魏志倭人伝2:邪馬台国よ・・・何処に
魏志倭人伝の唯一の不思議は、邪馬台国の場所が特定できないことです。
それは、習俗、その他の記述を疑うことのできる資料が私たちの側に無いので、信じざるをえないためです。
ところが、邪馬台国の位置に関しては、まず単純に、魏志倭人伝の言うところに従うと、日本列島を飛び出し、遥か南のフィリピン辺りに達するという結果になるのです。
それが非常識なため、魏志倭人伝の道程記述は間違いだとされています。
そこで、どう間違えたかを吟味する段階で、
歴史界で常識的に使われている「大和政権」の大和と邪馬台の韻が似ているので、「邪馬台国畿内説」だと言う意見
(もちろん、そんな単純な理屈を並べると、怒られそうですが・・・)
いや北九州にあったとする「邪馬台国北九州説」の対立が生まれました。
私は学者でないので、どちらが正解かは判断できません。
しかしながら、自分なりに少し考えたのが、以下の記述です。
まず、魏志倭人伝に出てくる距離の単位「里」ですが、1里は果たしていくらなんでしょうか?
手がかりとして、対馬国〜一大国(壱岐とされています)を千余里と記していますので、これを手掛かりにします。
対馬〜壱岐間は約63kmですので、約千里=約63kmとしました。
そうしますと一里=63mとなり、この数字を元に距離を見ていきます。
朝鮮半島南端の地、狗邪韓国〜対馬国〜一大国(壱岐)〜末盧国(現代の佐賀県松浦とされる)はそれぞれ、千余里としています。
この航路を使って、朝鮮半島から九州に着きました。
これから陸上移動で不弥国を目指します。
ややっこしいので下の図を見てください。

どうも、不弥国の位置は2箇所考えられそうです。
一つは伊都国を現代の糸島付近とする、地名を尊重したAルート。
もう一つは素直に魏志倭人伝の文言通りにプロットしたBルートです。
末盧国〜伊都国は南東に陸行五百里とありますから、約31.5kmです。
次に、伊都国〜奴国は南東に百里ですから、約6.3kmです。
次は奴国〜不弥国は東に百里となっていますので、約6.3kmです。
ご覧のようにAルートでは博多付近となり、Bルートでは佐賀県鹿島市辺りになります。
A・Bのその中間あたりに吉野ヶ里遺跡があり、邪馬台国北九州説の根拠となっています。
しかしこのA・Bの違いは、その後の展開を考えると、大したことではありません。
次に不弥国〜投馬国は「南へ水行二十日」とあります。
ここで細かい計算になりますが、対馬〜壱岐63kmを、水行一日としますと、舟は24時間航行するとして、一時間あたり約3km(約1.6ノット)は大変ゆっくりですが、古代の帆船では妥当なスピードと考えましょう。
では20日水行だと、1260km航行することになります。
そして着いた投馬国は海の上になります。
さらに、投馬国〜邪馬台国は「南へ水行十日、陸行一月」となっており、
南へ、水行63kmx10日+陸行24km/日x30日=1350km 進みます。
おかしなことですが、海の上を歩くことになります。
それを下の図で示しました。

この様に、魏志倭人伝の道案内通りに行くと、私の設定では邪馬台国は大和どころか、はるか南方のフィリピン辺りの国となります。
非常識ですよね。
魏志倭人伝には、もう一つ、邪馬台国と思える国の位置について触れているところがあります。
内容は「帯方郡から女王国までは一万二千里である」としています。
そこで、これを私なりに検証した図を下に載せました。
図には、全行程12,000里から帯方郡〜末盧国までの、行程10,000里を引くと残り2,000里です。
そこで末盧国から半径2,000里の円を描きました。

そうしますと、円は北九州全域を囲み、その中に吉野ヶ里遺跡も入りますが、大和には届きません。
ここで注目点として、末盧国から不弥国までに現れる国は、全て北九州にあることです。
そして、本州に触れている部分はありません。
また、国といっても伊都国・奴国・不弥国の間はわずか6.3kmしかなく、「国」の規模は現代の「村」程度にしかならない事になります。
このように、周辺の「国」の規模から類推しますと、邪馬台国の規模は、せいぜい現代の地方「市」程度だと見るのが妥当でしょう。
そして魏志倭人伝に現れる「倭」の国々も北九州に限られることから、「倭国大乱」の範囲も、北九州内での揉め事と捉えるのが自然だと思えます。
とても大八洲(北海道、沖縄を除く日本列島)全域を巻き込んだ「倭国大乱」とは想像できません。
しかしながらもう一方で、同時期、大和には「前方後円墳を築造できる勢力」が居たのです。
これをどのように理解すべきでしょうか?
ここからは素人の私の、現時点での結論です。
1)邪馬台国は確かに北九州にありました。
2)しかし、同時期、大和にも邪馬台国を凌駕するような勢力(大和政権と私たちが読んでいる)が存在していました。
そして、お互い共存していました(共栄の意思があったかは分かりませんが)。
更に、当時の日本列島には、邪馬台国規模の勢力が各地に点在していました。
3)すなわち、「邪馬台国」と「大和政権」は全く別の勢力で、それぞれ北九州と大和にあった、というのが私の現在の仮説です。
話は戻しますが、上で、邪馬台国への道程記述が支離滅裂で、たどり着けない、と書きました。
主な原因の大元は、下記の文章です。
「南至投馬國、水行二十曰。」や
「南至邪馬壹國。女王之所都、水行十日、陸行一月。」を
この文言通り、連続で水行・陸行すれば確かに、遥か南洋の太平洋の海中に到達することになりますが、
例えばこの部分を帯方郡の書記に喋った人物が漢人行商人だったとすると、
「一度行商に倭に入れば、南の方に、船で川を遡上したり、海を移動し、時には徒歩で移動して商取引をするので、帰ってくるのは1〜2ヶ月になる。」と証言した可能性も考えられます。
その場合は、彼はあちこちの国邑を巡って話し込むため、移動距離は一日ごく僅かであったとも考えられます。
聞き取った書記もそのつもりで書いたのかもわかりませんし、
聞き漏らし、書き間違えなどがあったのかもしれません。
私たちは、とかく現代社会の感覚で解釈してしまいがちですが、
以上のような、違う視点からの捉え方もできるのではないでしょうか。
私たちは、古代は長閑であったことも考慮しながら、魏志倭人伝を理解する必要がありますね。
