“地産地消” ではなく “地縁消費”
僕たち夫婦は、たくさん引っ越しをしてきた。
初めて同棲したのは、新井薬師前だった。
中野駅から歩いて15分くらいかかるけど、サンモール商店街からブロードウェイを抜ける道は、いつも賑やかだった。
春になると、中野通りの桜並木がキレイだった。
駅までの少し長い道のりも、どこか得をしたような気分だった。
それから、門前仲町、水天宮前、茅ヶ崎、本駒込と移り住み、今は入谷で暮らしている。
こうして並べてみると、ずいぶん移動してきたなと思う。
実は、多いのは引っ越しだけではない。
転職も、夫婦そろってかなり多い。
お互いに負けないくらい、色々な仕事を経験してきた。
最近になって気づいたことがある。
僕たちの引っ越しと転職には、意外な共通点があった。
どちらも、5年以内には必ず次の場所へ移っている。
もちろん示し合わせたわけではない。
最初からそういうルールを決めていたわけでもない。
でも振り返ってみると、住む場所も、働く場所も、僕たちは同じところに留まり続けることが無かった。
たぶん、僕も妻も退屈が苦手なんだと思う。
新しい場所に行く。
知らない街を歩く。
新しい仕事に取り組む。
新しい価値観に触れる。
そういった変化の中で、僕たちは前に進んできた。
ノマド的な移動生活にも、どこか憧れがあった。
何事にも縛られず、その時々の感覚で、住む場所も働き方も、自由に選ぶことができる。
そんな生き方に惹かれる気持ちは、今もある。
長倉顕太さんの『移動する人はうまくいく』にも、とても共感した。
移動することで環境が変わる。
環境が変わることで、自分の考え方や行動が変わる。
同じ場所で悩み続けるより、動いたほうが早いことは間違いなくある。
実際に、僕たちは移動することで、たくさんのものを得てきた。
街が変わるたびに、生活の感覚が変わった。
仕事が変わるたびに、自分の見える世界が変わった。
そのたびに、少しずつ強くなり、少しずつ自由になったと思う。
移動することは、僕たちにとって成長の手段だった。
でも今は、少し考えが変わってきている。
住んでいる入谷という場所を、もっと深く知りたい。
上野や浅草に近く、少し歩けば古い街並みの気配が残っている。
大きな観光地のすぐそばにありながら、生活の匂いがとても濃い。
華やかさだけではなく、労働や歓楽、教育、芸術、宗教など、様々な歴史が、今も地層のように残っている。
この土地を、ただ「次に移動するまでの場所」にするのはもったいない。
これまでに経験してきたことを、自分たちの解釈で積み上げてみたい。
そんな気持ちが、じわじわと少しずつ出てきた。
もしかすると、もう僕たちは「成長」という言葉に、以前ほどの強いこだわりが無いのかもしれない。
もっと速く変わる。
もっと新しい場所に行く。
もっと刺激を受ける。
もっと自分を更新する。
そういうことも、もちろん大切だ。
でも今は、自分の考えや想いを、ゆっくりと丁寧に深掘りしてみたい。
移動によって得られるものがあるように、留まることでしか見えてこないものもあるのではないか。
そんなことを考えるようになった。
そこで最近、僕たち夫婦が意識し始めたのが、
“地産地消” ではなく “地縁消費”
という考え方だ。
地方であれば、地元で採れた野菜を買ったり、近くの農家さんから直接買ったりと、いわゆる地産地消が実践できるかもしれない。
でも、東京の都市部で暮らしていると、それはなかなか難しい。
入谷で暮らしているからといって、入谷産の野菜を毎日食べるわけにはいかない。
けど、地域の人から買うことはできる。
地域の店を使うことはできる。
近所の人と、少しずつ関係を作ることはできる。
それが、僕たちにとっての “地縁消費” だ。
地元で暮らしている人から買う。
地元で働いている人にお願いする。
自分たちの生活圏の中で、お金や時間や会話を、少しずつ循環させる。
これは、単なる買い物ではない気がする。
いつもの店で野菜を買う。
気に入った喫茶店に、フラッと行く。
散歩の途中で、同じ店の前を通る。
少しずつ、街に自分たちとの接点が増えていく。
さっそく、妻と一緒に近所で通える場所を探し始めた。
まずは、美容院。
次に、歯医者。
どちらも、生活の中ではとても身近な場所だ。
でも、たぶん今までは、レビューや口コミなどの評価で選んでいたと思う。
もちろん、技術や価格などは、選ぶうえで大事な要素だ。
でも、それだけではなくて、この街で長く付き合っていけそうか。
自分たちの生活圏の中に、自然に入ってくる場所かどうか。
そういう感覚も、少し大事にしてみた。
結果として、近所にお気に入りの場所を見つけることができた。
それだけのこと、と言えばそれだけのことだ。
でも、自分たちの暮らしの中では、少し大きな変化だった。
東京に住んでいると、街は便利だ。
どこにでも行けて、何でも選べる。
電車に乗れば、良さそうな店も、有名な店も、いくらでも見つかる。
でも、選択肢が多すぎると、自分の暮らしている場所との関係は、かえって薄くなってしまうことがある。
どこでも買える。
どこでも済ませられる。
どこでも代替できる。
便利なんだけど、少し寂しい。
自分の住む街に、顔を覚えている人がいる。
何度も通う場所がある。
あの人にお願いしよう、と思える店がある。
それだけで、街は少し違って見えた。
移動することで、僕たちは多くのものを得てきた。
でも今は、留まることで得られるものも知りたい。
それは、成長をやめることではない。
成長のかたちが変わってきたのかもしれない。
新たな場所に移ることで "広がる" 成長から、今いる場所を知ることで "育てる" 成長へ。
遠くへ行くことで変わる自分から、足元を見つめることで変わる自分へ。
“地縁消費” という言葉は、まだ自分たちも試しに使っている。
何か立派な運動にしたいわけではない。
地域経済を語れるほどの知識があるわけでもない。
ただ、自分たちの暮らしを、近くの人たちと結び直してみたい。
スーパーやネット通販、大きなサービスに頼りながらも、全てをそこに明け渡さない。
少しだけ、顔の見える場所を増やす。
少しだけ、近所にお金を落とす。
少しだけ、街と会話する。
それもまた、僕たちにとっての小さな自治なのだと思う。
入谷にどれくらい住むのかは、まだわからない。
またいつか、どこかへ移る日が来るのかもしれない。
でも今は、この街のことをもう少し知りたい。
移動し続けてきた僕たちが、今度はひとつの場所を深掘りする。
“地産地消” は難しくても “地縁消費” なら始められる。
まずは近所で、気に入った場所をひとつずつ見つけていく。
この街で暮らすことを、少しずつ自分たちの手に戻していきたい。
