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魏志倭人伝7:卑弥呼のヒミツ

魏志倭人伝の最大のミステリーは「卑弥呼」の存在です。

その不可思議を醸し出すのが下の箇所です。

「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歷年、乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食、傳辭出入。居處宮室、樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞。」

[その国は、もとは男子を以て王となし、留まること七、八十年。倭国が乱れ、互いに攻伐すること歴年、そこで共に一女子を立てて王とした。卑弥呼という名である。鬼道につかえ、よく衆を惑わせる。年は既に長大だが、夫は無く、男弟がおり、補佐して国を治めている。王となってから、朝見する者は少なく、下女千人を自ら侍らせる。ただ男子一人がいて、飲食を給し、辞を伝え、居所に出入する。宮室・楼觀・城柵をおごそかに設け、いつも人がおり、兵器を持って守衛する。]

ここには卑弥呼と彼女が女王として君臨する邪馬台国のことが、過去に遡って克明に描かれています。

この文章は、おそらく邪馬台国の内部事情を知る人物の証言によるものだと思われますが、彼は、私の記事「魏志倭人伝6:倭人伝を時系列で考えると」に登場する「卑弥呼の朝献の意向を帯方郡に伝えた邪馬台国の「使い」の漢人行商人だったと考えられます。

彼は、ほとんど人と面会しない女王卑弥呼ではなく、政治実務を取り仕切る女王の弟と懇意であったのでしょう、彼から「魏に朝献したい」と相談を受け、邪馬台国の「使い」として帯方郡に非公式に折衝に行ったのでした。

情報元の件はさて置き、この文章は、当時の東アジア情勢では珍しく「男王ではなく女王が治める国」があり、しかも彼女は「鬼道につかえ、よく衆を惑わせる」女性であると言ってます。

すなわち「国の統治」と「鬼道」がリンクし、「女王卑弥呼は摩訶不思議な術、『妖術』を駆使して、民を惑わし支配しているミステリアスな巫女、しかも美人かもしれない・・・」というイメージが出来上がりました。

これはまさに、「古代ロマンの世界」です。

しかし、もう少し冷静に、客観的に俯瞰して、倭と邪馬台国を考えるべきだと思います。

その様な目線で観察してみると、私には二つのイメージが出来てきました。

その一)「邪馬台国は『カルト社会』だった」というイメージです。

一種の宗教に支配された社会は、現代でも、世界中どこでも目撃します。
イスラエルの残虐行為も「ユダヤの神」が命じたことにされていますし、
ロシアのウクライナ侵略も、プーチンの「ルーシー・ミール」というロシア正教の、愚かしい自己正当化の理屈を持ち出して行われました。

これらは「宗教は国家という大きな社会をも動かす」事実を示しています。

宗教は人の不安感と密接に繋がり、「畏怖」が「神」への「すがり」という形で表現されるのでしょう。

さらに、「宗教」が「神の預言者」という個人崇拝と結び付くと「カルト」になります。

その例も、日本の現代社会において、オウム真理教や旧統一教会のような集団の、マインド・コントロールで多くの人を惑わせた事実を見ています。

翻って、卑弥呼は「鬼道につかえ、よく衆を惑わせる」という文言が何を示しているのかを考えれば、
例えば、日蝕のような気象の異変を当てたのか、
あるいは日照りを救う雨乞いで雨降りを実現させたのか、
とにかく災害や飢饉など、大自然の脅威に怯える民が安堵と感じる何かを為すことで、彼女は「巫女=預言者」となり、民を従わせることが出来ます。

しかし、そんな自然現象は現代の科学力ならば予測可能ですが、古代に、何時もいつも当てることはできません。

[昼間に突然あたりが暗くなり、太陽が消える。人々は怯え、妖術使いに縋るすがる。]これって、なんとなく古い映画で観たような、胡散臭いシーンです。

卑弥呼はたまたま一度は予言が当たったのかも知れないですね。

問題はこれからで、その一度の「マグレ」をまるで奇跡が起こしたかのように針小棒大に吹聴することで、卑弥呼を偉大な預言者に仕立て上げることに成功したのではないでしょうか?

卑弥呼には弟が一人居たとされており、彼がそれを仕掛けた「詐欺師」だったのかもしれません。

そしてその預言者には「むくつけき男」よりも「か細い女」の方が、イメージに嵌まりやすかったのでしょう。

古代でも現代でも、民は、摩訶不思議なものに一度取り憑かれたら抜け出せなくなってしまいます。

私は、イエス・キリストも預言者を騙った「偉大な詐欺師」だったと考えています。彼は世界を変える巨大宗教キリスト教の教祖に成り上がりました。

現代においても、イエス・キリストは「世界の真理」となりました。

そのミニミニ版がオウム真理教の松本智津夫(麻原彰晃)だったのです。

松本智津夫は時代を間違えたようですね。

卑弥呼と弟は「倭」でカルト世界を実現させ、民衆をマインド・コントロールし、不安を煽り、自分たちにすがりつくような社会を作ることに成功したのでしょう。

魏志倭人伝は、卑弥呼の後の世界も描いています。

「卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定」

[卑弥呼の死によって大いに塚が作られた。径は百余歩、殉死した奴婢は百余人。さらに男王を立てたが、国中が服さない。互いに誅殺し合い、当時千余人を殺した。また卑弥呼の宗女の壱与という歳十三の者を立てて王とすると、国中がついに平定した。] とあります。

しかし邪馬台国は卑弥呼・壱与と2代続いた後、歴史の舞台から消え去ります。もし邪馬台国が「カルト社会」だったとしたら、その後自然災害などの被害の結果、民衆のマインド・コントロールが解けて、カルト社会として維持できなくなったのではないでしょうか。

そして、魏志倭人伝が言う「倭」は元の、普通の「国」が点在する地域へと戻っていったのではないでしょうか。

すなわち「『邪馬台国』を中心とする倭は『カルト社会』だった」というのが第一のシナリオです。

その二)魏志倭人伝を丁寧に読んでいくと、「邪馬台国がごく普通の国だったと描いてくる。」捉え方です。

手始めに「魏志倭人伝6:倭人伝を時系列で考えると」の続きで、
時代を、卑弥呼が初めて公的に帯方郡と接触した238年6月を起点にして邪馬台国及び卑弥呼の動静を時系列で辿ってみます。

私は236年頃、卑弥呼が、魏の皇帝に朝献する意思を、帯方郡に連絡してきたとしました。

その意図は何だったのか?

おそらく、卑弥呼がそれまでの男王から女王として即位し、倭を統治して直後の頃で、その結果、倭は平安を取り戻しました。

しかし、倭を平定したとはいえ、それまで7〜80年間戦乱がつづき、倭の民衆も疲弊している上、倭国の南の狗奴国の男王卑弥弓呼は、隙あらば攻め込んでやろうと狙っています。

卑弥呼を始め、邪馬台国の指導層は不安であったと想像できます。

そんな時、倭に出入りして、女王の弟とも懇意な漢人行商人が弟の相談に乗り、帯方郡や本国の魏の話をして、
「魏と繋がることは、魏の後ろ盾を得ると同時に邪馬台国の権威を高めることになり、結果として安全の担保となる」と説明しました。

弟はその提案を受け入れ、帯方郡とコンタクトをとってくれるように依頼したのでしょう。

そもそも、魏志倭人伝の文言に沿って邪馬台国の歴史を遡ると、
男王即位は紀元160年頃(2世紀後半)になります。

私はこの時が邪馬台国建国だったと考えています。

なぜなら「七八十年前に男王が立った」としていますが、この国がそれ以前からあったなら、「その前の王は男だったのか女だったのか」は触れていません、すなわち無かったと考えるのが妥当でしょう。

その頃中国は後漢時代で、まだ魏は興っていませんでした。

日本列島も弥生時代晩期だったはずです。

土着民であった倭人社会は稲作などがそろそろ安定し、あちこちで、小さな邑々が氏族集団としてまとまり、大きくなり発展する過程にあった頃でした。

当然ながら、氏族集団にも規模的に優劣が生じてきました。

結果として、水や農地の奪い合いも起こり、氏族同士の抗争が頻発しました。

そんな氏族集団の一つが邪馬台国だったのでしょう。

首長は男が立ち、彼は膨張志向で周辺の国々と摩擦を繰り返しました。

また弱小国間でも水・土地問題で争いを繰り返していました。

そんな中でも、邪馬台国は周辺では最も大きな国へと発展していきました。
それは、「邪馬台国の戸数七万余戸」が示しています。
「南至邪馬壹國。女王之所都、水行十日、陸行一月。 官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。」

「七万余戸ばかりか。」から人口を推し量ってみると、竪穴住居の一戸に平均4人が暮らしていたと仮定しますと、28万となります。
邪馬台国は人口30万弱程度の規模の國だったことになります。

魏志倭人伝に出てくる倭の國の中では最大の人口を抱えた「國」です。

ちなみに、私の住む吹田市で人口394,340人、隣の茨木市は290,294人(いずれも2025/3/31現在)ですから、現代人の私たちの感覚からでも、それなりに大きな都市だったのです。

しかし、元々農業を生業とした集団でしたから、戦いに慣れているわけではなく、抗争が7〜80年も続けば、お互いに疲弊して行きました。

国々の間ではお互いに厭戦気分が広がっていきましたが、邪馬台国の王だけは意気揚々でした。

ただし、国内の民衆はその反対で、王以外の指導層も同様でした。

やがて、邪馬台国内でクーデターが起こりました。

周辺の国々とも謀った結果でしょう。

王は恐らく殺されました。

この年が235年頃であったと考えています。

そして同じ王統で、巫女を司っていた卑弥呼に白羽の矢が立ち、女王に推されました。

彼女は元々政治に関心はなかったので、巫女の役割はつづけ、倭国の象徴として君臨しました。
行政の実務は弟が行うこととしました。

しかし、彼には王としての権限は与えず、政治は合議制で行われることとなりました。

その後の展開は私の記事「魏志倭人伝6:倭人伝を時系列で考えると」に描いた通りです。

このシナリオでは、2世紀後半から3世紀中頃の「倭」で邪馬台国も卑弥呼も時代の流れに沿って生まれた国であり、王であったと捉えています。

ただ、卑弥呼が女王となったのも自然の成り行きで、戦乱の後、倭社会が安らぎを求めた結果だったのでしょう。

この女王卑弥呼の存在は、少なくともこの当時の倭が農耕社会で、中国大陸のような弱肉強食の殺伐とした世界とは違っていたと考えられるのではないでしょうか。

その後、倭社会にも、朝鮮半島を通して大陸の社会構造が流入することで、男のマッチョな世界と変わっていき、女王が治めるような穏やかな世界は消滅したのでしょう。

以上の二つを見比べて、私は第二のシナリオが事実だったのと考えています。

魏志倭人伝には、記事「魏志倭人伝2:邪馬台国よ・・・何処に」や「魏志倭人伝3:倭人伝はどの様に作られたのか」、「魏志倭人伝5:倭人伝をもう少し詳しく見ると」で書いたように、不確かな箇所が多々見られますが、やはり全体として、「倭」社会を不可思議とはみなさず、東夷にある普通の蛮国の一つと考えていたのでしょう。

最後に、私の見立ては、魏志倭人伝が見た「倭人の住む地域」とは

上の図のように、九州と周辺の島々を指しており、「魏志倭人伝4:倭人伝が語る「倭」の不思議」

上の図のように、「倭国」は邪馬台国を中心にした周辺の弱小な国々で構成されていたと考えています。
























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