外の広い世界へ漕ぎ出す日
カチャリ、とリードが首輪に嵌まる金属音が、我が家の静かなリビングに響いた。
ワクチンも去勢手術も終わり、ついに家という温かい守りから出て、外の世界へ漕ぎ出す日がやってきた。
「よし、行こう」
私は帽子を被り、リードをしっかりと握りしめて玄関のドアを開けた。
そのとき、私の頭の中に自分自身についての不安や緊張は一ミリもなかった。10年間の引きこもり生活のことや、会社を退職して傷ついていたことなんて、綺麗さっぱり忘れていた。ただただ、目の前の小さな命を無事に守ること、それだけに100%集中していた。
けれど、いざアスファルトの上に降り立ったとき、足元で予想外の事態が起きた。
我が家の小さな怪獣が、一歩も前に進まなくなってしまったのだ。
初めて見る広い世界、通り過ぎる車の音、流れる風の匂いに圧倒され、尻尾を丸めて地面に張り付くように固まってしまった。
(車に怖がって、突然パニックになって走り出したらどうしよう)
(あそこから何かが飛び出してきて、この子が傷ついたらどうしよう)
私の頭の中は、愛犬の安全への心配と責任感だけでいっぱいになった。
ただ、私は驚かなかった。事前にネットなどで「柴犬は警戒心が高いから、最初の散歩では慎重になる子も多い」という知識を得ていたからだ。
リードを無理に引っ張るような野暮なことはせず、「早く歩きなさい」と急かすこともしなかった。
アスファルトの上にしゃがみ込んで愛犬と同じ目線になり、彼が周囲の匂いをクンクンと嗅ぎ、ここが安全な場所かどうかを確かめるのを、のんびりと眺めることにした。
やがて、少し安心したように彼が小さなマーキングをした。その様子を、私はただひたすら、彼が外の環境に慣れるのを待った。そうして、記念すべき一回目の散歩は、とても慎重に、静かに幕を閉じた。
しかし、本当の驚きは二回目の散歩で訪れた。
前回の固まりっぷりが嘘のように、彼は怖がる様子をゼロにして、玄関を飛び出していったのだ。
どうやら、外の広い世界をすっかり気に入ってしまったらしい。
「ここは僕の場所!」と主張するように、楽しそうにクンクンと匂いを嗅いでは、頻繁に片足を上げておしっこをしている。
「あぁ、この子は散歩が、外の世界が、大好きなんだ!」
嬉しそうに尻尾を振って歩く小さな背中を見つめながら、私は確信した。
ただ目の前の小さな命を守るために必死だった、あの最初の五分間。焦らずに彼のペースを待った時間が、僕たちの「外の世界への扉」を確かに開けてくれたのだ。
「散歩が好き!」という彼のあふれんばかりのエネルギーに引っ張られるようにして、私たちの毎日の大冒険が、ここから本格的に始まっていく。
