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なんでもかんでも言語化しなくていい 。哲学とは"言語化しない善意"のこと

こんにちは!いけかよです。

わたしは、お金をもらって文章を書く「ライター」という仕事をしています。
また、書きもの以外にも、文章についての講座をしたり、お客さんとお話することなども重要なお仕事なので、「言葉」というものとは切っても切り離せない人生を送っています。

言葉は自分の頭のなかを整理したり、時には表現したり、そして自分の考えや感情を他人に伝えるときにとても便利に使える道具です。
これらの行為を「言語化」といいます。
辞書的にも、言語化とは「頭の中にある曖昧な思考や感情、感覚を整理し、自分や他人に伝わる明確な言葉にすること」とあります。

しかし、昨今はこの言語化は“ブーム”ともいえる流れがありますよね。
こと、ビジネスの現場では、クリティカルシンキング&言語化の二刀流が求められているように感じます。

この流れは、明確にコロナ禍が影響しています。
対面でのコミュニケーションが制限され、わたしたちはチャットなどでのテキストコミュニケーションに多くのリソースを割かれました。また、ミーティングもオンラインになり、“空気”が共有されず、かつ時間も制限されているなかで、それまでよりももっと「必要なことを的確に明確に手短に」言うことが、わたしたちには求められるようになりました。

なんか、書いてるだけでちょっとしんどくなってきたよ…。

そう。言語化って、しんどいんです。
それは、言葉を商売道具にしているいけかよですらそう思います。

もちろん、クリティカルシンキング&言語化はすっごく大事です。
でも、近年は「言語化ハラスメント」なんていう言葉も聞かれるようになりました。ググってみてください。いっぱい記事が出てきます。
簡単に言うと、「とにかく言語化しろ」「言語化できない奴はだめなやつ」「言語化できるやつがデキるやつ」という風潮が蔓延している、ということです。

これらを鵜呑みにして「言語化言語化って言うな!」とキレちゃうのももちろん違うんですけど、ただ、いけかよはなんでもかんでも言語化すればいいってもんではない派に1票投じたいと思っているのです。

今回は、そんなおはなし。


言語化の落とし穴?

そもそも、言語化できるとなにがよいのか?
日本人には「空気を読む」とか「察する」とかいうある種の特殊能力があると言われていますが、それだけだといろいろ不具合が生じるので、言葉を使って意思疎通をしています。
なので、日常的なコミュニケーションにおいて、言葉がとても便利な道具であるということは事実です。

しかし、わたしたちの感情や思考というのはとっても曖昧で、なかなか言葉にするのが難しい場合も多いはず。
そんなときに、バシッと的確に言語化できると、めっちゃ気持ちよくってスッキリします。
特にこれがちょっと苦しい感情だったりすると、それは「カタルシス(浄化)」と呼ばれます。
言葉には、こんなふうに「すっきりさせる」という効果があるんですよね。
いけかよは、それが得意な自覚がありました。

「それって、◯◯◯◯ってことですよね?」
「そう!そのとおり!」
「(よっしゃー)」
って、心のなかでガッツポーズしてました。

でも、最近、とある人に衝撃的なことを言われたんです。

それは「言語化がうまい人は自分を騙すのがうまい」ということ。

がびーーーーん!!

でも同時に「わかるー!」の気持ちもあったんです。

物書きのお仕事をしていると、頭や心に浮かんでいる「なにか」を言葉という形にするために、なかば「絞り出す」ような作業が発生するときはやっぱりあります。
自分的にはドンピシャじゃないけど、とりあえずは言葉にしないと伝わらないから、それに近しい言葉をなんとなくあてがう、という作業です。

お仕事でなくっても、みなさんも他人とのコミュニケーションにおいて同じように「なんとなくあてがう」をやったことがあるんじゃないでしょうか。

いけかよは、自分が文章を書いているとき、言葉にした瞬間からちょっと嘘が混じるような感覚がときどきあったことは否めません。
また、文章は考えながら書けるけど、会話においてはじっくり考えているわけではないことも多いから、会話のときはより「若干の嘘が混じる感覚」はあります。

でも、もちろん嘘をついてるわけではありませんし、相手を騙すつもりもありません。
じゃあなんでそんな事が起きるかと言うと、曖昧で抽象的で表層には浮かんできていない考えや感情を、明確に自覚したり表現したりするためには、わたしたちのボキャブラリーは圧倒的に乏しいんじゃないかと思うからです。
そして、曖昧で抽象的でわかりにくい感情や考えを表現するための言葉そのものが、圧倒的に少ないような気もしているのです。

だからって、日常的に「自分は嘘をついているのだ」「本当は言いたいことはこれじゃない」と自分を監視しながら生きていたらわたしたちは狂ってしまいます。
だからこそ、乏しいボキャブラリーでなんとなくあてがった言葉で自分を納得させて、スムーズなコミュニケーションを保っている。
そうこうしているうちに、あてがった言葉を自分の本心だと思うようになっていく。
言語化してすっきりして納得している状態です。

これが「言語化がうまい人は自分を騙すのがうまい」ということだと、いけかよは捉えています。

言語化とは、固形化のこと

結局、言語化とはなにかというと、モヤモヤした形のない思いや思考を無理矢理「固形化」するような行為だと感じています。
しかし、そもそも人間の気持ちはそんなにシンプルじゃないですよね。
事実や真実というのは基本的にはシンプルなんだけど、それにまつわる人間の気持ちっていうのはそんなにシンプルじゃないと思っています。
「好き」にもいろんなグラデーションやバリエーションがあるし、「嫌い」もしかり。

だから無理矢理言語化すると言うのは、時にけっこう乱暴な行為のような気がしているんです。
もちろん明確に言語化する方が良い事はあります。例えば仕事の場面ならば、担当者それぞれがやるべきことを明確にしないと回りませんから、言語化は有効に働くでしょう。

でも、そこで働いている人間の感情や社内のややこしい事情や状況など、いわゆる「しがらみ」みたいなものはなかなか言語化しづらい場合も多いと思うんです。
いろんな人の事情や感情や私利私欲なんかも混ざっている。
ビジネスとしてそれが必ずしも良いわけではないと思います。でも、そのビジネスを回しているのは人間だから、複雑な感情が渦巻くことからは逃れられません。
だから、例えば「俺はあいつが嫌いだ」とか「あいつはだめなやつだ」って明確に言語化しちゃったら、それってあまり良い状況ではないですよね。

これが、言語化=固形化が乱暴に働く、わかりやすくて極端な例です。
「俺はあいつが嫌いだ」「あいつはだめなやつだ」って思いながら仕事して、うまくいくわけがないからです。

じゃあポジティブな固形化だったらいいのか?
「あの人は信頼できる」「あの人はシゴデキ」とかでしょうか。
でもそれも、なにかハプニングがあれば簡単にひっくり返ってしまうものかもしれません。

そう考えると、人の感情も状況も、刻々と変わっていくものだから、言語化という固形化する働きとは、そもそも相反するものなのかもしれません。

これは良いとか悪いとかではなく、そういう性質のものだということです。
どんどん変わっていくものと、固形化するもの。もちろんわたしたちには両方必要なはずなのです。
だから、いけかよは言語化するときは、いつも「暫定」だと思っておきたいのです。

人とのコミュニケーションを考えたとき、言語化は、それがほんとにドンピシャで正しかったらいいけど、そうじゃない時のほうが多いかもしれません。
また、それを人に押し付けたり、事実をねじ曲げてしまうような危険性を孕んでいるとも思うんです。
その対象は、前述のように自分を騙す場合もありますね。

哲学とは、答えを出さない善意

だから、いけかよは何でもかんでも言語化すればいいってもんじゃないと思っているのです。
すべてを明るみにして、つまびらかにするのが正しいわけでもないし、触れないほうが良いこともあるし、答えを出さない方が良いことだってあるはずなのです。

ていうか、そうあってほしいと思うのです。

その理由のひとつめは前述のように言語化ってけっこうしんどいから。

そしてもうひとつは、自分のなかにある、言葉にしづらい思いや思考を、言葉にしないまま大事に持っておくって、けっこう大事だと思っているからです。
そこにはモヤモヤするしんどい気持ちだけじゃなくて、感動とか、愛みたいなものとか、勇気みたいなものとかの、力強いものもたくさんあります。
そして、言葉にならないそれらの思いや感情は、固形化しないまま置いておくと、ちゃんと熟成されて然るべきときに然るべき形で表現されるんじゃないかなぁと思っているのです。

これは、いけかよの完全に都合のいい理論なんですけど(笑)、なんとなく自信があります。
自分のなかのなにかの欲求が爆発してすごいクリエイターになる、みたいな発露の仕方かもしれないし、我慢しきれずにブチ切れる、みたいな行為かもしれません。
でも、それらもどちらが良いとか悪いとかでもないと思っています。いずれにしても、人間というのは表現せずには生きられない生き物だから。

こういうのって、とても人間らしくて自由でクリエイティブだなって感じます。

そんな人間らしい表現の発露の場所として、いけかよは「哲学バー」をやっています。

ここではプラトンやらソクラテスやらの話は一切出てきません。
お酒片手に、オンラインで、テーマに沿ってみんなでゆるく好き勝手に喋るだけのイベントです。

哲学バーのルールは2つだけ。「答えを出さない」「まとめない」です。
実は成り行きでできたルールなんですが、回数を重ねるごとに、これって意外と真理だなぁと思っていて、だから今は意図的に「答えを出さない」「まとめない」をやっています。

そしてこの「答えを出さない」「まとめない」というのは、優しさなんじゃないかと思っています。

答えを出すというのは、言語化です。つまりは、その場にいっぱい出てきたみなさんのいろんな言葉や感情を「固形化」するということ。そして、それはつまり正解もしくは不正解を決めちゃうということです。でも、それって一時的にすっきりはするけど、けっこう乱暴なことだよなぁと思うし、優しくないし愛じゃないなぁと思うんです。

事実は1つだけど、真実は人の数だけあっていいと思っています。だから、哲学バーでは答えは参加者それぞれの中に好き勝手にあればいい。
その余地を残すために、あえて答えを出さない。つまり固形化しないというのは、わたしはひとつの「善意」だと思っているんです。

いけかよは哲学が好きですが、それは学問としての「哲学」ではなく「哲学する」という行為を指しています。哲学すること、思考することには、終わりがないし答えがない。それが好きなんです。
言語化するというのは、ひとつの「終わり」でもあります。ちらばったものをまとめて固めることだから。

固形化するということは、いろいろなものを削ぎ落とすということでもある。わかりやすくてすっきりするけど、時にそれってすごく単純で残酷で余白がない感じ、とも言えます。言語化することにこだわってしまうと、そこに何だか愛がなくなっちゃうような気もするんです。

でも、それがまた壊れたり溶けたりして、わたしたちは懲りもせず言語化をし続けていきます。
その先でまた言語化しないという「善意」もある。哲学は答えを固形化しない「言語化しない善意」であるというのはそういうことです。

だから、自分は言語化に自信がない…という人は、それがコンプレックスと思われる方もおられるかもしれません。でも、見方を変えれば愛を持って状況を観察している人、ともいえるんじゃないかと思っているのです。

そしてなにより、言葉はわたしたちの表現の道具の1つにすぎません。
黙っていることだって、表現なんです。
言語化にこだわるよりも、いま自分が何を感じているかをしっかりつかまえて、自分のありたい方法で存在し、生きていくことができたら素敵です。

どんなあり方もあって然るべきです。
歌うでも踊るでも食べるでも笑うでも、時に黙る、でも。

そうやって生きることが、ほんとの「表現の自由」っていうのかもしれません。

では、また!

【おしらせ】次回の哲学バーは8/3(月)!

というわけで、もしあなたも自分の中からなにか発露させたいと感じたら、哲学バーに遊びに来ませんか?
ここではあなたの表現欲求を刺激してくれるいろんなトークが飛び交います。
お申込みはこちらから。

あなたのご参加おまちしています!

Text by いけかよ(よむエラマ編集長/エラマプロジェクトCPO)

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