宝の話をしよう。その4
☀︎☀︎☀︎
いったん漫画を描かなくなって、また描くようになった宝。漫画は前以上の熱量で描いているように見える。でも、様子がおかしい。
……作風が変わった気がする。
具体的に言うと、ヒロインの描き方が違う。登場頻度が上がってよく喋るようになった。ネットで感想を検索してみると、ヒロインが可愛い、前より魅力的になった、と軒並み高評価である。
新キャラは、黒髪好きの宝にしては珍しいことに、白抜きの巻き毛美少女。
今日も今日とて、寮の折り畳み机で漫画を描いている宝に尋ねる。
「宝、なんかあった?」
「なんで?」
「女を描くの上手くなったよなぁって」
「あー、勉強したんだ。色々とね」
「色々と」
その詳細を聞きたいところだが、話したくないなら無理は言うまい。
✒︎✒︎✒︎
自分から勝負を挑んでおきながら、漫画バトルに負けた。
流石である、宝瑛来。ほぼ即興で、オチと一貫性のある四本の四コマを出してきた。かわいいキャラクター、面白いセリフ、笑えるオチ、美しい構成。明らかに私の負けだった。
でも、宝瑛来は……スグルくんは、私の漫画を褒めてくれた。
お試し期間だろうけど、私と付き合うって言ってくれたのだ。私の漫画がつまらなかったら、こんな展開にはならなかったはずだ。
良いものを作れば、彼は必ずそれを評価する。彼に並ぶものを作ることができれば、結婚してもらうことだって夢ではない。そのことがよく理解できた。漫画を基準に生きている男なのだ。
ファミレスから帰ったあと、兄お手製おやつ、ラズベリーパイを食べた。一緒に食器を洗いながら、なんでもないように言う。
「あのね、お兄ちゃん。ボーイフレンドができたよ」
皿を軽く振って、水切りする兄。手際よく布巾で拭く。
「へえ。新しいお友達か」
「恋人だよ」
ガチャッ。
兄は皿をシンクに落とした。
「恋人?」
「漫画家の宝瑛来先生」
眉間に皺を寄せ、兄はタオルで念入りに手を拭いた。
ぐっ、と強い力で私の肩を掴む。
「求、未成年と交際するような悪い大人と関わってはいけない。次からはお兄ちゃんが一緒に行きます」
「宝先生は一個上の高校生だよ」
「高校生? 高校……宝瑛来が高校生?」
「うん」
「『カラルダドゥン』の? 『永遠と絶命』の? 『椎名の轟』の?」
「百合漫画の名作『輝美、Tell Me!』、『幻想文学 インマヌエル』の宝瑛来でもある」
「自称高校生なのかも」
「高校の寮に住んでるって」
「26歳の高校生かも」
「疑うなぁ」
「本当に高校生か確かめたい。今度うちに招待しなさい」
「嫌。お兄ちゃん、色々文句言うでしょう」
皿を洗い終わったので、ごちゃごちゃ言っている兄を無視してキッチンを出た。
自室に戻ると、ソファーに転がって、スグルくんにメールを書いた。
「お兄ちゃんがスグルくんに会いたいって言ってる。でも、シスコンだから会わない方がいいと思う」
すぐに返信が来た。
「妹を心配するのは当然だ。今はちょっとハードル高いけど、今度時間作って挨拶するよ」
えへへ。嬉しいな。こんなに順調だなんて、調子に乗ってしまいますよ。汗ばむ手でメールを打つ。
「連載忙しいと思うけど、いつでもいいから……デートしてくれる?」
返信を待つ時間が妙に長く感じた(実際は三分ほどであった)。
「いいよ。今週は早く上がりそう。資料写真撮りたいし、遊園地行こうか」
遊園地。少女漫画二百冊を研究し尽くした私には分かる。
お化け屋敷でスグルくんと密着したり、観覧車でキスしたりするイベントが発生するんだ。
足をバタバタさせて喜びに浸った五分後、ハッとしてメールを読み返す。資料写真?
カラルダドゥンの世界観で遊園地は、多分出てこない。
つまり。
宝瑛来の……っ、新作!!!!!!
高速で文字を打つ。
「もしかして、新作?」
「うん。ホラー雑誌に誘われて読み切り描く。遊園地の話にしようかなって」
宝瑛来の描くホラー漫画が読めるんですか?
デートのことよりも、そっちの方が気になって仕方がない。でも、あまり色々聞いたら困らせてしまうだろう。我慢我慢。
指が勝手にメールを送信していた。
「いつ掲載されるの?」
「二ヶ月後かな。参加予定してた作家が描けなくなって、代わりに描くことになったんだ」
あと60日程度待てば宝瑛来の新作が読めるわけか。
枕に顔を押し付けて叫んだ。
今が人生で一番楽しい時かもしれない。幸せすぎて不安になる。
漫画だったらデート当日に死ぬのではないか。
天井を見上げて放心していると、また着信があった。
「待ち合わせ場所どこにする? バスターミナルでいい?」
スグルくんとバスに乗って遊園地に行くんだ…………。
すごく……いい……。
メールの返信を忘れていることに気づいたのは、三十分後のことだった。
宝瑛来の漫画に出てくるヒロインはたいてい、黒髪か茶髪で、胸が大きい。
一方私は、プラチナブロンドの巻毛に、男の子と間違われるような少年体型である。たぶん、健全な男子高校生であるスグルくんの好みとは真逆にある。
母が巨乳なので将来的にプロポーションは改善される見込みなのだが、それまでにフラれては意味がない。
イギリスから持ってきたハイブランドの中で、一番かわいい服を選んだ。真っ白でふわっとした薄手の生地に、上品なフリルが装飾されている。見せる予定はないけど、下着も上下新品。気合いは十分だ。
お兄ちゃんの不満そうな視線を軽やかにスルーして、つま先立ちで踊りながら廊下を通り抜ける。
「いってきまーす」
十五分早くバスターミナルに着いた。ベンチに腰掛けているスグルくんは、小さなノートにバスや歩行者の絵を描いている。
真剣な眼差しだ。かっこいい。
スグルくんが私に気づいて、笑顔になった。ノートを上着のポケットに押し込んで、手を挙げている。
彼の動作すべてが魅力的に思えた。
一緒にバスに乗る。
窓から外を見ていると、通路側の席に座っているスグルくんは、さっきのノートを取り出した。
「天海を描いてもいい?」
「いいよ」
窓の外に目を向けながら、スグルくんの視線を感じていた。
宝瑛来が私を描いてる……。すごい……。
感動して涙が出そうだったけれど、堪えた。
バスを降りる前、スグルくんは完成した絵を見せてくれた。
すごく美人に描かれている。
「ありがとう。嬉しい。でもちょっと美化しすぎかも?」
「見たまま描いたつもりだけど」
スグルくんは不思議そうな顔をしながら、二人分のバス料金を投入口に落とした。遊園地の入園料もさらっと払うつもりかもしれない。私の分のお金は後でまとめて渡そう。
「こう見えてるの?」
「うん」
「そうなんだ……」
顔がかぁっ、と熱くなった。
降車する時、スグルくんは外の様子を伺って安全を確認した後、先に降りて、私に手を差し出してくれた。
スグルくんの手。憧れの宝瑛来先生の手。それを今掴んだわけである。
バス停の近くに遊園地の案内板があった。手を繋いだまま、人の流れに合わせて、案内板が示す方向に進む。
音にフィルターがかかっている。周りの話し声は聞こえない。
私に歩幅を合わせて、少しゆっくり歩いているスグルくん。街路樹や、空や、石畳や、遊園地から出てきた子どもが揺らしている風船を観察している。風に乗って聞こえてくる、アトラクションの音や、歓声。売店のチュロスやフライドポテトの香り。感じるもの全部を漫画にしようとしている。
宝瑛来は、想像していた通りの人だ。
彼の作る漫画と同じだ。
不器用で、情熱的で、優しい人だ。
宝瑛来が、スグルくんが、好きだ。
私のこと、大好きになってほしい。でも、彼の一番大好きなことは漫画を描くことで、私はずっと二番手にしかなれない。
だから、私は彼よりもすごい漫画を描かなければいけないの。
ずっとずっと、注目されたいから。彼の視線を私のものにしたいから。
頭が、クラクラしてきた。太陽が眩しい。目が霞む。
足が上手く前に進まない。石畳のちょっとした段差につまづきそうだ。スグルくんはすぐに気づいて、歩みを止めた。
「天海、大丈夫か?」
顔がヒリヒリして、目が痛い。スグルくんの顔がよく見えないけれど、心配してくれているのは、分かる。
「太陽が、苦手で……」
邪魔になると思って、帽子や日傘を置いてきたのは失敗だった。スグルくんは上着を脱いで私の頭に被せると、遊園地の入り口手前にあるベンチまで連れていってくれた。屋根があるので、少し楽になる。
「水買ってくるから、待ってて」
目を閉じて、休憩する。上着からスグルくんの匂いがした。
自販機で水を二本入手したスグルくんが戻ってきた。上着吸引中の私に困惑している。
「え、臭う?」
「ううん。大丈夫。この匂い好き」
「帰ったら念の為洗うよ……。これ、水」
スグルくんはキャップを軽く捻ってから、ボトルを手渡してくれた。
水を飲むと、生き返った心地がした。ため息がこぼれる。
「スグルくんは……優しいね」
「ルームメイトの道端は俺より断然いいやつだぜ。いつも漫画手伝ってくれるんだ。締切が近い時は、飯も用意してくれる。道端の人のよさが俺にもうつったのかもな」
それは道端くんもスグルくんのことを好きだからだよ。いいな、道端くん。スグルくんと一緒の部屋に住めて。
初デートなのに、私、遊園地の前で座ってる。
お化け屋敷でスグルくんにしがみついたり、ティーカップで遠心力に耐える限界に挑んだり、ジェットコースターで叫んだり、観覧車でキスしてもらったり、少女漫画で予習した憧れのシチュエーションを達成する予定だったのに。
私はいつも、ここぞというときに、体調が悪くなってしまう。
遠足の時も、運動会の時も、ヴァイオリンの発表会も、全部全部、最後まで参加できなかった。きちんとやり切れたのは、絵を描くことだけなんだ。
だから、いつも、ひとりぼっちなんだ…………。
スグルくんが、私の隣に座った。もう一本のペットボトルを開けて、水をごくごく、一気に半分くらい飲んでいる。
キュッ、と蓋を閉めて、立ち上がった。
「天海、歩けそうか?」
「うん……でも、ごめんなさい。遊園地は無理かも……」
涙で視界がぼやけて、スグルくんの表情が見えない。
スグルくんは、からっとした声で言った。
「遊園地はやめた。水族館のホラー漫画描く」
「水族館?」
「薄暗いし、水がたくさんあるし、不気味な海の生物もいるし、ホラーにピッタリじゃん。遊園地より良いのが描けるよ」
もう一度バスに乗って、水族館に行った。
大きな水槽の前に二人で立つ。銀色の魚が背鰭を煌めかせて、視界を過ぎ去る。
青いライトに照らされているスグルくんの横顔を見ながら、やっぱり好きだなぁ、と思った。どんどん好きになるの。
私の視線に気づいたスグルくんは、こちらを見て微笑んだ後、ぎょっと目を見開いた。
「天海、ちょっと」
暗がりまで手を引かれる。スグルくんが私の頬に顔を寄せたので、キスされるのかと思ってドキドキしていたら、小声で言われた。
「ブラックライトに当たると、その服下着の形が透けて見える。ごめん。プラネタリウムにすればよかった」
プラネタリウムのホラー漫画、描けるかな……とスグルくんがぼやく。思い切り笑ってしまった。
「水族館、楽しいよ。大丈夫」
売店に行き、イルカのキャラクターがプリントされているシャツを買った。トップスをトイレで着替えて、腰にはスグルくんに貸してもらった上着を巻いた。
「その服、似合うよ」
トイレから出てきた私を見て、スグルくんは言った。
「それは今日最初に会った時に言うべきセリフだったね」
「そうだった。言いそびれた」
約二ヶ月後。水族館を舞台にしたホラー漫画が無事に紙面に載った。
恋人と水族館デートに来た男が、気づいた時には水槽内で恋人に鑑賞される深海生物になっていた。恋人のとなりには、真っ暗な目をした自分がいて、深海生物に人生を奪われたことに気づく。
ありがちなストーリーだ。ただし、絵面や演出が凄まじく過激で恐ろしかった。
漫画を読んだお兄ちゃんは「もうカニもイカも魚も食べたくない……」と言って、我が家の食卓からは半年間、魚介類が消えた。
リビングのソファにもたれて、メールを書く。
「水族館の漫画、面白かった。今日のお兄ちゃん、魚が怖くなって、スーパーの生鮮食品のコーナーすら避けてる」
スグルくんから返信。
「読んでくれてありがとう。自分でも深夜に描いてたら怖くなっちゃって、気晴らしにプラネタリウムの漫画も描いたんだ。ペン入れてないけど、よかったら読んで」
添付ファイルをクリックすると、水族館の漫画とも、『カラルダドゥン』とも違う、繊細で美麗なタッチの漫画があった。
水族館の漫画には既存のホラー漫画の影響を色濃く感じる箇所があったが、これは完全に新しい表現の漫画だった。
宝瑛来の新境地だ。何が彼をこれほど変えたのか、その理由に思い当たった時、私の胸は張り裂けんばかりに痛くなった。
たまらなかった。メールなんかじゃダメだ。居ても立っても居られず、電話をかけた。
「スグルくん。プラネタリウム読んだ。ありがとう。でも私、ワガママで臆病な女の子なんだよ。カラルダドゥンに出てくるような、勇気があって、健康で、献身的なヒロインじゃないんだよ。本気で私を大好きになんかならないでよ。漫画のことばかり考えて、私のことなんかそっちのけで漫画描いてよ。私はね、すごい漫画をいっぱい描いて、スグルくんの視線を釘付けにするんだ。私がまだ何もしないうちから、こんなに好きになったらダメだよ!」
プラネタリウムの漫画は愛の告白だった。
主人公の少年はクラスメイトの少女と一緒にプラネタリウムを見る。広い広い宇宙の中で、少年と少女だけになる。少年は少女だけを見ている。
遠い宇宙の彼方を見つめる少女の瞳の中には、私たちの住む星があって、その星の中に、私たちの生活がある。そこで少年は少女を追いかけ、その手を掴む。その少女の目の中に、少年の姿が映りこむ。その映り込んだ少年の目の中にはまた、少女が映り込んでいる……。
スグルくんはしばらく何も言わなかった。たっぷり一分ほど待つと、静かな声が聞こえた。
「初めて出来た彼女なんだよ。どんなに好きになったって、しょうがないだろ?」
「私も好き。スグルくんが大好きなの。どんどん好きになる」
目頭が熱くなって、大粒の涙が頬を伝う。
スグルくんの小さく笑う声が聞こえた。
「ぼくっ娘の演技、もうやめたんだ?」
