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「大学病院の看護師さん」を辞めた日

テレビのなかで旅をする人が、やけにまぶしく見えた。

夜勤明けの身体は重く、休日は眠るだけで終わっていく。新人さんの相談に乗り、医師と調整し、学生指導の記録に目を通す。役割は増えていくのに、自分の人生に使える時間は、少しずつ減っていった。

「大学病院の看護師さんってすごいですね」
そう言われるたび、私はうまく笑えなくなっていった。

私は、子どものころから看護師になりたかった。小学校1年生の夏休みに入院した私は、術後の発熱が続いた夜にそばにいてくれた看護師さんのことが忘れられず、いつか私も誰かの支えになりたいと思うようになった。

だが、現場は多忙そのものだった。配属初日から担当の患者さんを受け持ち、ケアと記録に追われているうちに夜8時になった。

そこから翌日の準備が始まり、空腹のまま帰るころには、もう夜10時を回っていた。初日の緊張もあって疲れ果て、帰宅したら寝るだけ。それでも翌日のことを考えると眠れなかった。先輩が怖くて、指導を受けるたびに縮こまるような思いがした。

当時、ある患者さんに「あんたの笑顔は偽物だ」と言われ、そっぽを向かれた。挨拶に行っただけで「あーやだやだ」と言われ、病室前で足がすくんだ。それが3か月ほど経ったある日、その方との距離がふいに縮まった。「何を言っても許してくれそうだったから、ついきついこと言っちゃったよ。ごめんね〜」と笑った。

夜勤の薄暗い光のなかで、大洗の海をどこまでも泳いだ話をしてくれた。若いころは「浜の女王」と呼ばれ、沖まで泳いでいったという。私はただ相づちを打ちながら、海が好きだったその方の話を聞いた。暗い病室の向こうに、大洗の海が広がるような気がした。そんな時間が、うれしかった。その方は、打ち解けた一週間ほど後に息を引き取った。

いつしか、人員不足はいっそう深刻になっていった。40床ほどの病棟は、本来3人で見るはずの夜勤を、2人で回していた。ひとりが急変対応やお看取りに入れば、もうひとりがほかの患者さんを受け持つ。

一度だけ、患者さんが2人同時に急変し、他部署から応援を呼んだ。目の前の対応に追われ、朝になって日勤者の声が聞こえたとき、ようやく息をつけた。

それでも振り返れば、先回りして何ができるかを考え、次々と行動に移していくことは楽しかった。チームの一員として信頼しあう高揚感もあった。

3年目には、新人指導を任された。自分たちが新人のころ、夜10時まで残るのがつらかったので、遅くとも7時には帰れるようにした。耳慣れない専門用語も、できるだけ事前に教えた。自分たちが嫌だったことは、繰り返したくなかった。

1か月も経つと、新人さんたちは「患者さんのところ、行ってきます!」と満面の笑みで病室に向かうようになった。その背中を見送りながら、同期と「あの子たち、天使みたいに見えるよね」と話した。あんなころも、私たちにあったのだろうか。テキパキと病室を回る姿が、まぶしかった。

気づけば、6人いた同期は3人になっていた。どんな苦境も一緒に乗り越えてきた仲間が、進学や帰郷を理由に、ひとり、またひとりと病院を去っていった。心の支えを失ったようで寂しかった。それでも、病棟は回っていく。残った私たちは、今いるメンバーで新しいチームを築いていった。そのころにはリーダーを務め、看護学生さんの指導も任されていた。

このころ、今でも忘れられない患者さんと出会った。腰痛を訴えて受診した50代の女性は、すでにがんが進行した状態だった。

夫の希望で本人には病名を知らせない方針となったが、本人はおそらく気づいていた。病室でひとり涙ぐんでいたり、「私、本当はがんなんでしょ」と強い口調で尋ねることもあった。ある日、新人さんが病室から泣いて戻ってきた。「もう、つらくて顔を見られません」。患者さんはベッドで泣き、看護師もステーションに戻って泣いた。

「告知してみよう、と思ったことはなかったんですか?」
私は、率直に夫に聞いた。夫は、「がんかもしれない」と思うことと、「やっぱりがんだった」と知ることはまったく違うと言った。「告知しない」という決意は変わらなかった。当時は、家族の意向が尊重される時代だった。

夫は給湯室で泣き、それでも妻の部屋に戻ると、「今日もよく髪の毛が抜けたな〜」と笑いながらシーツを整えていた。私は、その笑顔の前で、それ以上は立ち入れなかった。

この方が息を引き取った日の朝。すでに上の血圧が40台まで下がった状態が続いていた。学生指導に入っていたため、夫と顔を合わせるのは久しぶりだった。部屋に入ると、いつもと違う匂いがした。今日かもしれない、と思った。

私が声をかけるより先に、夫が口を開いた。
「今日、家内は逝くと思います。あなたが来てくれて、よかったよ」
なんと返せばいいか分からず、大粒の涙がこぼれた。

「家内のために泣いてくれて、本当にありがとう」
看護師として家族の前で泣いたのは、あとにも先にもその一回きりだ。その日の午後、その方は旅立った。夫が毎朝整えていたシーツを直し、医療機器の電源を切った。不思議と、もう涙は出なかった。

その方を見送ったあと、心にぽっかりと穴が空き、張りつめていた糸が切れれたようだった。

それでも、多忙な日々が続いた。新人さんの相談に乗り、学生指導をし、看護研究と発表もこなした。できることが増えるほど、自分の時間は削られていった。休日も仕事を持ち帰り、夜勤明けは眠るだけで終わった。寝ているか、働いているか。そのどちらかになっていた。

使命感に満ちて入職した新人さんが、私より先に燃え尽きて辞めていった。「もう無理なんです」と真顔で言われたとき、引き止める言葉はどうしても出てこなかった。

いつからか、仕事をしている自分を天井から眺めているような感覚が出てきた。患者さんの前で笑い、後輩の相談に乗る。体は働いているのに、実感が伴ってこない。自分の気持ちが体から離れて、置いてけぼりになっているようだった。気づけば、廊下の途中で足が止まっていることもあった。

「大学病院の看護師さんってすごい」
そう言われるたび、評価の高い外側の自分と、疲れ切っている内側の自分との隔たりが広がっていった。

ある日の夜勤明け、休憩室のテレビに旅番組が映っていた。アンデス山脈のふもとに、草がまばらに生えた大地が広がっていた。そこを、ひとりの旅人が歩いていた。その姿が、まぶしかった。どこだろう。有給を取れば行けるのだろうか。けれど、今の自分のままでは、到底たどり着けそうになかった。そこは、まるで別世界だった。

もう限界だった。このままここで定年まで働く自分は、どうしても想像できなかった。自分の人生は、このまま終わっていいのだろうか。「大学病院の看護師さん」という看板を一度下ろして、ただの自分で外に出てみたい。

そう思って、私は病院を退職した。
今でも、そこで働いた6年は、私の礎だったと思う。叩き込まれた知識や勘は、転職したあとも、健康相談に応じたときも、何度も私を支えてくれた。

「大学病院の看護師さん」という肩書に守られていたことも、その重さに押しつぶされそうになっていたことも、どちらも本当だった。

あの6年を携えて、私は大学病院を出た。
肩書のない自分で、外の世界を歩いてみるために。




最後までお読みいただき、ありがとうございました。
二十年以上前の記憶をひとつずつたどりながら、精一杯書きました。感じたことや心に残ったことがありましたら、感想をお寄せいただけるとうれしいです。どうぞよろしくお願いします。



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