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【番外編】影を読む探偵、九条クロエ。第4話:名前を忘れられた少女

夢灯書房を出る頃には、雨が少し強くなっていた。

月灯区のネオンは、水滴の向こうで滲んでいる。

黒猫はクロエの少し前を歩いていた。

振り返らない。

でも時々、ちゃんとついて来ているか確認するみたいに、尻尾だけが小さく揺れる。

「……ほんと、猫って勝手」

クロエは傘も差さずに歩く。

影魔法は、水と夜の境界で少し強くなる。

だから彼女は、雨の夜が嫌いじゃなかった。

夢灯書房で見つけた灰色の感情光。

そして、“存在を忘れられていく少女”。

クロエはまだ、彼女の名前を知らない。

でも分かることはあった。

これはただの感情滞りじゃない。

誰かが長い時間をかけて、

「自分はいなくてもいい」

と思い続けた結果だ。

黒猫は、月灯区の外れへ向かっていた。

そこには、古いアパート群がある。

灯りの少ない住宅街。

洗濯物の揺れる通路。

白光ランプの切れかけた階段。

桜環都市にも、こういう場所はある。

綺麗な夜景だけじゃない。

誰にも気づかれず、静かに疲れていく夜もある。

黒猫は、一番奥の建物の前で止まった。

二階。

角部屋。

窓だけが真っ暗だった。

クロエは視線を細める。

「……ここね」

その瞬間。

二階の窓際に、一瞬だけ少女の影が映った。

でも次の瞬間には消える。

存在が薄い。

まるで、夜景に溶けかけているみたいに。

クロエは階段を上がった。

古い鉄階段が、雨で小さく軋む。

部屋の前。

ポストには名前がなかった。

いや。

“剥がされた跡”だけが残っていた。

クロエは静かに息を吐く。

「ほんとに消えたがってるのね」

その時。

足元で、小さなゴーストが震えた。

白くて丸い、迷子ゴースト。

でも身体の半分が黒く染まり始めている。

黒染みゴースト化の前兆だった。

クロエはしゃがみ込み、小さく額を指で弾く。

「食べすぎ」

ゴーストは、びくっと震えた後、クロエのコートの影へ隠れた。

感情光が濁ると、ゴーストたちも不安定になる。

この部屋の中には、それだけ重い感情が溜まっている。

クロエはドアへ手を伸ばした。

――鍵は開いていた。

静かに扉を開く。

部屋の中は暗い。

カーテンは閉じたまま。

机の上には、積み重なったノート。

飲みかけの水。

消えかけた白光ランプ。

そして。

壁一面に貼られた、大量の写真。

けれどその全てで、“少女の顔だけ”がぼやけていた。

クロエは眉をひそめる。

「……ここまで進んでるの」

写真だけじゃない。

学生証。
病院の受付票。
感情光定期検査記録。

全部、“名前の部分”だけが読めなくなっている。

桜環都市では、存在が影側へ沈み始めると、記録からも薄れていくことがある。

クロエは部屋の奥を見る。

ベッドの端。

そこに少女が座っていた。

灰色のパーカー。

濡れた髪。

そして、輪郭が不安定な身体。

でも今度は、少しだけ顔が見えた。

泣きそうな目だった。

少女はクロエを見る。

「……なんで、来たの」

声も薄い。

消えかけた感情光みたいに。

クロエは壁へ寄りかかる。

「黒猫に案内された」

少女の目が少し揺れた。

「……あの子、まだいたんだ」

その瞬間。

窓の外で、黒猫が小さく鳴いた。

少女は俯く。

「もう、誰にも覚えられてないと思ってた」

クロエは答えない。

代わりに、黒薔薇の鍵を握った。

赤黒い感情光が、部屋の影をゆっくり照らす。

「……まだ完全には消えてない」

少女は小さく笑った。

でも、その笑顔はあまりにも弱い。

「じゃあ、どうしてこんなに苦しいの」

部屋の白光ランプが、一瞬だけ黒く揺れた。

雨音が、少し強くなる。

クロエは静かに目を閉じる。

これはもう、“異変”じゃない。

ひとりの心が、限界まで沈み込んだ音だった。


第4話 おわり

読んでくださってありがとうございます🌸
少しでも気になったら、スキで感情光を灯してもらえたら嬉しいです。

#ELISIERA
#九条クロエ
#影を読む探偵
#感情ミステリー
#桜環都市

原作:ヨザクラ
制作:ELISIERA SAKURA Project
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