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遅れているのではなく、ただ違う速さで歩いているだけ

朝の駅のホームで、まわりの人たちが当たり前のように電車に乗り込んでいくのを見送ったことがある。別に乗り遅れたわけではない。ただ、なんとなく一本見送りたくなった。それだけのことなのに、人の波が引いていったあとのホームに立っていると、自分だけがこの世界の流れから外れてしまったような、奇妙な静けさに包まれた。

誰かと同じ速さで歩けない、と感じる瞬間がある。同期がもう昇進していること。友達が次々と家庭を持っていくこと。SNSで見かける誰かの近況。みんな当たり前のように進んでいるのに、自分だけが立ち止まったり、後ろを振り返ったり、別の道に迷い込んだりしている気がする。

「どうして私は、こんなに遅いんだろう」

そう思ってしまう夜が、たしかにある。


ペースが遅い、という感覚は、いつだって比較から生まれる。誰かの速さがあるから、自分の遅さを意識する。誰かのゴールがあるから、自分の位置を測ってしまう。私たちの心は、放っておくと、つい誰かと自分を並べたがる。

それはきっと、悪いことではないのだと思う。比べるという行為の根っこには、「ちゃんと生きたい」「自分の人生を確かなものにしたい」という、まっすぐな願いがある。けれど、比べることでしか自分を確かめられなくなったとき、心はゆっくり疲れていく。

歩幅は、本当はそれぞれ違うはずなのに、いつの間にか「みんなと同じ速さで歩くこと」が正しさのように思えてくる。少し早すぎても落ち着かないし、少し遅いと不安になる。誰かの背中を追いかけながら、いつしか自分の足音を聞かなくなっていく。


ふと、思い出す光景がある。小学生のころ、運動会のかけっこで、ずいぶん遅れてゴールしたことがあった。前を走っていた友達はとっくに走り終えていて、私だけが赤い線を踏むのに時間がかかっていた。

恥ずかしくて、悔しくて、それなのに、不思議なことに、走っているあいだに見えた景色だけは、いまも覚えている。砂埃の匂い。校庭の隅に咲いていた、誰も見ていない小さな花。すれ違うときに誰かが叫んだ、聞き取れなかった声援。

早く走り抜けた人には、たぶん見えなかった景色だ。遅いことは、決して劣っていることではないのかもしれない。ただ、流れる時間の密度が、人と少しだけ違うだけ。ゆっくり歩く人にしか拾えないものが、この世界にはきっとある。


それでも、頭ではわかっていても、心が追いつかない日がある。「自分のペースでいい」と言われても、その「自分のペース」がどんなものなのか、よくわからない夜がある。本当はもっと進めるのに、怠けているだけなんじゃないか。いやいや、これ以上は無理なのに、無理して走っているんじゃないか。そんなふうに、自分の歩幅さえ信じられなくなることがある。

「私のペースって、なんだろう」

その問いに、すぐ答えなんて出ない。たぶん、出さなくていい。ペースというのは、定規で測れるものではなくて、もっと曖昧で、揺れていて、季節のように変わっていくものなのだと思う。元気な月もあれば、ただ息をしているのが精一杯の月もある。たくさん前に進める年もあれば、立ち止まったまま何もできなかったように見える年もある。そのどれもが、私のペースなのだ。早い私も、遅い私も。


誰かと比べてしまうとき、私たちはたいてい、相手の「いまの結果」と自分の「いまの過程」を比べている。相手が何年かけて、何を諦めて、何を選び直してそこに辿り着いたのか。その時間は、外からは見えない。見えるのは、磨かれた結晶のような、いまの姿だけ。

そして自分のことは、内側から見ている。迷いも、休んだ日も、踏み出せなかった一歩も、全部知っている。だから、不公平な比較になる。相手のきれいな表面と、自分のごちゃごちゃした内側を並べて、勝手に落ち込んでしまう。

本当は、相手にも見えない過程があったはずだ。眠れなかった夜や、誰にも言えなかった迷いが。そして、自分の中の不器用な過程も、いつか誰かには見えない結晶になる日がくる。そう思えたとき、少しだけ呼吸が深くなる気がする。


それから、もうひとつ、忘れたくないことがある。ペースが遅いと感じている自分のなかには、たいてい、誰かを大切にしている時間が含まれているということ。

進めないのは、立ち止まって誰かの話を聞いていたからかもしれない。寄り道したのは、目の前で困っていた人に、手を差し出していたからかもしれない。歩みが遅いのは、自分の心と丁寧に話をしていたからかもしれない。効率という物差しでは測れないものが、そこにはたしかにある。

早く進むことが讃えられる世界で、ゆっくり歩く人は、つい自分を責めてしまう。でも、その人がゆっくり歩いてくれるおかげで、救われている誰かが必ずいる。「先に行っていいよ」と言ってくれた人。「無理しなくていいよ」と並んでくれた人。彼らがいてくれたから、私はここまで歩いてこられた。そして、いま遅れている気がするあなたも、誰かにとっての、そういう人なのだと思う。


自分のペースを認めるというのは、「もう頑張らない」と決めることではない。ただ、自分の足元を信じるということ。息が切れたら、立ち止まっていい。誰かに追い抜かれても、振り返らなくていい。違う道を歩いていることに気づいたら、それは「外れた」のではなく、「選んでいる」のだと思っていい。

ペースを比べる代わりに、いまの自分の呼吸を聞いてみる。今日はどのくらい歩けるのか。今日はどんな景色を見たいのか。そのささやかな確認の積み重ねが、いつの間にか、自分だけの道をつくっていく。

「ちゃんと歩けているのかな」

ときどき、不安になる日があってもいい。その不安は、自分の人生を真剣に歩いている証だから。少しずつ、本当に少しずつでいい。誰かと同じ速さでなくていいことを、自分に許していく。そのやさしさは、いつかきっと、隣で同じように戸惑っている誰かにも、そっと差し出せるものになる。


ホームに立ったまま、見送った電車のことを、もう一度思い出す。あのときの私は、別に遅れたわけじゃなかった。ただ、一本だけ、自分の呼吸を整える時間が必要だっただけ。

人生にも、そういう一本がある。乗らない、と決める電車。見送る、と選ぶ時間。それは怠けでも、後退でもなくて、自分のペースを取り戻すための、静かな選択。

歩幅が違うことは、間違いではない。それぞれの足の長さがあり、それぞれの呼吸があり、それぞれの心の重さがある。今日もどこかで、誰かが走っている。今日もどこかで、誰かが立ち止まっている。そのすべてが、それぞれの正解の歩き方なのかもしれません。


✨あとがき

人と比べてしまう癖は、たぶん簡単にはなくならないものだと思います。私自身、いまでも誰かの近況を聞いて、勝手にざわついてしまう夜があります。

けれど最近、少しだけ気づいたことがあって。比べたくなったときは、たぶん、自分の足元から目が離れているとき。誰かではなく、自分の今日の呼吸に意識を戻すと、不思議とざわつきは静まっていきます。

遅くてもいい、というより、そもそも「遅い」という基準が誰のものなのか、わからない。そんなふうに思えると、少しだけ歩きやすくなる気がしています。

今日のあなたの歩幅が、今日のあなたを、ちゃんと運んでいてくれますように。


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