ひゃく・てん! ~その拾弐~
つき・なみ!
~突き放した言い方に驚いてるうちに転移したと思ったらツレが涙ぐんでいた件!~
定頼と経任が賢子に案内されて奥の間へと消えていき、和雲と祈子はまた二人きりで取り残された。
几帳の向こう側からは相も変わらず手持ちぶさたの女房たちの雑談が聞こえている。和雲は声の調子を落として祈子と確認作業を始めた。
「祈子ちゃん。さっきの、“小式部内侍”も、知ってるの?」
「もっちろんよっ。百人一首にも有名な和歌が選ばれてるよ。お母さんは“和泉式部”で、こっちも百人一首の歌人」
祈子はいまだ感激に頬を紅潮させながら言ったが、和雲からすれば目の回るような新情報である。
「ひぇ、マジかよ~。やっと一人、相模が終わったと思ったのにまた候補者が増えていくぅ~」
「あら、まだまだ。ここは藤壺なんだから、百人一首の歌人といえば“伊勢大輔”も“赤染衛門”もいるはずで、まったく油断はできないよっ」
「マ、マジかよぅぅ」
「でもま、今のところ可能性が高いのは親世代より子世代って気がするね。やっぱり三人のうちの誰かって線が濃厚なんじゃないかな。またこのままここで働いたりしながら、その時を待つしかないね」
「そ、そうだよね……」
――知らなかった。百人一首の歌人たちって、あかの他人ばかりじゃないんだ。
血縁関係や友人、恋人……かつてこの国でしかと生きていたこの国の人間たち。そのそれぞれに営みや絡まりが数多あって、それぞれにそれぞれの物語がある。
そうしてできた関係のなかで育まれた心が言葉になって、和歌となる。和雲ら現代の人間が当たり前のようにカルタ遊びをしているあの札には、一枚一枚に心が埋め込まれていたのだ。これはそれを取りもどすための転移。世継と繁樹も、確かにそう言っていた。
「あら。お二人とも、まだこちらにいらっしゃったの?」
しばらくの後、障子の向こうから顔を出したのは越後弁――賢子だった。となりに小式部内侍の姿も見える。
「ちょうどよかった。今から若宮さまのお庭遊びの付き添いですの。あなたたちも一緒にいらっしゃい。他の童たちもいるから」
◇
小式部内侍や賢子に連れられて後宮内の庭園へ向かった。
まだ幼い若宮やほかの貴族の子どもとともに、まずは庭園の散策。御所の庭はどこもひろびろとして美しく、野趣味にあふれている。
紅葉する木々の下、野花が風に揺れる。きのこや苔も風流で、その上をときどき何かしらの小動物が駆け抜けていく。
閑かなその風景のなか、とりどりの美しい衣を着た子どもたちが駆けまわるのは、絵に描いたように綺麗だった。
最年少の若宮を囲み、池にかかる橋を平安キッズたちが渡る。奥の木陰で、一人が「あーっ!」と、声を上げた。
「あめ、あめ……」
童たちがごそごそとそちらに詰め寄る。そこには、柄のない破れた傘をかぶり、小さな提灯を持った小僧の姿が。人ならざるもの……妖である。
和雲は驚いて祈子と手を取り合ったが、案外にも子どもたちは慣れっこらしい。
若宮と一番仲の良い大柄な少年が、
「雨降り小僧だ」
と指さした。小僧は傘の割れ目からきろり、目玉をのぞかせる。
「ふるよ、ふるよ……」
そして持っていた提灯をふるりと振った。
きゃーっと笑いながら、童の一人が駆けだす。つられるようにして、全員がきゃっきゃとその場を離れた。
「あの者、雨が降ると申しておったな。よし、では降る前に、蹴鞠の練習をするぞ」
若宮が手を打った。
女童の一人が、簀の子に控えている女房から鞠をもらってくる。受け取った若宮のキックオフで、蹴鞠はスタートした。
「ありー」「やうっ」「おーう」などとかけ声を上げながら、少年たちが足を振りあげる。ぽーん、ぽーんと木々の合間に跳ね上げられる鞠。
――サッカーというより、リフティングって感じなんだな。
どうやら男子のスポーツらしく、女子はみな、まわりで見ているだけ。だが和雲は本来、男子高校生。しかも現役サッカー部なのだ。
ムズムズと、湧いてくる衝動に、和雲の意志がついに折れた。
「祈子ちゃん。わたし、ちょっといってくるっ」
「え! わ、和雲ちゃん!?」
わあ、と他の女童や女房たちも声を上げた。和雲は袴の裾をつまんで、少年たちのなかに飛び込んでいったのである。
「おお。お前、女だてらに蹴鞠をやるか」
若宮が満面の笑みで言った。他の少年たちも、嬉々としてはやし立ててくる。
「宮さま、わたしはちょっと、心得がありますよ……っと」
ぽーんと蹴り上げた鞠を、また膝で打ち上げる。ぽんっ、ぽんっと何度かリフティングして、それから後ろ足で高く蹴り上げた。
おおーっと、少年たちが目を輝かせる。若宮も興味津々の様子で和雲を見上げていた。ひひっと、和雲は歯を見せて笑った。
だがせっかく盛り上がってきたところで、先ほどの妖の宣告どおり、ぱらぱらと雨が降ってきた。またたくまに本降りとなって、女房たちはあわてて若宮を室内へと引き入れた。
「和雲」
若宮が振り返って、和雲を呼んだ。
「また、ともに蹴鞠をやろうぞ」
期待に満ちた眼差しで言われ、和雲もなんだかうれしくなる。名残惜し気に女房たちに取り巻かれて去る若宮を、深々とお辞儀をして見送った。
「和雲ちゃん、すっごいね!」
祈子が綿布を持ってやってきた。ぽんと頭にそれを載せ、和雲の瞳をのぞきこんでくる。
「サッカー経験者なの? 蹴鞠、すっごい上手だった~」
「あ、ありがと。そうなんだ、小さい頃からサッカーやってて」
「そっかぁ。若宮さまもめっちゃ喜んでたし。お手柄だねっ」
ふふっと、祈子と笑い合った。
◇
それからもといた局に入ると、賢子がどこからか替えの衣を調達してきてくれた。祈子はそうでもないらしいが、和雲の服はぐっしょり濡れていたのでありがたい。
几帳の陰で着替え終えると、賢子はあたたかい葛湯も出してくれた。ほのかな甘味は甘葛煎のもの。祈子がやたらと感激しながらすすり始めた。
「お疲れさま。急に降られて大変だったでしょう。しっかり、あたたまってね」
「ありがとう、賢子さん」
そこへ脚付きの盆のようなものを持って、女房の一人がするすると入室してくる。
「和雲。若宮さまからお前に、褒美を、と」
「え、褒美っ?」
盆の上に盛られていたのは唐菓子というらしい。
「唐菓子って?」
小声で問いかけた和雲に、祈子がひそっと答える。
「唐、つまり中国伝来のお菓子のことだよ。私、食べてみたかったの~っ」
祈子や賢子とともに、三人がかりで几帳や畳を手早く整えて小さな文机を囲む。
この唐菓子は椿餅というものだそうで、見た目も味も、現代で言う桜餅のようなものだった。餡は入っておらず、甘さも控えめだが、上品でなかなかに美味しい。
「――ねえ、賢子さん。あ、いえ、越後弁さん……」
和雲が改まって呼びかけると、賢子はふふっと控えめに微笑う。彼女はそういうふうに、何事にも一歩下がって様子を見守るような、少し抑えたところのある娘だ。
「賢子でいいですよ、和雲」
「じゃあ、賢子さん。さっきの、小式部さんのことなんだけど」
「小式部どの?」
「はい。――彼女のお母さんて、ええと和泉式部さん、でしたっけ?」
「そうです。美人で有名な和泉式部どのですよ」
「美人なんだ……小式部さんはお母さん似なんだね」
「たしかに彼女、可愛いらしい方ですよねぇ。お母さまの式部さまは、歌人としても有名な方ですよね、賢子さん?」
「ええ。私の母などは仲良くさせていただいていたのですけれども、恋多き方でしたから、私生活はけしからぬ、とも……でもお和歌には優れた才を持っていらっしゃって、ちょっとした文のやり取りにも趣が見え隠れする方だ、と母から聞いたわ。この藤壺においでだった頃は、情熱的な恋歌などの素敵な作をたくさん詠まれてらっしゃったのよ」
「いまは藤壺にはいないの?」
「ああ、そうか……ご主人について、地方に移り住まれたんでしたっけ?」
「ええ、丹後のほうに。もう何年も前のことですわ」
「そうなんだ。じゃあ小式部さん、長く親元を離れて、さみしいでしょうね」
「そうね。でもそれよりも……」
ふっと、賢子は茶碗にたゆたう葛湯に息を吐きかけた。
「……親御さんもおられない宮中で、お若いながら一人で立派にやってらっしゃるのに、さきほどみたいに、お和歌の代作などを疑われたりすることが、一番いやなものよね」
高名な親を持つと、なにかと大変なんだ――そう言って目配せた定頼の顔を、和雲は思い出す。目の前にいる賢子も、あの超有名人・紫式部の娘だとか。
今よりも世襲の意識の強い時代、想像をはるかに越える苦悩もあったのかも。出来がよければ七光りか親のアシストかと疑われ、出来が悪ければせっかくのお血筋なのにと陰口を叩かれる。
――たとえば、芸能人やスポーツ選手の子どもは羨望を受ける反面、周囲からの期待や好奇の目が、激しい重圧になってのしかかってくるみたいな感じ……?
「みんな、大変なんだね」
――比較されるばかりの苦しみは、和雲にもちょっとわかる。
賢子は慌てて、ぱっと顔を上げた。
「ああ、でも悪いことばかりではありませんから。ありがたいことの方が、多いものです」
「そう?」
「そうです。私などは母のおかげで后の宮さまにも、院にさえもよくしていただいておりますし」
言って、賢子は穏やかな微笑を浮かべた。思慮深く成長した彼女は、きっと心根が素直で明るい娘なのだろうと和雲は思う。
ふと、縁側の御簾がすいとあげられて、簀の方から小式部内侍がひょこりと顔を出した。和雲らの顔をみとめて、「あら」と凛とした声を響かせる。
「みなさん、お茶をしておいでだったのですね。お邪魔をして、失礼いたしました」
「かまいませんわよ。小式部どのも、さぞお疲れになったでしょう。和雲のいただきものだけど、あなたも椿餅いかが?」
「小式部さん、どうぞどうぞ」
祈子が嬉しそうに手招きする。ぺこりと会釈をしてから、小式部内侍は祈子の隣にすとんと腰を落とした。
御簾越しに、細い糸のように降り落ちてくる雫の筋が見えた。ぱたぱたと庭先の紅葉の赤い手を忙しなく弾く音が聞こえてくる。
賢子は葛湯をすすめながら、御簾の向こうに目をやった。
「最近、よく降りますわね。まさに秋の長雨ね」
「そうだね、ほんとうに」
賢子が投げかけた言葉に応えたのは卓を囲んだ女たちの誰でもなく、雨のそぼ降る庭を背に突如として現れた男。にやりと口の端をつりあげ、驚く局の一同にさらりと流し目を寄越す。
「こういうのはどう?
『つれづれと ながめのみする この頃は
空も人こそ 恋しかるらし』」
(雨ばかりの日々に空ばかり見ている今日この頃。こんな時節は、空のほうもきっと、人が恋しいのでしょうね)
みなが見つめる御簾の先、縁側から朗々と詠みあげられた声。隣室の女たちが、またかすかに色めき立つ音が聞こえてくる。
対照的に和雲は、「また出た」と、そっと天井を見上げた。
「左中弁さま……って、あなた、まだいたの? 少将さまはもうとっくにお帰りになったわよ」
「そう言うなよ、賢子。ちょっと忘れ物を思い出して戻ってきただけだ。そうしたらあいにくの空模様で渡殿が濡れてしまったからな、立ち往生していたところだよ。君たちは一服中? 私にも、茵を出してもらえないかな、小式部ちゃん」
茵とは、真綿を包んで縫い、四方の縁を錦などで飾り付けた薄い座布団のようなものである。
名指しで要求された小式部内侍は、ふ、と息を吐いてから、局の隅に置いてある茵の一つを引っ張り出す。簾の下から定頼にそれを差し出すと、彼は朗らかに笑い、扇子を一仰ぎして腰を落としこんだ。
「ありがとう、小式部ちゃん」
「――前々から思うておりましたが……」
「ん?」
「その、“小式部ちゃん”という呼び方は、いくらなんでも少々無礼ではございませんか?」
「そう?」
「私のことを侮るお気持ちが透けて見えるようでございます」
「まさか。今度の御前での歌合の詠み手にも選出されている一流歌人どのを軽んじるなんて、そんなことは、とても」
一流、とやや声を大きくして定頼はうそぶくように言った。その含みのある物言いに、和雲はひそかに眉根を寄せる。
「あんな大々的な催しに、才を買われ、その若さでご指名を受けるなんて、過去にも聞いたこともない栄誉だ」
一方的に声高に褒めちぎる男の様子を、小式部内侍はじっとうかがっている。そんな彼女に対し、定頼は口角をくいと上げ、いつもの余裕ありげな笑みを浮かべてみせた。
「さすがだね、小式部ちゃん」
「はあ」
「ときに――お和歌のほうは、いかがでしょうかね。丹後への遣いは、もうお戻りかな?」
「……おっしゃっている意味を図りかねますが」
「だからさ、君の和歌上手なお母さまにお願いした代作の和歌は、もう準備できてるのかなって。歌合の日取りはもう間もなく。まだお文が戻ってきていないのなら、さぞ心もとないお気持ちでいっぱいだろうと思ってね」
しん、と場の空気が冷えて、しとどに降る雨音だけが響いた。やり取りが聞こえていたらしい隣室の女房たちのひそかなざわめきが、それに混じって忍び込んでくる。
和雲は困惑して祈子に救いを求めたが、彼女はいつになく真摯な瞳で小式部内侍の背を見つめていた。
「応援しているよ」
しなる弓のように目を細めてささやきかけるや、定頼は扇をたたんで立ち上がった。が、一歩を進みだしかけて、その場でたたらを踏む。
ぐいと御簾を持ち上げて、上体を半ばまで縁側に乗り出した小式部内侍が、定頼の直衣の袖をつかんで引き留めたのである。
『――大江山 いく野の道の 遠ければ
まだふみもみず 天橋立』
(大江山を行く生野の道は遠いのです。母からの文(手紙)など、読んでもおりませんし、天橋立も、踏みしめたこともございません)
和雲の隣で、祈子がふるりと身体を震わせた。
「……こは、いかに」
まるで祈子の震えが伝染したように上ずった声音で、定頼は嘆息した。
「当意即妙とは、まさにこのことか」
動揺を隠しきれない口ぶりでつぶやき、小式部内侍をじっと見つめ返す。小式部内侍も目を逸らすことなく、幽かに笑う。
「……母は遠く、心細いことも確かにございますが、この藤壺では越後弁どのを始め、多くの方々に支えられ日々を過ごさせていただいております。――左中弁さまのご声援にも、感謝いたします。歌合の日を、どうぞ楽しみにしていてくださいまし」
それからようやく、定頼の衣の端から手を放した。
「定頼さま」
「え」
「ご返歌を?」
意表をつかれたように、定頼があえいだ。
「き、今日はこれにて失礼しよう」
とだけ絞りだし、そそくさとこちらに背を向けて、縁側へと足を踏み出していった。
その後ろ姿を見守っていた和雲の視野が、ふと制止する。ぐずぐずと、あたかも外の雨ににじんでいくかのように溶け始め、世界に歪みが生じたのがわかった。
小式部内侍の和歌が心をもって響き渡り、転移が巻き起こされるのだ。
ぬぐいきれない違和感がわだかまったままの退場となったが、和雲はその直前、確かにこの眼で見たのだ。
混乱してさわぎたてる隣室の女房たちの怒号とどよめき。そのなかを立ち去ろうとする定頼が、会心の微笑みを浮かべていたのを。
