【創作小説】憎しみに喰い潰されないで
「神様、あの者は私の母親を殺したのです。到底、赦せるものではありません」
「…………」
「あの者を、問い詰め、訳を聞き、その上でなぶり殺しにしてくれます」
「………ペコロスよ、お前の気持ちはそれで済むだろうが……」
「何でしょう?神様」
「その闘争で、この世は乱れる。人と人の憎しみは、地球に見えない毒素となって覆いかぶさり、世界を包む。この世の人たちは憎しみ合い、心探り合い、健やかな生活は失われる。お前ひとりのその者への復讐は、お前ひとりの問題ではなく、間違いなく、世界の和にもある程度の波紋を呼ぶのだぞ。そして、その〈揺り返し〉は、お前にも及ぶ。憎しみ、恨み、追跡しているうちに、お前の形相は鬼そのものになり、やがてその鬼にお前自身も取り込まれる」
「私を脅しても無駄です」
ペコロスは続ける。
「私は、私の母を傷つけた者を絶対に許しません」
「ペコロスよ……これは、脅しではない」
神は、頭を振る。
「どうしてわからない、憎しみを持つものはその者自身をも破壊するのだぞ」
「わかりません」
神は、黙って涙を流した。
ペコロスは、世界を巡り、仇敵を探した。何年も経ったあと、ある国の境界で、仇敵を追い詰め、ズタズタにした。ペコロスの形相は鬼そのものだった。
ペコロスは、目的を達し「これで、やっと休める」と、思って安らかな眠りに就こうとした。ところが、……
ペコロスは、宿の寝床でなかなか眠りに就くことができなかった。目がぎらぎらし、なかなか呼吸が楽にならない。血が沸き立ったようで、その感覚がペコロスを苛んで収まらない。何日も眠れない……
夢を見た。ペコロスは、夢を見た。
ペコロスは、自分が仇に刃を向け、ヘドロのバケツをひっくり返し、バンバンバケツの中身のヘドロを掛けていた。泥まみれになった仇は、涙を流す。それでも容赦しない。そのうち仇は、ヘドロで溶けて、仇はヘドロになる。ペコロスは、よろこんで、その場にへたり、休養を取ろうとするが、今度はペコロスの足元の様子が変だ。足の裏がざわざわとあぶく立ったかと思うと、そこからヘドロが噴出し、たちまちペコロスを足元から覆い包み込み始めた。ペコロスは、ヘドロに身体全体を包まれて、自身がヘドロそのものになってしまう。泣き喚いてもそれは終わらない。そして、神の声が聞こえた………
「ペコロスよ、これがお前の仇の苦しみなのだ」
「神よ」
「なぜ、適当なところでやめなかった」
「しかし、あいつは私の母にも同じことをしたのです」
神は言う。
「確かに、あのお前の仇のしたことは、人間のやることではなかったかもしれない、しかし、………」
神は、続けた。
「お前が同じことをしたことによって、お前も人間でなくなったのだ」
ペコロスは、目を見張る。
「お前は、自身の憎しみに取り込まれてしまった。憎しみの中でもう、還ってこれないほどにだ。その報いは、必ず受けるがよい」
ペコロスの表情は、恐怖に歪む……
地獄に墜ちたペコロスは、何年も、何十年も、何百年も、何千年も、冷たい地面にうずくまって、ただ独りで過ごしていた……
悲しみの涙も、嗚咽も出尽くした。
助けを呼んでも、誰かに呼びかけても、誰も返事をしない……
絶望の中でペコロスは、何年もひざまずき続けた………
どうすればよかったのだろう……
あいつは、母を殺したのに………
母は、俺があいつにやったと同じことをして殺されたのに………、
なぜなんだ、
なぜなんだ、………………
どうして俺はここにいるんだ…………
俺はなんにも悪くない…………
「ペコロスよ………」
神の声が聞こえた。
「お前は、憎しみ過ぎた」
「憎しみ過ぎて、自分が〈憎しみ〉という生き物になっているのに気づかなかったのだ……」
ペコロスは、顔をあげずに聞いていた。
「憎しみ以外のことを知らず、憎しみだけで生きてきた。何年も。だから、憎しみ以外のことは忘れてしまったのだよ。だから、元には戻れない……」
「おお、神よ……」
ペコロスは、涙を流した。
「もう戻れないのだよ……」
神は言った。
ペコロスは、再び絶望に沈み、顔を膝に埋める。
神の気配は、ペコロスのそばを去った。
ペコロスは、また、何年も、何十年も、何百年もそのままうずくまっていた。
誰も、彼のもとには訪れなかった。
地獄は、凍てつく冬のように寒かった……
やがて、こそ、と音がした。
ペコロスは、うずくまったまま、それをただ耳にしただけだった。
また、こそ、と、音がした。
今度は(なんだ?)と、顔をあげる。
かたわらのヘドロの中から、かわいい白い花が咲いていた。
ペコロスは、"愛おしさ"を感じた。
心のなかに湧き上がるなにかが温かく広がっていった。
ペコロスは、それが苦しくて顔をしかめた。
苦しくて苦しくて、息ができない。
荒れ狂う川の急流に飲み込まれたようになって、胸ぐらを抑える。そして、突っ伏した。
そして、なぜかあふれる涙が止まらなかった。
(これは、なんだ?なんだ?このこころに広がるたとえられない波はなんだ?)
かつて、ペコロスのこころの中にもあったものを、ペコロスは、永い永いときの間に忘れていた。それが、なんだかと思い出そうとしたときに、ある映像が心によぎった。
幼い頃に、故郷の野山で一緒に遊んだ幼馴染み。少年の頃、初めて出逢って心ときめいた美しい少女。ペコロスの親戚。近所のやさしい人。世話になった仕事の仲間……
ペコロスは、涙を流した。
こんな、こんな、素晴らしい世界があったのだ………
憎み続けることで、見失っていた……
カエリタイ…………
ペコロスは、ドスッと倒れ込み、再び、息を引き取った…………
ペコロスは、暗闇の中で目をつむり、ただ自分がどこにいるかも感じ取ることができなかった……
しばらくすると、身体がかすかにふわっと浮かぶ。
少しずつ浮かんでゆく感触がある…………
(なにが、起こったのだろう………)
身体が、どんどん上へとあがってゆく……
ペコロスは、顔をあげ、
目を開けた。
まわりの世界は、少しずつ、灰色から自然な温かい色を取り戻し、
身体にもぬくもりがもどる………
(どうしたんだ……?)
気がつくと、さっきから自分の手を引いて、上に引っ張り上げている者がいたことに気づく……
ペコロスは、ハッとした。
それは、自分が殺した仇だった。
ペコロスを見て、あたたかい表情で仇はうなずいた。
ペコロスは、涙を流した………
