪用されることを恐れ、自らの命とともにその知識を葬るために。
芹沢博士はゴジラを倒したのか。それとも道連れになったのか。
「英雄が怪物を征服する」という図式で1954年の『ゴジラ』を読もうとすると、どこかに無理が生じる。芹沢博士の行為は「征服」ではなく「自己犠牲」であり、「勝利」ではなく「道連れ」に近い。ゴジラは倒されるが、人類は勝利しない。生き残った者たちに残るのは、喪失感と、次のゴジラへの恐怖だ。
なぜ1954年の日本が、英雄なき怪物の物語を必要としたのか。その答えは第5章で詳しく論じる。ここで確認しておきたいのは、「英雄が怪物を征服する」という物語の型が、怪物語りの唯一の形式ではないという事実だ。
視野を広げれば、「怪物を退治しない物語」は神話の世界にも豊富に存在する。
先に触れたヨルムンガンドルとトールの相打ちは、「英雄が怪物に勝利する」物語ではなく、「英雄と怪物が共に滅びる」物語だ。北欧神話のラグナロクは、神々と怪物の双方が滅びる「世界の終わり」として語られる。英雄の勝利も、怪物の征服も、そこにはない。
あるいは、怪物が「退治される」のではなく「鎮められる」神話も多い。日本の神道においては、荒ぶる神(荒魂)は征服によって排除されるのではなく、適切な祀りによって鎮められ、恵みをもたらす存在(和魂)へと転じるとされた 。力ある存在を滅ぼすのではなく、その力を祀ることで共同体の側に取り込む——「征服」ではなく「鎮魂」によって秩序を作るという発想は、「怪物を退治して終わり」という図式とは根本から異なる。征服ではなく、共存と鎮魂——これもまた、日本の神話と神道が選んだ「秩序の作り方」の一形態だ。
ここで、コーエンの言葉を思い出したい(前掲)。怪物は「文化の産物」であり、怪物を読むことは文化を読むことだ。そして「怪物をどう処遇するか」——退治するか、共存するか、祀るか、道連れになるか——もまた、文化を読む手がかりになる。
「英雄が怪物を退治する」という物語の型を自明の前提として受け入れるとき、私たちはすでにある特定の文化的秩序観を内面化している。怪物は倒されるべき悪であり、英雄は共同体を守る善の代理人であり、その対決は善の勝利で終わらなければならない——この図式は、一つの世界観の産物だ。
この問いは、本書が後に論じることになるいくつかの主題と深く結びついている。なぜウルトラマンは地球外からやってくるのか。なぜ仮面ライダーは怪物に改造された人間なのか。なぜゴジラは時代によって「倒すべき怪物」にも「守るべき存在」にもなるのか。これらの問いはすべて、「怪物をどう処遇するか」という本節の問いの延長線上にある。
怪物は英雄を必要としない。しかし人間は、怪物への「応答の様式」を必要とする。退治するか、共存するか、祀るか、道連れになるか——その選択が、その社会の秩序観と倫理観を映し出す。
特撮はこの「応答の様式」を映像として見せてきた。怪物への応答を可視化し、スクリーンの前の観客に問いかけてきた——あなたならこの怪物をどうするか、と。
しかし、映像として「見せる」ためには、まず「見せる技術」が必要だった。次節では、怪物を「見せようとする」衝動の歴史を辿る。
注釈
日本の神道における荒魂(あらみたま)・和魂(にぎみたま)の概念。同一の神が荒ぶる側面(荒魂)と穏やかな側面(和魂)を持つとされ、荒魂を適切に祀ることで和魂として働くと考えられた。この神観念は記紀神話全体に通底しており、「征服」より「鎮魂」を重んじる日本的秩序観の基盤をなす。
