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【番外編】影を読む探偵、九条クロエ。第2話:水面に映らない名前

月灯区には、夜になると鏡にならない水路がある。

誰かの本音を映すはずの水面が、
時々、何も映さなくなる。

それは桜環都市では、小さな異変のひとつだった。

雨は止んでいた。

けれど空気には、まだ夜の湿り気が残っている。

クロエは黒猫を追いながら、水路沿いの細い歩道を歩いていた。

黒猫は一定の距離を保ったまま、何度も振り返る。

まるで、

「まだ来るの?」

とでも確認するみたいに。

「……案内してるつもり?」

クロエが呟くと、黒猫は小さく尻尾を揺らした。

水鏡区へ近づくにつれて、街の灯りが静かになる。

白光ランプ。
水面反射。
ガラス越しの雨色ネオン。

桜環都市では、水面は感情光を映す鏡でもある。

だから本音を押し込めた人ほど、水面に違和感が現れる。

黒猫は、小さな橋の前で止まった。

雨音橋。

夜になると、水面に感情が浮かぶと言われる場所。

クロエは橋の欄干へ寄り、水路を見下ろした。

――映っていない。

夜景も。
街灯も。
クロエ自身の姿すら。

そこだけ、水面が“空白”になっていた。

「……なるほどね」

クロエは静かに目を細める。

普通の感情滞りなら、水面は濁る。

でもこれは違う。

最初から“存在を消そうとしている”。

誰にも見つからないように。
誰にも覚えられないように。

その時。

橋の向こう側に、少女が立っているのが見えた。

灰色のパーカー。
白いスニーカー。
濡れた前髪。

けれど――顔だけが、どうしても認識できない。

視線を向けるたび、輪郭がぶれる。

影魔法特有の境界異常。

クロエは黒薔薇の鍵を握った。

「……あなた、誰」

少女は答えない。

代わりに、水面へ視線を落とした。

そこには何も映っていない。

まるで、“名前”そのものが沈んでしまったみたいに。

クロエは小さく舌打ちした。

「最悪」

感情滞りが進行すると、人は感情光を弱らせる。

でも、ごく稀に。

自分の存在そのものを否定し続けた感情は、“影側”へ沈む。

その結果、都市から少しずつ“認識されなくなる”。

街灯が照らさない。
写真に映らない。
水面に反射しない。

そして最後には――

“誰も名前を思い出せなくなる”。

クロエは橋を渡ろうとした。

その瞬間。

少女の影が、水面側へゆっくり崩れた。

どろり、と。

黒い感情光。

夜の水面が、静かに波打つ。

「……っ」

クロエは咄嗟に鍵を振る。

赤黒い影魔法陣が、水路の上へ広がった。

影魔法は、孤独へ飲み込まれる境界を固定する魔法。

完全には救えない。

でも、“消え切る前”なら引き止められる。

「勝手に消えるんじゃないわよ!」

少女の身体が揺れる。

その時。

黒猫が橋の欄干へ飛び乗った。

「にゃぁ」

小さな鳴き声。

でも、その瞬間だけ。

少女の輪郭が、少しだけ戻った。

クロエは目を見開く。

「……そういうこと」

この黒猫は、ただの猫じゃない。

誰かの感情光を、ずっと追い続けていた。

消えかけた存在を、忘れないために。

夜風が吹く。

水面に、ほんの一瞬だけ少女の姿が映った。

泣きそうな顔だった。

けれど次の瞬間には、また輪郭が薄れていく。

クロエは静かに息を吐く。

「……面倒な依頼ね」

でも、その声は少しだけ優しかった。

月灯区の街灯が、またひとつ瞬いた。

まだ消えていない灯りが、そこに残っていた。


第2話 おわり

読んでくださってありがとうございます🌸
少しでも気になったら、スキで感情光を灯してもらえたら嬉しいです。

#ELISIERA
#九条クロエ
#影を読む探偵
#感情ミステリー
#桜環都市

原作:ヨザクラ
制作:ELISIERA SAKURA Project
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