ホウセンカ【ハルジオンが開くとき⑤】
電車に乗っていると、次第に息苦しさを感じてくる。またこの症状が出てきたのか。愛茉と付き合い始めてからは、一度も出ていなかったのに。死ぬほど苦しいのは、もうごめんだ。
目を閉じて愛茉の顔を思い浮かべる。次第に、胸の重みが消えて楽になってきた。ただ、頭に浮かんできたのは笑顔ではなく、不貞腐れた顔だ。オレにしか見せない表情だからかもしれない。
どうしようもないほど依存しているな。愛茉がいない生活なんて、もう考えられない。隣にいてくれないと眠れないし、食欲も湧かない。
ひとりで生きていけるほど強くないのは、もとより自覚している。だから早死にしてもよかったし、孤独と戦うことで、洗練された絵が描けるかもしれないと思っていた。
そんな考えが、愛茉と出会ってから少しずつ変わってきている。孤独だけが絵を洗練させる手段ではない。そう感じるようになった。
「おかえりなさーい!」
玄関を開けると、満開の花が咲く。まさかこれが自分の日常になるなんて、不思議なものだな。
父も決して孤独ではなかった。愛する人と出会い、家族を築いていく中で、絵の色が変化している。そして結婚前よりも、晩年の絵の評価が高かった。
いまのオレにも、心から愛する人がいる。それが絵に表れていると、スミレも感じたようだ。だからこそ、話を持ってきたのだろう。
「迷っているの?」
愛茉に個展のことを話すと、そう訊かれた。正直、自分の気持ちはよく分からない。
オレの絵が、浅尾瑛士の名作と共に展示される。そんなこと、あっていいのか。一介の学生の絵が巨匠と並ぶことなど、普通ならあり得ない。
百貨店での個展とはいっても、目の肥えた人間も多く訪れる。そして同じ場所に展示するのだから必ず比較されるだろう。下手な絵を描けば「親の七光りか」と言われるのは明白だ。
「桔平くんなら大丈夫。私は、そう思っているよ」
愛茉はオレの左手を、両手でしっかりと包み込んだ。どうして分かるんだろうな。オレが、いまなにを考えているのか。
「だけど一番大事なのは、桔平くんの気持ちだもんね。私が思うより簡単なことじゃないんだろうし。それに大学院に入っても、いろいろ忙しいんでしょ」
「そうだな」
「とりあえず1か月時間を貰ったなら、焦って答えを出す必要はないんじゃない?」
「……あぁ、ゆっくり考えるわ」
愛茉が両手に力を込めた。そして吸い込まれそうなほど大きな瞳を、さらに見開く。
「ひとりで悩まないでね。桔平くん、いつも自分だけで抱え込んじゃうし。私じゃ、なんの力にもなれないだろうけど……」
「そんなことねぇよ。ひとりだったら、また過呼吸で苦しんでいたし。オレ、軟弱だからさ」
「人一倍、繊細で敏感なだけでしょ」
これでもかというくらい、強く抱きしめられた。この小さな体の、どこにそんな力があるんだか。
愛茉は自分のことを、弱い人間だと思っていた。そして必死に強くなろうとしているから、オレの弱さもすべて包み込んでくれる。
一方で、スミレはもともと強い女だ。だからこそ、オレは自分の弱さを突きつけられて、それに耐えられなくなった。
オレは結局、自分の弱さと自信のなさから逃げているだけなのかもしれない。スミレはそれを見抜いていて、またオレを追い込もうとしているのか。
とりあえず今日は、あまりいろいろと考えたくない。妙に疲れてしまった。
愛茉の手料理で腹を満たして、一緒に風呂へ入って、肌の温かさを感じながら眠りにつく。それだけで、まるで新緑の中にいるような新鮮な空気が体に沁み込んでくる。
守ってやりたいとか幸せにしてやりたいなんて、あまりにおこがましいな。守られて幸せにしてもらっているのは、間違いなくオレのほう。愛茉だって、目標に向かって努力しているのに。オレはいつも自分のことばかりだ。
なんとなく自虐的な感情が居座ったまま数日過ごしていると、長岡から連絡がきた。実家に新潟のイチゴが大量に送られてきたので、少し貰ってくれという。
長岡の実家は世田谷区の端、多摩川の近くで、最寄駅からは少々距離がある。藝大へ通学するには片道1時間半近くかかるので、大学入学後、長岡は駒込でひとり暮らしをしていた。
「浅尾くん、久しぶりねぇ!」
「ご無沙汰しています」
「ますますイケメンになっているじゃない~」
相変わらず、長岡に瓜二つの母親が出迎える。何度見ても吹き出しそうになってしまうな。
「あぁ、浅尾。わざわざ来てもらってごめんね」
2階から降りてきた長岡と母親が並ぶと、堪えるのがかなり難しい。咳払いで、なんとか誤魔化した。
「こっちこそ、いつも悪いな。イチゴは愛茉の好物だから、喜んでいたよ」
「それならよかった。とりあえず上がってよ。お茶を淹れるから」
お言葉に甘えて、2階にある長岡の自室で、ひと息つかせてもらうことにした。
「悩んでいることがあるんだって?」
長岡は部屋に入るなり、心配そうな表情で言った。
愛茉が話したんだな。今日誘ったのについてこなかったのは、長岡に話を聞いてもらえということだったのか。
「愛茉ちゃんが心配していたよ」
「悩んでいるっつーか……いや、悩んでんのか」
長岡になら話してもいい。なんとなく、そんな気分になった。こいつは先入観なくニュートラルに話を聞いてくれるから、思考や感情の整理がしやすい。
スミレとの関係は濁しつつあらかた話をすると、長岡は神妙な表情でひとつふたつ頷いた。
「……親の七光り、か。でも光を当ててもらえるのは、ほんのひと握りだからね」
「まぁな。自分が贅沢なのは、よく分かっているよ」
長岡の母親が淹れてくれた緑茶を、ひと口飲む。妙に落ち着く味だ。
「……だけど浅尾は、浅尾瑛士さんの息子っていうプレッシャーと、ずっと戦ってきたんだよな。それがどれだけ大変なことか、俺には想像できないけど……今回のことを引き受けるのに、相当な覚悟がいるっていうのは分かるよ」
愛茉が長岡を頼りにしているのは、こういう性格だからなのだろう。
ニュートラルに話を聞くものの、思ったことを言うときは、目の前の相手に寄り添う。どこか突き放した物言いをしてしまうオレとは大違いだ。
「まぁ、簡単に返事できるようなことじゃねぇのは確かだな。自分の絵が世界的画家と並んで展示されるなんて、考えただけでゾッとするわ」
「でも、浅尾が誰よりも努力をしてきたのは、俺もヨネも、一佐だって分かっているよ。俺たちの前では、いつも飄々としてるけどさ。浅尾が自分の才能を全然過信していないことも、人一倍努力家なことも、ちゃんと知っている。だからみんな、浅尾に一目置いているんだよ。浅尾瑛士さんの息子だからじゃない」
長岡は昔から、言葉に嘘がない。天然記念物並みに純粋なヤツだ。本当はオレより長岡のような人間と付き合うほうが、幸せなんだろうな。
……思わずそんなことが頭を過ってしまうくらい、オレのメンタルは不調に陥っているらしい。
「そう思ってくれるのは、ありがたいけどな。見られるのは結果だけだ。どんな努力をしてきたかなんて、誰も気にしちゃいねぇよ」
「……無理して戦うこともないんじゃないかなって思うよ。あくまでも、俺個人の考えだけど」
いったん言葉を切って、長岡は大きく「ひで」と書いてある湯のみに手を伸ばした。もう湯気は上がっていない。
「自分のペースで着実に進むことも大事だからさ。それにその話を断ったとしても、いままでの努力が無駄になるわけでも、浅尾の絵の価値が下がるわけでもないだろ。さらに積み上げて、近づけたと思ったときでも遅くはないし」
長岡らしい。オレが断りやすい道を作ってくれたというわけだ。本当に、よくできた男だよ。なんでまだ童貞なんだか。
「ただ……もしいま、行き詰まったものを感じているとしたら、思いきって流れに飛び込むのもいいかもしれないけどね。激流に飲み込まれる覚悟で」
「すげぇ激流だよ。飛び込んだ瞬間に溺れるくらい」
「そうかもね。でも浅尾には、引き上げてくれる人がいるじゃないか」
そう言われて思い浮かんだ顔は、ひとつじゃなかった。自分もそのひとりだと言うように、長岡が笑みを浮かべる。オレはいつの間にか、孤独とは程遠いところに辿り着いていたようだ。
戦いを避けるか、激流に飛び込むか。どちらも楽な道ではない。ただ、どれを選んでも、愛茉や長岡は笑って頷いてくれるのだろう。
「食べきれなかったら、イチゴシロップにするといいよ。愛茉ちゃんに、レシピを送っておくね」
大量のイチゴと知覧茶を貰って帰る際、長岡が言った。
新潟のイチゴは、酸味が少なく甘みが強い。それを頬張る愛茉の顔が早く見たくなって、オレは車のハンドルを握る手に力を込めた。
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