【Lonely Wikipedia 大正時代】 中国問題
中国問題
山本内閣は中国との関係で困難を抱えていた。
南京事件_(1913年)
南京事件(ナンキンじけん)は、1913年9月1日、中国で袁世凱政権打倒の革命の失敗後に北軍(袁軍)が南京を占領した際、張勲の軍隊が在留日本人を殺害し、居留民の家屋から略奪行為を行った事件。日本国内の対中強硬論を後押しした。
事件の経過
事件発生前
1913年(大正2年)7月、袁世凱政権打倒の第二革命が発生し、9月には失敗に終わっていた。その過程で、8月5日と11日には兗州(山東省)と漢口(湖北省)において日本人将校監禁事件(漢口事件・兗州事件)が起きていた。
事件発生
1913年9月1日に北軍(袁軍)が南京を占領した際、張勲の軍隊が領事館に避難しようとした在留日本人3名を殺害し、居留民の家屋を襲撃・略奪した。
日本の対応
8月5日と11日の日本人将校監禁事件に続く南京での虐殺事件の突発により、日本国内では対中強硬論が沸騰した。当時の山本権兵衛内閣は軍部を中心に対中外交の軟弱さを非難され、9月5日には外務省阿部守太郎政務局長が刺殺された(阿部守太郎暗殺事件)。
これを受け、日本政府は陸戦隊を上陸させて示威し、9月10日には兗州における日本人将校監禁事件と漢口における日本人将校監禁事件と南京での虐殺事件の3事件について正式に抗議。翌日、事件関係将兵の処罰、張勲の江蘇都督免職、陳謝、賠償などを要求した。
中国の対応
9月13日、北京の中国政府は日本側の3事件に関する要求全ての承認を回答、同日書面をもって確認し、日中間で事件は解決することになった。
北京政府のやったことを北京政府に責任を取らせた。これは筋の通った対応だといえる。
張勲_(清末民初)
1912年(民国元年)1月に中華民国が成立したが、張勲は依然として反革命の姿勢を堅持し、宣統帝への忠義を保った。翌月、袁世凱が中華民国大総統代理に就任すると、不承不承ながら張勲は武衛前軍としての再編を受け入れ、山東省兗州に駐屯している。しかし若き頃からの苛烈な性格からか、近代化の世に至ってもなお洋装を嫌い、張勲もその配下の兵士も辮髪を切る事は無かった。張勲自身は終生辮髪を切らなかったと言われ、後に「辮帥」(辮髪将軍)と称された。
民国成立後
1913年(民国2年)4月、張勲は早くも溥儀再擁立を画策したが、事前に計画が漏れたため断念している。袁世凱に反感を抱いた孫文(孫中山)ら革命派が第二革命(二次革命)を起こすと、7月に張勲は袁世凱の命を受け革命派を鎮圧した。9月1日に南京を攻略した際に、3日にわたって放火・略奪・殺戮を縦にしている(1913年南京事件)。鎮圧の軍功により、張勲は江蘇都督に任命され、12月には長江巡閲使に転じて徐州に駐屯した。
張勲は清に忠誠をつくした辮髪将軍というよりも、袁世凱の子飼いの武将のようにも見える。のちの復辟も、清朝の復興というよりも、反革命のあまりというようにも見える。
中華民国の歴史
孫文と袁世凱
南京に成立した臨時政府では、国家元首に当たる臨時大総統は孫文であった。だが、孫文は当時国内で最も軍事力を有し、また清朝の全権を握っていた袁世凱と交渉し、南北分裂状態であった中国を臨時政府によって統一させるため、宣統帝の退位、臨時約法の遵守といった条件と引き換えに臨時大総統職を彼に譲った。しかし、袁世凱は臨時大総統就任後、責任内閣制の導入を図る国民党(中国同盟会を改組したもの。現在の中国国民党とは異なる)の宋教仁を暗殺したほか、統治の拠点を自らの軍事基盤である北京において専制体制を強化した。こうした袁の専制への反発から、1913年7月には江西の李烈鈞らが中心となって第二革命が勃発した。しかし、反袁勢力の結集に失敗して鎮圧され、袁は正式に大総統に就任し、北京政府が正式に成立した。第一次世界大戦の最中である1915年に日本から出された対華21ヶ条要求(中国に於ける日本の利権を絶対的に保証する内容)を批准し、更には自らが皇帝となることを前提に帝政復活を宣言して国号を「中華帝国」に改めた。これに対して国内外からは非難の声が殺到し、雲南の唐継堯らが倒袁運動を展開(第三革命)したほか、袁の権力基盤である北洋軍閥の諸将からも反発を受けた。このため袁は翌1916年に帝政復活取消を宣言せざるをえなくなり、権威を失墜させ、そのまま同年6月に病死した。
孫文
中華民国建国
1911年10月10日、共進会と同学会の指導下、武昌蜂起が起き、各省がこれに呼応して独立を訴える辛亥革命に発展した。当時、孫文はアメリカにいた。独立した各省は武昌派と上海派に分かれ革命政府をどこに置くか、また革命政府のリーダーを誰にするかで争ったが、孫文が12月25日に上海に帰着すると、革命派はそろって孫文の到着に熱狂し、翌1912年1月1日、孫文を臨時大総統とする中華民国臨時政府が南京に成立した。
国民党と第二革命・第三革命
1913年3月、国会議員選挙において中国同盟会を発展させ、孫文が理事長である「国民党」が870議席の内401議席を獲得。同党の実質的な指導者である宋教仁を総理とした。宣統帝の退位と引き換えに清朝の実力者となった袁世凱はアメリカの政治学者グッドナウ(英語版)による強権政治(中央集権的な統治)の意見を取り入れ、自身の権力拡大を計り、宋教仁を暗殺し、国民党の弾圧をはじめた。これに伴い、同年7月、袁世凱打倒の第二革命がはじまる。1914年に孫文は中華革命党を組織するが、袁は議会解散を強行した。
中華民国_(1912年-1949年)
建国から軍閥時代
中国の最後の王朝である清を打倒する辛亥革命中の1912年1月1日に中華民国(臨時政府)の建国が宣言された。1912年2月12日、摂政孝定景皇后は、宣統帝(愛新覚羅溥儀)に代わって退位令(宣統帝退位詔書)に署名し、数千年にわたる中国の君主制を終わらせた。現在国父とされている孫文は、北洋軍の指導者である袁世凱に引き継ぐ前に、臨時大総統職を短期間務めた。袁世凱が臨時大総統に就任して北京に移転した後に正式に大総統に就任して成立政府は「北京政府」と呼ばれる。宋教仁率いる国民党が1912年12月の議会選挙で勝利した。しかし、宋教仁はその直後に袁世凱の命令で暗殺され、袁世凱が率いる北洋軍は北京政府の完全な支配を維持した。その後、1915年に中華帝国を宣言したが、短命に終わった。1916年の袁世凱の死後、清王朝の一時的な回復(張勲復辟)により、北京政府の権威はさらに弱体化した。 北洋軍の派閥が個人の自治権を主張し、互いに衝突したため、ほとんど無力な政府が国の崩壊をもたらした。こうして10年にわたる地方分権化された権力闘争と長引く武力紛争である軍閥時代が始まった。
袁世凱
袁世凱の政治に対する考えは一貫しており、中央の元首が強権を振るうことで初めて麻のように乱れた中国はまとまり得るというものであった。こうした発想は当時の対中国観の主流であり、孫文などもそう考えていた。しかし、これに対して当時国民党の実質的指導者である宋教仁は、最高権力者の権限を制限し、議院内閣制を行うことが必要であると主張した。当時としては斬新なこの考えは多くの国民の心を捉え、国民党は1912年(民国元年)12月の選挙で圧勝した。袁世凱は大きな影響力を持ちつつある宋教仁を警戒し、懐柔策をしばらくとり続けたが、ついに1913年3月、宋教仁を暗殺した。その後も大総統の権限を強化したり、任期を長くするなど自らの強権に努めた。
この後、多くの国から借款を行い、近代化資金を確保し、インフラ整備を行った。この借款にたいして南方各省から反発の声があがり反乱となったが、袁世凱は得意の軍事力をもってこれを撃退した。反乱軍を指揮していた李烈鈞・孫文・黄興らは日本に亡命した(1913年9月、第二革命)。同年10月には正式に大総統に就任して臨時政府は北京政府へと移行した。さらに国民党の解散命令を出したうえで、国会内の国民党議員を全員解職した。
中国第二革命
蜂起に至る経緯
辛亥革命により中華民国臨時政府が1912年に成立し、同年に清朝は崩壊した。その中で革命派は清朝の実力者である袁世凱と妥協し、袁世凱を臨時大総統にすることでようやく革命を成し遂げた。しかし、袁世凱と革命派は対立を抑えきれなくなり、革命派寄りであった唐紹儀内閣は崩壊した。1912年8月25日 に孫文を代表とし総理を宋教仁とする国民党が結成され、1913年3月の最初の衆議院・参議院国会議員選挙では、議会政治で政治の主導権を握ろうとした宋教仁により国民党が870議席の内401議席を獲得して 勝利した。宋は更に自ら内閣を組閣し、国会で袁世凱を罷免して黎元洪を大総統に据えようとしたともいわれる。
袁世凱は、アメリカの政治学者フランク・グッドナウ(英語版)による意見を取り入れ立憲君主制を目指す権力拡大を計り、1913年3月に刺客を放ち、宋教仁を上海で暗殺した。当時中華民国の全国鉄路督弁として中国国内の鉄道建設を図っていた孫文は宋教仁暗殺直後に訪問先の日本から帰国し、武装蜂起で袁世凱を打倒することを図った。袁世凱との和解を図っていた黄興ら国民党有力者も結局賛同し、蜂起計画が練られることとなる。
蜂起前夜
軍事蜂起に至るまでの間、国民党側は各地で暗殺、破壊活動を行ったが大きな成果は無く、北京の臨時政府により鎮圧された。政治方面では江西都督李烈鈞や安徽都督柏文蔚、広東都督胡漢民、そして北京国会の国民党派が袁世凱を弾劾した。こうした動きに対して袁世凱側も対抗し、5月には国民党派に対する軍事作戦を策定した。そして6月には李烈鈞、柏文蔚、胡漢民の3都督を罷免した。
軍事蜂起
1913年7月12日、李烈鈞が江西省にて蜂起した。続いて江蘇省で黄興、上海で陳其美、広東省で陳炯明、安徽省で柏文蔚、四川省で熊克武、福建省で許崇智、湖南省で譚延闓が蜂起。李烈鈞が七省討袁聯軍司令となり、黄興は南京で独立を宣言した。
しかし袁世凱の臨時政府軍が南進すると、革命軍はこれを防げなかった。江西では8月18日に南昌が北洋政府軍に奪回され、李烈鈞は敗走した。黄興は7月28日に早くも南京を脱出している。上海では陳其美の率いる革命軍が兵器工場である江南製造局を攻撃したが攻略できず、長江岸の呉淞砲台に撤退。黄興や胡漢民がこれに合流するも北洋政府軍の援軍に包囲され、赤十字会の仲裁で8月13日に砲台から退去した。他の地域でも革命軍は敗退し、8月には孫文、黄興、胡漢民、李烈鈞らが日本に亡命。こうして第二革命は終わりを告げた。
8月5日に北支派遣隊の川崎享一大尉が、南軍(革命軍)の間諜の疑いで北軍(北洋政府軍)の兵士に捕らえられ、監禁された (兗州事件)。8月8日に孫文は、日本に亡命した。8月11日には南軍が中支派遣隊西村彦馬少尉を拉致陵辱した漢口事件が発生した。
9月1日には北軍と南軍が南京で戦闘中、北軍の張勲が在留日本人3人を殺害し、日本人商店を略奪した (南京事件)。
その後
国民党派を武力で倒した袁世凱は正式に大総統に就任し、北京政府が成立した。1914年に孫文は中華革命党を組織するが、袁は国民党を正式に解散させ、国民党員の国会議員から議員資格を剥奪した。その後も国民党員を迫害し、更には議会解散を強行した。孫文らは1914年7月に東京にて中華革命党を結成し、反袁世凱闘争を続けた。独裁を進めた袁世凱は1915年に自ら皇帝となり中華帝国を樹立したが、これが仇となり護国戦争(第三革命)を引き起こすこととなる。
このあたりの情況は非常にわかりにくいが、いずれにしても、1913年10月6日に日本が中華民国を承認し、その4日後に袁世凱が正式に大統領になっている。日本の承認がなければ動きづらかったことが見て取れる。中華民国承認の前夜に流血の事態があったということは、戦前日中関係の大きな障害になったとも考えられる。ただ、少なくともこの段階では日本はかなり穏便にこの事態を収束させ、孫文を亡命させながら、袁世凱の政権を承認するという大人の対応をしていたということは注目に値するだろう。
いいなと思ったら応援しよう!
誰かが読んで、評価をしてくれた、ということはとても大きな励みになります。サポート、本当にありがとうございます。