エミルの座右の銘の話
わたしの座右の銘は「なるようになる、ならぬようにならぬ」です。LINEのプロフィールの下にもその言葉を刻んでいます。本日はわたしの座右の銘について、記事を書いてみようと思います。
「なるようになる、ならぬようにならぬ」とは何か?
文字通り、人生はなるようになるし、ならないようにならないということです。極めてシンプルです。たとえば斜めに傾けた板から水を流せば、水は下に向かって板を伝い落ちていくし、太陽は必ず、東から昇って西に沈みます。生き物は産まれたら必ずいつか亡くなります。一般的に、オスはメスと出会えば子孫を残します。基本的に、なるようになります。ならぬようになりません。
人間は生きていれば困難に遭遇することもあるでしょう。沢山の選択を迫られる場面もあるでしょう。困難に直面した時、選択を迫られた時、自分がどのように困難に向き合い、乗り越えるか。選択をする時に自分が何を基準にして、何を優先して取捨選択をするか。きちんと考えて生きている人間であれば、必ず自分の決めたように道は拓けていくものだとわたしは信じています。なぜかって、そこには自分の意思があるから。自分の意思には、自分の責任と覚悟を持てるから。そこには必ず、自分の決心があるから。
「シュレディンガーの猫」という、有名な話があります。もともとは量子力学の話ですが、たびたび哲学的論争としても用いられます。わたしは文系なので、哲学的な観点から考えてみましょう。わたしの専門分野です。
前提として、量子力学論では「1時間後の原子は崩壊した状態と崩壊していない状態が50%で混合した状態が存在する」という「重ね合わせ」の概念があります。これをわかりやすく比喩したのが、「外側から見えない箱の中にいる猫は、箱を開けるまで『生きている状態の猫』と『死んでいる状態の猫』が併存する」という、「シュレディンガーの猫」のエピソードです。一種の思考実験です。
一から順に議論を書いていると何千文字になるかわからないのでまるっと端折りますが、「箱の中の猫が生きているか死んでいるかは『観測』するまでわからない」というのが結論です。
これはオーストリアの物理学者、エルヴィン・シュレディンガーが「シュレディンガーの猫」という話を提唱したことに端を発し、これを検証しようとしたジョン・ステュワースト・ベルというけったいな理論物理学者がいて、その後にアラン・アスペという物理学者が「観測した瞬間に物事の状態が決定される」と証明をしています。まぁそんなことはどうでもいいです。いくつかキーワードを出したので、詳しく知りたい方はGoogleかAIに訊いてみてください。わたしより易しく教えてくれると思います。量子力学、おもしろいです。
何が言いたいのかというと、「物事の選択は、自分で結論を出すという『箱をあける』行為をしない限りは決まらない」ということです。箱をあける選択、すなわち「観測」を行なった瞬間に物事は決まる。箱をあけるのは自分の意思だし、箱をあけるからには責任を伴うし、箱をあけた結果を受け止める覚悟もなければ、人間は「未来の選択」というブラックボックスをあけることなんてできないはずなのです。一定数、安易に箱をあけてしまう人もいるでしょう。そういう人は、自分の意思決定や選択に自分の責任や覚悟を持てない人。自分の人生を他責する人。「わたしは悪くない、周りのせいだ」と簡単に逃れようとする人だと思います。
残念ながらわたしはそういうタイプの人間ではありません。自分の選択には自信を持つ。自信を持って選択したからには責任を持つ。責任を持つからには覚悟もあります。だから、人生において反省することはあっても後悔することはありません。失敗したと思うのならば次に同じ過ちを犯さなければいい。失敗した以上の成果を得ればいい。それが人生における「学び」だと思って生きています。もちろん全能ではない。できることよりできないことのほうが多い。受け入れざるをえない、受け入れるべき環境もある。でもそれがわたしの生きる世界です。隣の芝生が青く見えるのは、自分の世界をきちんと見ていないからだと思います。わたしは自分と関係ない他人の人生になんて興味ない。わたしの「過去」はわたしが背負うべきものだし、きちんと糧にして生きているし、わたしの「今日」は2度と来ない今この瞬間だし、その延長線上に「未来」だってあるって信じて生きています。
たとえばわたしは、人生で3度結婚をして、2度離婚を経験しています。正直1度目の離婚は若さゆえに性急すぎたと思っています。あそこでわたしが病を患っておらず、わたしの最初の夫に手を出したのがわたしの親友でなく、わたしにもっと心の余裕があって、あの夜、あの激情から、仮に踏みとどまれていたとしたら、わたしは平々凡々な人生を歩んでいたことでしょう。ですがわたしは踏みとどまることができませんでした。そして「人生最悪の日」を経験しました。
人生に「たられば」はありません。わたしはまだ親を亡くしたことがありませんが、親を亡くす経験をするまでは、わたしにとって1番の「辛かった日」は、最初の夫と離婚をした晩であると思います。流産して子供を失った時でさえ、「あの日の辛さよりはマシだ」と思いました。親はまだ失ったことがないので、未知の領域です。
わたしは2度目の結婚の時にも、妥協はしませんでした。でも相手が豹変し、手がつけられなくなり、覚悟を決めて2度目の離婚をしました。
誰に流されたわけでも、何を諦めたわけでもなく、誰かに屈服させられたわけでもなく、わたしがわたしのために、自分で決めてバツ2になりました。一度しかない自分の人生に妥協をすることは、自分の人生への冒涜だと思いました。
決して、3度目の結婚が約束されていたわけではありませんでした。けれど、さっさと結婚しなきゃと急ぐ気持ちもありませんでした。堅実に自分の人生を生きようと思いました。今の夫を認知してはいたけれど、恋愛感情は微塵もなかった。今の夫とは「結婚するその日まで結婚はしない」と思っていました。でも、「世界で一番わたしを大切にしてくれる人のそばにいよう」と決めたのは他でもない、わたし自身です。結果わたしは、3度目の結婚で、「この世でこれ以上にわたしを幸せにしてくれる伴侶はいない」と思える夫と結ばれました。
夫とも、決してはじめから全てがうまくいっていたわけではありません。食の好みは合わないし、趣味も違うし、年齢も離れている。金銭感覚も違うし、身体の相性もよくない。わたしは子供が欲しかったけど、夫は望んでいない。それでも「なるようになる、ならぬようにならぬ」のです。食事は夫が作ってくれるようになってわたしが夫に合わせている。趣味もお互いの共通のものを楽しんで個別の趣味にはいちいち口を出さない、たまにお互いの趣味に顔を突っ込んでみて、合わなければ深入りしないけれど、なんとなく理解はしあっているし、理解できないのなら邪魔しない。ジェネレーションギャップはお互い教え合って埋めている。金銭感覚に関しては「夫が消費・わたしが貯蓄」という役割分担をして補い合っている。身体の相性は「うまく行ったらラッキー」くらいの感覚です。子供に関してはわたしが子宮筋腫を患ったことで改めて直面して、決心がつきました。あらゆることに関して、他人から干渉されて決めたこともありません。
何かをしようとしたり、やめようとした時って、わたしはわりと「天地人」を意識していて、物事がうまく運ぶタイミングの見極めをしています。仕事や旅行や友達付き合いなど、あらゆることに関してもそうです。わたしはスピリチュアルや神様はまったく信じませんが、時の巡り合わせは信じています。「なるようになる、ならぬようにならぬ」けど、「なるようにならぬ、ならぬようになる」ことはないのです。それはわたしが自分の言動に責任を持って自分の人生を生きているからです。なるようにならんように生きないし、ならんようになるようにも生きない。そんなのわたしじゃないから。
わたしがわたしである限り、必然的に「なるようになるし、ならぬようにならぬ」のです。わたしは自分で自分を信じてるから。自分を諦めないから。自分を愛してるから。
だからこれがわたしの人生における座右の銘なのです。わたしがわたしであるための訓戒です。
皆さんの座右の銘は、何ですか?
