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沖縄からの風便り14

ミニホラー小説


本文
 爪の先から、白が抜けていく。
 朝、洗面台の鏡を見た。自分の顔が、ひどく遠い。蛇口から落ちる水滴の音が、耳の奥で、金属を叩くように響く。間隔が、少しずつ、伸びている。
 廊下の奥に、その部屋はある。
 ドアはいつも、指一本分だけ、開いている。
 鍵の錆びた匂い。湿った畳の匂い。そこから漏れ出す空気は、冷たい。通るたび、首筋の産毛が逆立つ。見てはいけない。そう思いながら、視線はすでに、その細い闇の線をなぞっている。
 視界の端で、何かが動いた。
 いや、動いてはいない。ただ、そこに「ある」のだ。
 影よりも濃い、黒。それは音を立てずに、こちらをじっと見つめている。目はない。形もない。ただ、視線だけが、皮膚をチクチクと刺す。
 自分の足元を見る。
 影が、廊下の板張りに深く沈み込んでいた。まるで、床の裏側に吸い込まれていくように。
 一歩、踏み出す。
 私の身体の半分は、もう、こちらの世界にいない。
 机に向かい、ペンを握る。
 ノートに書き連ねたはずの自分の文字を見る。……読めない。
 それは、見知らぬ国の、見たこともない部族が使う古い記号のようだった。インクの線が、まるで生きている黒い虫のように、紙の上でわずかに蠢いている。意味が、頭をすり抜けて消えていく。私が書いたのに。これは、誰の言葉だ。
 背後で、かすかな音がした。
 ――ピチャリ。
 水気が爆ぜるような、小さな、湿った音。
 ゆっくりと振り返る。
 廊下の奥、半開きの部屋の隙間が、いつもよりほんの少し、広がっている気がした。
 そこから、黒い指のようなものが、敷居をまたいで這い出し始めている。いや、指ではない。それは、境界線を越えてこちら側に滲み出してきた、名付けようのない「影」の先端だ。
 恐怖はなかった。ただ、胸の奥を冷たい風が吹き抜けるような、名前のつかない不安だけが肥大していく。
 私はペンを落とした。転がる音すら、もう聞こえない。
 立ち上がり、吸い寄せられるように、その半開きの部屋へと歩を進めていた。
 ギィ、と低い軋みを上げて、ドアが完全に開いた。
 部屋の中は、どこまでも深い闇。ただ、その中心から、声が聞こえる。
 ――おぎゃあ、おぎゃあ。
 赤ん坊の泣き声だった。たった一人で、暗闇の床に転がされて泣いている。
 私の足は、迷わずに敷居をまたいでいた。
 その瞬間、自分の身体が完全に「あちら側」の闇に溶けるのを感じた。爪も、肌も、これまでの私の記憶も、すべてがほどけて消えていく。私はもう、元の私ではない。
 けれど、不思議と恐ろしくはなかった。
 闇の奥へ手を伸ばす。小さな、温かいぬくもりに指が触れた。
 言葉を失くし、別の生き物に変貌した私の腕の中で、赤ん坊の泣き声が、ピタリと止まる。
 見上げると、半開きのドアの向こうに、さっきまで私がいた「元の世界」の廊下が、ひどく遠く、小さく見えた。
 私はもう、あの廊下へは戻らない。
 新しい身体で、胸の中の小さくて確かな重みを抱きしめながら、私は静かに、暗闇の奥へと沈んでいった。

#閾 (しきい)
#長い廊下
#深い闇
#知らない言語
#あちら側に赤子
#生まれ変わる私

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