自分が嫌いな人ほど、自分のことを考えている
先日、Voicyで大人のADHDについて話した。
https://r.voicy.jp/YQm4AJ8q92W
以前から繰り返し話してきたものの、今回のシリーズでは改めて自分にもその傾向があることを開示した。
忘れっぽさ、時間の守れなさ、大事なことほど後回しにしてしまう癖。小学生の頃から黒板を写せなかった話も何度もしている。みんながカリカリとノートを取る中、自分だけがぼんやり考え事の海に沈んでいて、気づいたら黒板は消されていた。
リスナーからの反応はいつも温かい。
「自分もそうです」「先生もそうなんだと思ったら少し楽になりました」。
このような反応はいつも嬉しい。嬉しいのだが、同時に、自分の中にうっすらとした後ろめたさを常に自覚してもいた。
外来で実際にADHDの治療をしている患者さんたちの顔が浮かぶ。
仕事を何度もクビになった人。忘れ物のせいで配偶者に愛想を尽かされた人。衝動性のために借金を重ねた人。
彼らから見たら、「何が障害だ」と思われるだろう。このエセ野郎と。
結局、自分は医者になっている。配信だってうまくいっている。ADHDの傾向があると言いながら、社会的にはそれなりに成功している側にいる。
「自分だって苦しいんだよ」と言いながら、その苦しみで飯を食ってさえいる。
その目線に気づいていないふりをしながら、寄り添う側のポジションを取っている。
ズルいな、と思った。
いや、正確に言えば、ズルいと思いながらもやめられない自分がいた。そしてそのズルさに気づいている自分を「まあ、気づいているだけマシだろう」とどこかで許している自分がいた。
気づいているから許される。自覚しているから免除される。
それ自体が、ひとつの自己防衛だと知りながら。
精神科の外来をやっていると、この構造によく出会う。
「自分なんてダメなんです」と言う人がいる。静かに、でもはっきりと。
聴いていると、その人の周りには心配してくれる家族がいて、声をかけてくれる同僚がいて、わざわざ時間を作って付き添いに来てくれるパートナーがいたりする。
でも本人には、それが見えていない。
目に入っているのは、自分がどれだけダメなのか。自分がどう見られているか。自分がいかに足りないか。ずっと自分のことを考えている。
不思議なのは、こういう人たちの多くが、実際にはとても優しい人だということだ。周囲に気を遣う。相手の顔色を読む。自分のことより他人のことを優先する。本人も「自分は周りのことをよく見ている方だ」と思っている。そしてそれは、嘘ではない。
なのに、いざ自分の話になると、途端に視野が閉じる。「でも自分は」と言って、誰かと比較し、自分がいかに劣っているかを並べ始める。
周りのことをあれだけ気にしている人が、こと自分のことになると、ずっと自分しか見ていない。
自己嫌悪には、自己愛が含まれている。
こう書くと嫌な言葉に聞こえると思う。自分が嫌いなのに自己愛とは何だと。でもここで言う自己愛は、「自分大好き」ではない。自分に囚われている、という意味だ。
頭の中のスポットライトが、ずっと自分に当たっている。内容は自己否定。でも構造としては、ものすごく自分中心。自分を責めることによっても、人は自分を特別扱いしてしまう。
ただ、これを本人に直接伝えるのはとても難しい。
「あなたは自分のことばかり考えていますよ」と言えば、傷つく。あるいは怒る。「こんなに苦しんでいるのに、自己中だと言うんですか」と。
だから診察室では言えない。
でもここには正直に書こう。
ここから先は
こんにちは!Kagshunです!よろしければサポートをお願いいたします!いただいたサポートはEMANONの活動をさらに広げていくことに使わせていただきます。
