内藤魯一17
「つまり、自由の名は伯が父上から取り上げたものであるとおっしゃいますか。」
「政治の世界はいろいろあるからのう。それはおぬしにあてた手紙にもつらつらとしたためたところじゃ。それはともかくとして、第三期、則ち憲法公布後の自由党についてももう少し議論が必要だろう。憲法の公布は黒田内閣下の明治22(1989)年2月11日、そしてその施行は明治23(1890)年だった。一方で内閣制度は明治18(1885)年12月22日三条実美太政大臣の達により、内閣総理大臣の権限などを定める 内閣職権を定める勅旨が通達されたことによって定まったが、そこで定められた総理大臣の職権があまりに大きすぎるということで伊藤内閣、黒田内閣が内閣をうまく統治しきれなかったと考えられ、そのために憲法の施行に先立って三条実美暫定内閣下で内閣官制(明治22年12月24日勅令第135号)が定められ、太政官達第69号および内閣職権は実効性を喪失した。内閣職権上の「統督ス」という語が内閣官制では「保持ス」に変更された結果条文上内閣総理大臣の主導権が減少することになった。つまり、この内閣官制の導入により、「大宰相主義」は否定され内閣総理大臣は「同輩中の首席」と位置づけられたことになる。内閣官制の導入の同日に三条は病痾を理由に首相を辞任、内務大臣であった山縣が首相・内務大臣に任命された。これによってようやく内閣の仕組みが整ったのだといえる。藩閥政治の印象が強い山縣伯だが、この内閣では薩長その他の三者の均衡は非常によく取れており、それによって政策運営に苦労したことから、のちの藩閥超然主義的な立場をとるようになったとも考えられそうだ。明治23(1890)年7月1日に第1回衆議院議員総選挙が投開票され、さらに11月29日に大日本帝国憲法が施行、同日に第1回帝国議会が開かれ、議会制度が開始された。選挙の結果として、立憲自由党(板垣退助党首)や立憲改進党(大隈重信党首)らの野党勢力(民党)が多数を占め、山縣内閣は、地盤を持たない衆議院における法案や予算案の審議で苦労を重ねることとなった。この間、明治22年3月には、元の自由党の中心的人物であった後藤象二郎伯が黒田内閣の逓信大臣として入閣したことで、後藤伯が旗振りをしていた大同団結運動が頓挫したように見えるが、実際のところは自由党内の河野広中や犬養毅といった政社派と大井健太郎を中心とした非政社派の対立が激化し、非政社派が後藤伯を大同団結の象徴として政府に送り込むこととし、自由党自体は政社派で旧自由党の再興を目指す大同倶楽部と新党結成を目指す非政社派の大同協和会とに分かれ、結局旧自由党の再興という形で立憲自由党が結成されることになった。これが第三期の自由党の最高潮の瞬間だといえるかもしれない。」
「なるほど、板垣伯と考えが合うわけではないが、神輿としての伯は大同倶楽部系よりはましであるという考え方でございますか。」
「それが大同団結の意味するところではないかとわしは考えるのじゃ。」
「話は戻りますが、父上は結局そこから四回連続で総選挙に立候補し、すべて次点に終わるということになりますな。」
「第一回、第二回の総選挙時にはわしは愛知県会議長を務めており、その後明治25(1892)年10月に新府県会制実施によって県議会が解散され、わしも県議を辞任したことになっておる。新府県会制が導入されて議会が解散というのは、地方自治の本旨から見ても全くかなうものではない。むしろ、新府県会制が国によって提案されたら、それを地方議会として批准する、というような手続きでなければわしはおかしいと考える。」
「理屈としてはその通りですが、それは立憲君主制の下では難しいのではないでしょうか。」
「府県制はプロイセン王国の州制度を基にして作られたといわれておる。わしは、ドイツ帝国の下の領邦を基にした制度ならばよいのではないかと考えるが、それより一段下のプロイセン王国の下の州制度を基にして作られたから、地方自治にこのような混乱をもたらしたと考えるのじゃ。既存の社会の仕組みがあるのにもかかわらず、そこに無理やり府県という制度を上から被せることで、各地に残っていた従来の伝統がずたずたに引き裂かれたのじゃ。この府県制の導入については、政府内でもかなりの議論があったようで、もともと、「市制町村制」(明治21年法律第1号)と併せて大日本帝国憲法下の地方自治制度を形づくる法律である府県制(明治23年5月17日法律第35号)は、「郡制」(明治23年法律第36号)とともに第1次山縣有朋内閣の下で帝国議会の協賛を経て1890年(明治23年)5月17日に公布された。この法律は、附則第94条の規定により、「郡制」および「市制」の施行された府県から順次施行するものとされたが多くの県で郡制施行の前提である郡の再編が進まずに府県制の施行が遅れた。最初の県である長野県が施行されたのは、第一次松方内閣の下での、松方が内務大臣を兼任する中での明治25(1892)年7月になってからだった。その後、司法大臣を兼任する河野敏鎌が内務大臣として9つの県を導入したことで、現状の地方自治体制が整ったといえるが、司法、内務の非常に重要な役職を薩長ではない土佐からの河野が兼任していたということからも、議会と折り合おうと努力する総理とそのすきに権力を拡大しようとする土佐派が少なからずいたことを指し示しているのではないだろうか。」
「松方内閣とはいかなる内閣だったのですか。」
「松方内閣は、藩閥から脱却しようとして、初めて衆議院議員から陸奥宗光を農商務大臣として任命し、話し合いで物事を進めようとしたといえるが、その発足後すぐに大津事件が発生したこともあり、最初から死に体のような状態であった。それを打開するために、松方は、明治24(1891)年12月25日に初めての衆議院解散を決断した。選挙期間中、内務省は品川弥二郎大臣と白根専一次官が中心となって安場保和・船越衛ら地方官グループによる大規模な選挙干渉を行い、民党関係者を中心に死者25名負傷者388名を出したとされるが、選挙干渉というのは、無秩序な選挙を行おうとする過激派に対するものだと考えられ、3月11日に内務大臣の品川が辞任、3月14日には陸奥宗光農商務大臣が議会の唯一の代表であることに堪えず辞任した。内務省では、副島種臣新内務大臣が、就任後わずか3か月で辞職に追い込まれ、松方が内務大臣を兼任し、上述の通り長野県を設定したが、6月に入ると、他の閣僚からも辞表提出者が相次ぎ、7月に白根・安場らの更迭が決定されると、同月松方の後を襲った河野は、陸奥の後の農商務大臣をつとめ、そして6月には司法大臣を、さらに7月に農商務大臣から内務大臣へと動くということで、松方内閣における陰の実力者とも呼べる状態になっていた。同月27日には処分に消極的であった軍部大臣が揃って辞表を提出、伊藤枢密院議長も辞表を出したことで、内閣は立ち行かなくなり、総辞職した。」
「国の大本が決まるときに、ずいぶんな人物が暗躍したものでございますな。」
「大津事件がかかわっているということで、国際的な広がりもあるであろう事件であろうと考えておる。ここを解きほぐさないと、とりわけ日露戦争周辺の話はなかなか見えてこぬのではないかと考えておるが、なかなか一筋縄ではいかぬ。」
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