「衛生」という言葉は誰がつくった?長与専斎と近代日本のはじまり
シリーズ:人物・制度編
はじめに──「衛生」と聞いて、何を思い浮かべますか?
「衛生」と聞くと、多くの方は手洗い、うがい、アルコール消毒といった日常の習慣を思い浮かべるのではないでしょうか。バイ菌を殺して清潔を保つこと──私たちにとってあまりにも身近な概念です。
しかし、この「衛生」という言葉、日本人が大昔から使っていたわけではありません。実は明治時代、ある一人の人物がヨーロッパで出会った「国づくり」の最新概念を日本に持ち帰るため、中国の古典をひもといて掘り起こした言葉なのです。日常のすぐそばにある二文字に、近代国家誕生のドラマが隠れています。


「衛生」は明治の官僚がつくった言葉だった
結論から申し上げると、「衛生」という言葉を現在の意味で世に送り出したのは、明治政府の官僚であり医師でもあった長与専斎(ながよ・せんさい)です。
長与は、西洋諸国で「Hygiene(公衆衛生)」と呼ばれていた行政制度の訳語を探し求め、中国の古典『荘子』にある「衛生」──すなわち「生(いのち)を衛(まも)る」という言葉に行き着きました。
ここで注目すべきは、長与が目指したのは単なる「清潔術」の紹介ではなかったという点です。「衛生」とは、国境や都市を疫病から守り、国民一人ひとりの健康を国家がシステムとして支えるための国家プロジェクトの合言葉でした。個人の養生ではなく、国の骨格をつくる概念だったのです。
ヨーロッパで見つけた「目に見えない防壁」
時は明治4年(1871年)。長与専斎は、岩倉具視を団長とする岩倉使節団の一員としてヨーロッパに渡りました。当時30代半ばの若き医師にとって、欧州の近代都市は驚きの連続だったといいます。
ベルリンやロンドンの街を歩くと、地下には張りめぐらされた下水道があり、市民の家には浄化された水道水が届いていました。街路のゴミは組織的に回収され、処理される仕組みが整っています。日本ではまだ想像もつかないような都市基盤が、当たり前のように機能していたのです。
さらに長与が注目したのは、コレラをはじめとする伝染病対策が、個々の医師の努力ではなく、行政の制度として運営されていたことでした。ヨーロッパの国々には「Hygiene(ヒギエーネ)」や「Sanitary(サニタリー)」と呼ばれる行政部門があり、上下水道の整備、食品の安全管理、検疫、統計調査といった幅広い分野を一手に管轄していました。
長与はこのとき、一つの確信を得ます。「欧米列強の強さは、軍艦や大砲だけにあるのではない。国民の命と健康を、国がシステムとして守る仕組みにこそある」──そう悟った長与は、日本にも同じ仕組みを根づかせようと決意しました。目には見えないけれど、国を内側から守る"防壁"を日本にもつくる。それが、帰国後の長与を突き動かした使命でした。
『荘子』から見つけた「生を衛る」という響き
ヨーロッパから持ち帰った構想を日本で実現するためには、まず「Hygiene」にふさわしい日本語の訳語が必要でした。新しい制度を国民に説明し、法律に組み込み、役所の名前にするには、しっくりくる言葉がなければなりません。
長与は、さまざまな候補を検討したといわれています。「保養」「健康」「養生」──いずれも日本語として馴染みのある言葉でしたが、どれも「個人が自分の体を大切にする」というニュアンスに留まり、国家全体で国民の命を組織的に守るというスケール感にはどうしても届きませんでした。
そこで長与がたどり着いたのが、中国の古典『荘子』庚桑楚(こうそうそ)編に登場する「衛生」という語です。もともとは道教的な思想のなかで「生を衛る」、つまり個人が自らの生命を養い長寿を全うするという意味合いで使われていました。
長与はこの古い言葉に、まったく新しい魂を吹き込みます。「生を衛る」の主語を「個人」から「国家」へと読み替えたのです。国が国民の生命を衛る制度──その理念と響きを「衛生」の二文字に込めました。古典の教養と西洋の行政知識が交わった、見事な翻訳の仕事といえるでしょう。
こうした長与の尽力が実を結び、明治8年(1875年)、内務省に「衛生局」が設立されます。初代局長に就任したのは、もちろん長与専斎その人でした。ここに、日本で初めて公衆衛生を専門に扱う行政機関が誕生したのです。

コレラとの戦い──「衛生」が人々に届いた瞬間
「衛生」という言葉が制度の名前として定まったとはいえ、それだけで一般の人々に広く浸透するわけではありません。言葉が本当の意味で社会に根づくきっかけとなったのは、皮肉にも恐ろしい伝染病の流行でした。
明治時代の日本を繰り返し襲ったコレラ──当時の人々は激しい下痢や嘔吐で「コロリ」と倒れることから、この病を「コロリ」と呼んで恐れました。特に明治10年代には大規模な流行が何度も発生し、数万人規模の死者を出しています。
この危機に対し、発足間もない衛生局は近代的な対策を次々に打ち出しました。清潔な飲み水の確保、井戸やつぼの消毒の徹底、そして感染者の隔離と届出の義務化です。これらはヨーロッパで学んだ公衆衛生の手法を日本の実情に合わせて実行したものでした。
国を挙げた伝染病との戦いのなかで、人々は「衛生」という言葉を繰り返し耳にするようになります。「衛生上の注意」「衛生検査」「衛生組合」──お上から届く通達や、町内で回覧される文書のなかに、この二文字は何度も登場しました。「衛生」は、人々にとって「国から言われる感染症対策・清潔のルール」として、暮らしの中に染みこんでいったのです。
恐怖と隣り合わせの日々のなかで、「衛生」は単なる行政用語の枠を超え、「清潔にすること」「病気を防ぐこと」を意味する日常の言葉へと変わっていきました。
個人と国家が交差する「清潔」──現代の私たちへ
現代の私たちも、インフルエンザが流行するたびに「手洗い・うがいを徹底しましょう」「衛生観念を持ちましょう」という呼びかけを耳にします。それは自分自身の健康を守る行動であると同時に、周囲の人や社会全体を感染から守るための行動でもあります。
この「個人の健康と社会全体の安全が、ひとつの行動でつながっている」という感覚は、まさに長与専斎が「衛生」という言葉に込めた思想そのものです。一人ひとりが手を洗い、清潔を保つことが、やがて国全体の強さにつながる──150年前に長与が願ったその構図は、驚くほど今の時代にも通じています。
私たちが蛇口をひねって水を出し、石鹸で手を洗うという何気ない動作の背後には、近代日本が国の形をつくっていく過程で生まれた壮大なドラマが横たわっています。「衛生」の二文字は、そのドラマの記憶を今も静かに伝えているのです。

まとめ──「衛生」は国づくりの合言葉だった
「衛生」という言葉は、明治の医師・官僚である長与専斎が、ヨーロッパの公衆衛生制度「Hygiene」を日本に導入するために、中国の古典『荘子』から見出した訳語でした。「生を衛る」という古い言葉に「国家が国民の命を守る制度」という新たな意味を与え、明治8年に衛生局を設立。コレラとの戦いを経て、「衛生」は日本人の日常に深く根づいていきました。
今度、洗面所のハンドソープのボトルやパッケージに「衛生」の文字を見かけたら、ほんの少しだけ思い出してみてください。この国を強くしようと、海を渡り、古典をひもとき、新しい言葉をつくって奔走した、明治の一人の医師の姿を。
参考文献・出典
長与専斎 - Wikipedia (※信頼性は完全ではありませんが、一般的な概要を把握するための参考情報として妥当と判断して掲載しています)
その他、「衛生」という言葉が『荘子』に由来する点など、近代日本の公衆衛生史に関する一般的な公開知識に基づいています。
本記事は、公開されている歴史的な情報や一般的な知識をもとに作成しています。
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