戦後の町村合併
豊橋市は、すでに高度産業都市へ転換しようという決意を表明し、工場誘致運動をしたり、港湾計画を推進してきた。それには従来の地域では十分でなかった。ここに豊橋の町村合併の必要性があった。それは同時に隣接町村民の利益を増進するものでなくてはならぬ。豊橋の町村合併はこのような見地にたって実行せられたのである。
豊橋の財政赤字が恒常化しているということから、郊外にも工場を誘致して、そこから税収を確保する必要が出てきたか。本書が編纂された一番の理由として、この市町村合併があったと考えられることから、この部分の正当化というのは本書にとって非常に重要な点であるといえよう。
隣接市町村の財政
戦後のインフレが進んでゆく中で、農民の収入はこれにともなわなかった。食糧事情は昭和二十一年を頂点として年とともに安定にむかい、米麦のヤミ値は相対的に下がり始めた。
食糧事情の安定は望むべきものであり、その不安定さに頼った農業政策をおこなっていたのならば、それが過ちのもとだろう。この後農業所得に対する租税負担の数値が出てきて、農村部の租税負担は都市部に比べて高いということも述べられるが、ヤミ値での所得の高さに対して租税負担をあげたのだと考えられ、その政策に無理があったのだといえる。ここでは、開発経済の二重経済モデル、つまり農村部の労働力余剰を都市部が吸収して発展につなげるというモデルが、都市部での工場誘致等の遅れによって吸収しきれないという状況を観察することができるが、それが税制とうまくかみ合っていなかったようにも見受けられる。それは、農業による資本蓄積を貨幣という形では実現できず、例えばヤミでの衣類との交換という形の非貨幣所得に対して租税負担をあげるというゆがんだ貨幣政策、租税政策がとられた故といえるのではないだろうか。これは、貨幣経済化が上からの押し付けでおこなわれた弊害であるといえそうで、それに対して下からの貨幣経済化ということを考えることによって、現在の局面でもある食料品価格の高騰という状況を打開してゆくことができるのではないだろうか。
(中略)昭和二十九年度の町村の予算をもう一度ながめると、前芝・老津・高豊などには投資的経費はなく、その全部が消費的支出で占められている。いわばこれらの村村の財政は、町村として義務的にやらねばならないような仕事に手いっぱいで、住民の生活を向上させるための建設的な仕事がやりにくくなったことを示している。このように周辺の町村は、高い税を負担しながら財政的には苦しく、事業も思うようにできないでいた。
村には、地域外から貨幣が流入する仕組みが一次産業以外には限られているということで、投資的な経費に支出する貨幣的な余裕がないということになるのだろう。戦後期のインフレで、一次産品の価格はそのままに、製造業の価格だけをあげるという政策をおこなったことが、今に至るまで尾を引いているといえるのかもしれない。そして、今までならば村内でできる人ができることをやる、という形で成り立っていたかもしれない多少の投資的行動が、外部からの財を導入しないといけないこととなり、貨幣支出が必要となって投資的行動がとりにくくなったということもあるのかもしれない。いずれにしても、貨幣経済と近代化からこぼれおちたものの整理がまだうまくできていないという印象を受ける。
町村合併促進法
地方町村の苦しみは人口の少い弱小町村ほど甚だしかった。二川、石巻よりも、前芝、老津、高豊にこれをみることができる。弱小町村では、地方自治の近代化を担うには荷が重すぎるからである。
(中略)合併への障害を除いて合併町村に有利になるように、政府は昭和二十八年十一月一日に町村合併促進法を公布(九月か)し、鳴物入で呼びかけた。昭和二十四年のドッジ・ラインこのかた赤字にあえいでいた市町村はわきたった。
中小規模の町村を残したまま近代化というのは果たして可能だったのだろうか。近代化は社会の効率化であるといえ、社会を効率化させるためには人口を密集させて行政処理を集約させる必要があり、それは中小規模の町村の存在とは相反することになる。それは、個の自由と近代化をいかに両立させるのか、という問題につながるのかもしれない。人の集約を排して近代化を成し遂げることはできるのであろうか。
しかし、町村合併は、町村の側からだけではなく、豊橋市のほうからも工業化をすすめるうえで必要になっていた。
昭和七年の町村合併は、豊橋が海に顔を出し海につながることを助けたことにより、臨海都市としての発展に大きな意義をもった。豊橋を工業化するための一石がおかれたからである。それから二十年、太平洋戦争を経て構想はすっかり変わった。神野新田地内の築港計画は中止され、新しい港湾計画は大崎方面にうつった。(中略)東三河の総合開発は、豊川改修といい、豊川農業水利事業といい、豊橋港修築事業といい、豊橋市だけで解決する問題ではない。関係町村と歩調をあわせてやらねばならない。(中略)そのためには、まず関係町村が一体となって総合施策を強力にくりひろげることが大切となった。
仮に県という中途半端な枠組みがなければ、市町村合併はもっと滑らかに進んだのではないだろうか。ただし、近代化を目的として市町村合併をすすめることが本当に良いことなのか、というのは議論の余地があるだろう。様々な形の自治単位に(例えば貨幣発行権限を含めて)権限を大きく移譲することによって細かな行政を民営化し、市町村はそのオリエンテーションをして、全体の取りまとめをするというようなイメージで地方自治を大きく作り直す必要があるのではないだろうか。
豊橋の経済圏
(略)豊橋市は隣接町村との経済的な結びつきをしらべ、学問的な基礎にたって町村合併をかんがえようとした。(中略)
豊橋市とそのまわりの町村とは、経済的には一つの単位にまとまりながら、豊橋市をカナメとし、よりどころとして動いていることがわかる。実質的には一つ組織となっている部面もあるし、一つにまとまることが自然であって、どちらにも利益をもたらすことが多い。
合併の成立
合併の条件は、豊橋市にも隣接町村にも熟してきた。そこで昭和二十八年十月合併促進法ができると(施行されると、か)、合併問題は活発な動きを見せるようになった。
(中略)
豊橋市は合併の一般的方針として「対等の立場で条件を一切つけない」という立場をとった(中略)。
他の市町村の合併のいきさつをみると、利害関係や感情的対立をめぐって紛糾がおこったが、豊橋の場合にはこれとて問題がおこらず、極めて円滑におこなわれた。このようなことは他に類を多く見ないことで、豊橋市将来の発展に明るい希望を託しうるものである。
相思相愛での合併成立は非常に望ましいことだといえる。ここで無理があまりなかったことが、東三河全体の一体感が残っているという状況につながっているのだと考えることができるのかもしれない。そしてそれが、近現代についての認識が豊かに残っているという状況につながっているのかもしれない。この、貨幣価値には代えられない大きな資産をいかにしてうまく運用してゆくのか、ということが問われているのかもしれない。
市町村合併の正当化という本書の目的は、最後を平穏な合併の話で閉じることでうまくいったのだといえるかもしれない。しかし、その中には、戦前の話をかなり端折って、あるいは脚色を施して書くということがおこなわれているようにも感じられ、すべてが納得というわけにはいかない。ほかの見方と比べながら、さらに検討を深めてゆきたい。
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