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大阪市は古代、8割が海だった

表題のマップはGoogleから拝借した大阪市の地図です。
地図では中央に大阪城が表示されています。
今、大阪城は海外のインバウンド観光客の人で賑わっています。
しかし大阪府民としては、なぜそんなに人気があるのか全くわかりません。
まぁ・・・私だけかもしれませんが。
自虐的に言うつもりはないのですが、現在の天守閣は「フェイク」です。
豊臣秀吉の初代、徳川家康の2代目ではなく昭和6年(1931)に建てられた3代目で、「大坂冬の陣・夏の陣」とは無関係の、鉄筋コンクリート造のお城です。ただ大阪府民として誇りなのは、このお城が市民の寄附金で建てられたことです。今なら「クラウドファンディン」が流行ですが、昭和初期にすでに、国や行政に頼らない「大阪人の心意気」はあったのです。

ところで古代、大阪城周辺は海だったのです。
もちろん古代に大阪城はなかったのですが・・・。
その場所は「上町台地」と呼ばれ、大昔から高台になっていました。
その地図を下に載せます。

左は約7000~6000年前の大阪市域、   右は5世紀頃の大阪市域の概略図です。
「続大阪平野発達史」(梶山、市原 1985)より

縄文時代、今の大阪城の辺りから南へ伸びる上町台地の両側は海で、上町台地から東、生駒山麓までの河内は大阪湾につながる入江(河内湾)になっていました。6000年前の地球は温暖期にあたり、「縄文海進」と呼ばれる、現在より5m程度高い海面上昇があり、北は高槻〜枚方、南は平野〜八尾、東は生駒山麓まで海でした。その後、海面の後退や台地の北の砂州の延長などで徐々に海水の流入が閉ざされ、湾が潟となり、三世紀頃までには淡水の湖へと変化していったと考えられます。加えて大和川の運ぶ土砂が三角州を発展させ。水域は狭められ埋め立てられていきましたが、生駒山麓と上町台地に挟まれた低湿地帯として残りました。

大阪城が難攻不落の城と言われています。
現在の大阪城周辺の地形からはその意味が分からないと思いますが、東側は湿地を含む不安定な地形、西は直近まで海であった(大阪湾の海流の影響で、周辺には砂州が点在していた)ことを考えると理解できます。
大阪城落城後、徳川将軍家は京都を監視する意味でも大阪を戦略的に重要と考え、二代目の大阪城を建て、上町台地の西を埋め立て整地して、現在の御堂筋など大阪の中心地を作り上げました。

ところで、大阪城天守閣の南隣に難波宮遺跡があるのをご存知でしょうか。
ここは古代、645年の大化改新後、中大兄皇子の発案により着手され、652年に完成した難波長柄豊碕宮だったのです。
そして日本書紀によりますと、孝徳天皇が飛鳥から遷都しましたが、その一年後には中大兄皇子と王族はその宮を捨てて飛鳥に還り、孝徳天皇だけが残され、翌年没した、となっています。

なんともったいない!話ですが、私は、難波長柄豊碕宮は王宮よりむしろ軍事施設だったと考える方が理に適っていると思っています。
理由の一つが、後の世に難攻不落とされた軍事施設「大阪城」が建てられた事実と、宮殿だったとすると政治・行政の場でもあるわけですが、周辺に条里や他施設が展開できない狭い地形、そしてそれまでの地、飛鳥から離れてすぎているため業務の連続性や、海や川で孤立しているため行政施設としての他地域との交通の利便性などを考えると適地とは思えません。
中大兄皇子はそうまで不合理な考えをする人だったのでしょうか。
あるいは戦略家であった皇子が何らかの目的で軍事施設を建てたのか。
私は行政施設としての飛鳥はそのままで、難波宮は軍事施設として建設されたと考えています。
そして、日本書紀はそれを隠蔽したのではないでしょうか。
それにしても、中大兄皇子は実にミステリアスな人物です。

縄文海進により地形が現在と大幅に変わった地域は全国各地で確認できていますが、古代、なぜ都が飛鳥に造られかの謎解きに、この大阪の地が水面下にあったと言う事実は、一つのヒントになるのかもしれません。

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