「死ぬ前にハイジの村が見たい」〜祖母の初恋と私の始まりの文学旅

という始まりから旅を振り返るので、まずは闘牛の写真を
第一話
「私の人生、スペインに行ったことで変わってしまったよね?」
「闘牛のせいで大きく変わったよね?」
誰に聞いても「うん」という返事しか返ってこない。
「スペインを知らなかったら……どうなってたかな?」
「闘牛と出会わなかったら、どうなってたと思う?」
今度はそう尋ねてみると
「いや、あんまり今と変わらないのでは?」
という返事ばかり
「でも多分、今とは全く違う人生を生きていたよね?」
「すごく素敵な人生だったかもしれないよ?」
「ああ、逆につまらない人生だったかも?」
「あ、結婚して、スケート選手の親になっていたかもよ」
などと言っても、みんなから、
「いや、多分、今と変わらないと思うよ」
という返事が続くだけ。
え……でも……と「if……」について、考えるとキリがないので、
もうやめておきます
私が初めてスペインに行ったのは1996年9月のことです。
とても暑い時期でした
と、振り返る前に、
同じ1996年の3月から4月にかけ、
そのプロローグとなる旅に出かけていました。
ということで、
先に
「死ぬ前にハイジの村が見たい」という祖母との旅について振り返ります。
なぜタイトルに「文学旅」と入れたかというと、
それは最後まで辿れば、ああ、そうだったんだという感じがすると思うので
よかったらおつきあいください
始まりは1996年、
今からちょうど30年前です。
「死ぬ前にハイジの村が見たい」
祖母のその一言で始まったドイツ・スイス・オーストリア旅。
この祖母というのは、母の母親。
母がこの人のヤングケアラーだったのもあり、同居したりしなかったり、
祖母は一年の半分くらい私の家にいました。
その話が出たときもそう。
年末か年始に、2ヶ月ほど来ていた時だったと思います
「なんでハイジの村に行きたいん?」
尋ねた私に、祖母は答えました。
「初恋のお坊ちゃんとの思い出があって……」
「は?」
「あ、初恋と違う。初恋は小学生のとき。貧しい家の子で……」
彼は筆記具とノートを持っていなかったので、小学校時代、祖母は彼の机の中にこっそり必要なものを入れてあげていたという……
そんな話をひとしきりしたあと、
「ハイジと関係があるのは、京都の男の子。北海道から京都にきてから。まだ12、3歳くらいのころ、ええなあと思っていたひとのほう。京都薬科大学の近くにあった大きな家の子で……」
祖母はそのときの話を淡々と続けました。
「すごく美しい高校生くらいの人で、今でいうたら、堂本光一くん(1996年当時)みたいな雰囲気の人」
「それで?」
「体が弱くて、いつも本を読んでいて……よく本の話をしてくれはってん。その人に、私が小さな頃住んでいた北海道の話をしたら、君はハイジのような人だねと言われて」
近所にいた金持ちのお坊ちゃん。美少年。体が弱い。いつも本を読んでいたひと。
「そのひと、とっても白くて綺麗な手をしてはった。顔はなんとなくしか覚えてないけど、今も声は覚えてる」
顔は堂本光一だったのでは? というツッコミはやめておきます。
「きみはハイジのようだね」
その言葉が忘れられないからスイスに行きたい、と。
「そんな理由で?」
そう思ったけれど、その頃の祖母は本当にハイジで、彼がクララ的な存在だったのかもしれないと思いました。
戦前、祖母は北海道の旭川方面で生まれたそうです。
関西で教師をしていた祖母の父がその地域の小学校の校長として派遣され、祖母は校長の娘として贅沢三昧していたとか。
良い思い出しかないという少女時代。
旭川の次は、岩見沢へ移ったとか。
本州にもどってくる十二歳まではとても幸せだったと、口癖のように話していました。
けれど祖母の両親が離婚し、祖母は母親にひき取られることになり、彼女の故郷の京都に。
祖母は母親とともに津軽海峡を船で渡ったそうで、「死んだら津軽海峡に散骨してほしい」というのも口癖でした。
私見ですけど、祖母の精神的な成長、その時に止まったのかもしれないと感じています。
それまでの人生が祖母にとって完璧だったのでしょうね。
「蝶よ花よのお嬢さま暮らしから一転し、津軽海峡を渡ったときから私の人生は地獄だった」
シングルマザーになった母親とその新しい夫との生活。
北海道にいたときは優しかった母親が京都にきてからは冷たくなり、祖母を「おなごし」のように扱ったと言ってました。
AIによると↓
「おなごし(女衆/女子衆)」は、主に家事や雑用をするために雇われた女性、あるいは女性の集まりを指す古い表現です。主に関西や四国(愛媛など)の地方で使われた言葉であり、現代では女性を指す「おなご(女子)」の強調や、使用人という意味合いが強いです。
つまり、祖母はおさんどんをさせられたそうです。
私の記憶にある限り、祖母は死ぬまで家事を嫌っていました。
このときのトラウマからでしょう。
記憶を上書きできず、祖母がずっと当時の日々を恨みとして抱えてしまっていると感じるたび、すごく胸が痛くなりました。
では、私ならどうしただろう、もう少し考え方を変え、そうした恨みごとを昇華する努力をしたのではないかと思うこともありましたが、それができなかったのもまた祖母の人生なので……
祖母にとって地獄のような「おなごし」生活のとき、出会ったのが近所の儚げな美少年のお兄さんだったのです。
多分、北海道の懐かしい話をしたのでしょう。
「きみはハイジのようだね」
北海道は、祖母にとってのアルプス
京都は、祖母にとってのフランクフルト
母親は、祖母にとってのロッテンマイヤーさん
体の弱い白い手の美少年は、祖母にとってのクララ。
だとしたら、いつか自分もまたハイジのようにアルプス(北海道)に戻って
幸せな時間を過ごせるかもしれない。
自分はハイジ。
そう思うことが祖母にとっての心の拠りどころだったのでしょう。
白い手の美少年。結局、十七歳くらいで早くに亡くなったそうです。
それこそ結核か肺炎で(祖母の記憶が曖昧で)。
「死ぬ前にハイジの村が見たい」
ハイジの村への旅は、失われた(と本人が思っている)祖母の少女時代にもどる旅なのです。
「だから連れて行って」
「……でもハイジの村って……どこ?」
「知らない、探して」
ガイドブックを読みあさって、どこなのか探すことはできました。
(マイエンフェルト、デルフリ村……チューリッヒからマイエンフェルトまで電車がある……良かった。これならいける)
でもインターネットのない時代、
海外に2度行ったことがあるだけの私にはなかなかハードルが高くて
「調べたけど、ここ、けっこう行きづらいよ。ツアーもないよ。有名じゃないから。マッターホルンとかの方ならツアーもあるけど」
もう少し楽な旅にしてもらいたいなと思った私に対して、母がすかさず口を挟んできました。母は祖母のヤングケアラー(前述)として見事なほど洗脳されて育ってきたので、大人になっても祖母の下僕だったのです。
「そんなん、あかんあかん。目的地はハイジの村。他のスイスなんて意味はないやろ。ツアーで行けへんのやったら、フリーで行けばいい。あんた、ウィーンに留学したことがあるんやったら、スイスなんて簡単に行けるやろ」
母は海外に一度も行ったことがないのに……よくそんなことが言えたものです。しかも父からも「連れて行ってあげたらええやん」と言われ、「行きたい行きたい」という祖母の懇願に折れ、私は決意しました。
「わかった。行こう。行けるようになんとかする」
「🙌🙌🙌」
祖母は大はしゃぎ。
そして旅行することが決まりました。
そんな「ハイジの村への旅」に追加で「アルトハイデルベルク」が加わったのはどうしてなのか……は次回に……
これも祖母の次に好きになった人と関わりのある物語ですが、
今日はこのへんで。
ここ、またそのうち更新します
第二回、急にアップするかもしれないので
読んでくださる方がいたら嬉しいです
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