ひゃく・てん! ~その陸~
だん・かい!
~雅ダンスの強制特訓になかばヤケクソになっていたら大人の男の快心の一撃をくらった気分の件!~
陽が暮れれば、比右姫のもとへ向かう。
平安時代には宿直といって夜勤もあるそうだが、宗貞はそうした宿直の日にも、時間に都合をつけて欠かさず姫の邸へ日参した。
来る日も来る日も、なんだかんだと言いながら和雲を連れて邸に上がり込む。邸内には女房が多く働いているから、男の枢よりも女童の和雲のほうがつかいやすいらしい。
――都合よく利用されるのはまあいいんだけど……。
「ばっ……化け猫だぁぁあーっ!!」
もはやお決まりのように、姫と宗貞の奇怪な対決も毎夜続いているのだ。
大蜘蛛、大むかで、また別の日には無数の幽霊。回廊を業火や大洪水が襲ったこともあった。もちろんすべて、姫の術である。
毎度毎度、わかっていても絶叫して腰を抜かしそうになる和雲とは対照的に、宗貞は涼しい顔で「おやおや」と笑うばかり。呪文を唱えたり読経したり、障害物をゆうゆうと片づける。
そうしていつからか、その後に少しだけ、姫に目通りができるようになった。御簾越しに二言三言、言葉を交わして引き上げる。
宗貞は通った証として榧の実を一つ、毎日姫に届ける。そして自分は、牛車の榻の縁に短い線を刻んでいく。左上から始まり、右下へ。時計回りのそれは、もう下側の縁を埋め始めていた。
そんな日々が幾日も続き、少しずつ、少しずつ、姫の邸での滞在時間は目に見えて長くなっていったのだった。
「――あなたも存外、しつこい方ね」
とはいえ、姫の塩対応は相変わらずだ。
「根気強い、とお思いになってください」
宗貞はしかし、へこたれない。
――この人、にこにこしてるけどほんと強いよな……。
和雲も感心するやら、呆れるやら。
ほう、と長めに息を吐いた姫は、いつものごとく世間話に転じた。
「そういえば、もうすぐ新嘗祭ですわね」
「いかにも。御所はその準備でもちきりですよ」
「姉も忙しくしているようです。私も買出しなどの遣いを頼まれました」
「ああ、小野町どのですか。采女のかたがたならば、まさにご多忙の直中でしょうな」
――姉? 小野小町って、お姉さんがいるのか。
待てよ……小野町がお姉さんで小野小町が妹? ってこと?
平安時代の名前、ほんとによくわからん……と、和雲がぐるぐる考え込んでいるうちにも、二人の会話はすすんでいた。
「こたびの五節の舞姫には、あなたのお名前もあがっているとか?」
宗貞がちらりと笑う。姫は露骨に嫌そうなうなり声を漏らした。
「それもまた、あなたの差し金ですの? 見え透いた世辞をならべたてて、父をそそのかしていらっしゃるんでしょ?」
「心外ですなぁ。まことに美しきものは出し惜しみせず、人々の心の潤いのために表にあらわしていただきたいと、心からの気持ちをお伝えしているだけです」
「安売りをするつもりはありませんわ」
「でしょうね」
けんもほろろに断られているというのに、宗貞はなぜか嬉しそうだ。むむ、と姫も口をつぐんだ。
「――五節の舞姫……そうだわ。この和雲を、舞姫に推薦するというのはいかが?」
「ええっ!?」
五節舞は新嘗祭翌日に催される豊明節会のメインステージだ。その舞姫は四~五人。貴族や受領の娘たちのなかから、後推しのある者が選抜されるのだ。
唐突な発案に、和雲はひっくりかえった声を出したが、姫はかまわずに宗貞に向き直る。
「女童とはいえ、この年頃ならもう充分。舞姫には後見が要りますけれども、あなたの推薦なら可能でしょう? お宅の家司の誰それの娘、ということにして」
「無理無理! 無理ですからっ!」
「大丈夫。お作法は私が手ほどきをしますわ。衣装やその他、もろもろの準備は少将さまが。よろしいですわよね?」
「宗貞さまっ!」
和雲はすがるように見上げたが、ふむ、と宗貞は自身の顎を撫でた。
「惚れた弱みです。いたしましょう」
「そ、そんな無茶なっ!」
――舞なんて、できるわけがない! そんなものとはからっきし無縁の現代人だし、だいいち俺は男なんだぞっ!!
だけど必死の抵抗の甲斐もむなしく。
無駄に熱意のある姫の要望と、喜んでそれに応える宗貞。「誰に養ってもらっているのかな?」と言われてしまえば、もちろん和雲には断るなんて選択肢はなくて。
翌日から、和雲の舞姫特訓が始まったのだった。
そもそもが所作からである。舞の型、行儀作法はもとより、言葉使いから歩き方、扇の持ち方まですべて一から鍛え直された。世にも可愛らしい姫の唇から、ビシバシと情け容赦ない叱責が矢のように飛んでくるし、宗貞はにこにこと微笑みを絶やさないまま底冷えのする言葉と瞳で詰めてくる。
「違う違う! もう、何度言ったらわかりますの。手はこう! 顔はこっち!」
「和雲、そこは万葉集のこの和歌をもとに、これこれこのように答えるのだ。こんな初歩的な問答もできないとは、お前の頭はなんと嘆かわしい」
「だから違うったらっ! もうっ! お猿だってもっと上手にできますわよ!!」
「詠歌の際にはもっとあふれでるような気持ちをこめるものぞ。まったく……雅を解する心も持ち合わせておらんのか」
――鬼が二人……!
スパルタ教育のなか、やっとのことで休憩をもらい、和雲はよろよろと縁側へ逃げ出してきた。ごろりと仰向けになって涼しい風に吹かれ、ぜぇはぁと息をつく。ここのところ、毎日こんな調子である。
――なんだよ二人とも、こんな時だけ息もぴったり、仲良く人をいたぶりやがって。
平安人が現代人をよってたかってビシバシしごく……これって何ハラ? 雅ハラスメントでミヤハラか!?
「も、もう動けん……」
そもそも十二単は重いのだ。稽古用に少しだけ軽減してもらっているとはいえ、それでもその重量は数十キロ。
着て歩いてるだけでも体力を消耗するというのに。
「和雲~」
女房が自分を探す声に、和雲はびくりと肩を跳ねさせた。警戒心丸出しの猫のように、産毛を逆立ててさっと身構える。
「和雲、どこにいったの? いまのうちにお化粧の練習もしておくわよ~」
――お、お化粧っ!?
ばか言うな! 今はしかたなくこんなかっこに甘んじてるけど、俺は男だっ!!
「やってられっかっ」
あわてて逃亡をはかる。こそこそと縁側に沿って奥の間へといざっていく。するとその先、人の気配に気づき、あわてて物陰に身をひそめた。
くすくすと、聞こえてきた忍び笑いは宗貞のもの。姫の声も聞こえる。そっと首をもたげて見てみると、薄明りのなかで几帳をはさんだ二人の姿。
しごきつかれて、鬼どもも休憩中のようだ。姫の奏する和琴の音が、夕風に乗ってたおやかに届いてくる。
「『乙女ども 乙女さびすも』……」
ふと、琴の音に合わせるように宗貞が口ずさむ。
「……『唐玉を 袂に巻きて 乙女さびすも』」
びぃん、と弦をかき鳴らした姫が、後を続けた。
乙女ども――この和歌は大歌という。
奈良の時代、天武天皇の吉野行幸の際。夕暮れに和琴を弾く帝のもとへ天女らが舞い降りてきた。天女は五度、袖をひるがえして舞を舞った。帝はその時の感動を和歌にして残し、それをかたどったものこそが五節舞なのだそうだ。
「天武の帝が乙女らをご覧になったのは、いまこの時のような黄昏のなかであったものかな」
「きっと、そうなのでしょう。この時刻、空にはこんなにも清らかな風が吹いておりますもの」
「近江の地には、地上へと舞い降りて水浴びをする天女の羽衣を隠し、天へ帰れなくなった乙女を妻とした男の話もありますな」
「ございますわね。たしか、おおもとの伝承は天竺のものなのだとか。どこの国でも、天女に憧れる殿方は多くいらっしゃいますのね」
「それはもう、男であればこそ。かくいう私もその一人です。私は近ごろとみに、天女の羽衣を隠してしまった男の気持ちが痛いほどわかるのです」
返事のかわりに、琴の音が響く。
「比右姫」
しゃり、御簾がきしむ音がした。小さく息を飲むような音は、どちらのものだったのだろう。
「あなたはまるで天女だ。まばゆいばかりの羽衣を身にまとい、伸びやかに天翔けるようなお姿。秀外恵中、姿かたちばかりでなく内実にも優れたあなたのような方に、私は初めてめぐり合った」
「少将さま……」
「願わくは、私もその羽衣を隠してそっと捕まえてしまいたい」
熱のこもった愛のささやき。和雲は物音をたててしまわないよう、呼吸を止めた。
「――そうして私は、“良岑宗貞の妻”と呼ばれるようになりますのね」
「おいやですか?」
「……わからない」
ふと、姫の声がにじんだような気がした。
「わからないのです。“小野良実の娘”、“良岑宗貞の妻”。子を産めば、“誰それの母”……生まれながらにして持つ名がありながら、女はなぜ、それ以上には呼ばれないのか。“誰かの何か”でなくてはなりませんか。なぜ、私が私のままではいられないのか――」
比右姫の声はゆらゆらと揺らぐ。それは宗貞を拒否しているというより、ほんとうにわからないのだ、と訴えているように和雲には思えた。
「羽衣伝説……」
「え?」
「伝説の乙女は幸福だったのかしら」
「姫……」
「人に嫁し、人の子を産み育て、天を舞うことも帰ることもできず……家庭の愛に満ちたその結果は、もしかしたら、人として過ごすには充足のものなのやもしれません。でも天女として産まれた乙女は、はたしてそれでよかったのかしら」
「……」
「人として、それとも天女として、一体どちらがしあわせだったのかしら。乙女は」
しんと静かな秋の暮れ。さっきまで茜色だった空が、今はもうほとんど藍染ににじんでいる。
ぽろりん、と、琴がささやかに鳴いた。
「さても――難解な問題です」
宗貞が深く息をついた。
「私も思うことがあります。世に生きる人のしあわせとは、はたしてどこにあるものか、と」
「少将さまも?」
「はい。もっとも、私にはもともと羽衣がありませんから。天の上やはるかかなたに探すべくもない」
ですから、と言葉を続ける。
「何度考えても同じところに行き着く。この日々のうちに、この手のなかに、探して求めてつかみ取っていくしかないものと、私はそう心得ているのです」
「日々のうちに……?」
「そうです。目で見て耳で聞いて、話して、歩いて、動いて。この心と体で生きていく、この日々のなかに」
姫の返事はなかった。やはり静かな琴の音だけが、ぽろりんと鳴いた。
◇
和雲の魔鏡生活は続く。
推定十二歳の女童姿のまま、昼は宗貞の身の回りのお世話、夜は比右姫の邸にて舞姫特訓。
そして今日は御所への出仕のお供。外出につき従うのもだんだん慣れてきた。
牛車にも駐車場のような専用の置き場があるらしく、枢はそちらへまわった。和雲は宗貞について庭園を歩き、そこで少し待っているよう申しつけられたところだ。やるべきことは多くないので、基本的にはいつも、待ち時間が長い。
――スマホとかないもんなぁ。そういやテレビとかもないし、音楽も動画もゲームもなしで、みんなどうやって待ち時間を過ごしてんだろ?
楽しみとかあんのかなぁ? などと池の魚を眺めながらぼんやり考えていると、
「これ、そこの」
と、すぐ後ろから声をかけられた。振り返ると、庭園を歩いてやってきたのは時康親王だった。
「わ、わたし?」
「そう。そなた、良少将のところの女童であろ?」
――皇子さまだーっ!
ひええ、と及び腰になって返事もできない和雲に、まだ若い親王は遠慮なく詰め寄った。
「近ごろ、よく供をしている者であろうが。少将はどこか?」
「あ……はい。宗貞さまはそこの建物に。すぐに戻るからここで待て、と」
「そうか」
では私も待つとしよう、と言うと、和雲のとなりに陣取ってしまった。思いがけない人物と二人きりにされて、和雲は緊張しっぱなしだったが、時康親王のほうはいたってリラックスした様子。
――あ、そうか。皇子さまってことは、この御所が自分ん家なのか。
言葉を交わしたのは今日が初めてだが、和雲とも何度か会っているし気安いものなのだろう。
――この皇子さまは、なんだか親しみやすい……。
同じ皇族でも、前に会った天智天皇は“大王さまオーラ”の圧がすごかったけど。
まだ若い親王は穏やかに、庭に目を向けている。あ、と声を上げ、和雲を振り返った。
「池の向こうの常夏が可憐だな」
「とこなつ?」
秋なのに? と思わず小首をかしげる。親王はくすっと笑い、「ごらん」と庭園の下生えの花々を指さした。
淡いピンクや紫。とりどりの撫子の花が揺れている。
――常夏って、撫子のことかぁ。にしても、仮にも皇子さまが、そこらへんのそぼくな花を見てこんな嬉しそうに……。
庭にはほかにも椿や桔梗など、あざやかな花が咲き競っているというのに。
「こういう、自然のなかに何気なく咲く花は好ましい。なんともけなげで、いじらしい命だと思わぬか」
「あ、はい。そうですね」
やはり、この人は親しみやすいタイプだ。ちらりと横目に見ると、ちょうどこちらを向いた時康親王と目が合った。
「そなたにも、そういう花が似合いそうだな」
「え……」
「こたびの五節舞には良少将が舞姫を出すと聞いた。よもや、そなたのことか?」
「ああ、はい。そういうことになってます」
親王は「やはり」とうなずく。
「……そなたの舞、私も楽しみにしておる」
そこで、和雲よりほんの少し高い位置にある頬がほんのり紅く染まっていることに気がついた。
――あれ、これって……。
少年と少女が見つめ合う。純朴そうな少年に対し、少女の中身は男子高校生の和雲だ。なのにそのシチュエーションに、思わず胸がドキドキしてしまう。
――い、いたたまれないのに目が離せない。どどど、どうしたら……っ
「宮さま」
「少将!」
背後から呼ばれた声に、時康親王がぱっとそちらを向いた。和雲は小さな胸をほっとなでおろす。
「お待たせをいたしました」
「いや。この者に相手をしてもらっていた。――そういえば、名は何というのだ?」
「和雲、と申します。以前にお話しいたしました舞姫の……」
「うん。いまその話をしておったところだ」
和雲か、と親王が小さくつぶやく。秘め事がバレたような気分になって、もじもじしてしまう和雲。
「ときに少将。小野良実の娘のことだが」
――小野良実の娘……それって比右姫のことだっけ?
「百夜通いとやらの噂を聞いた。少将の成果は、いかばかりかと」
「おや。宮さまがそのようなことをお気になさるとはお珍しい。さてはどなたか、気になる女子がおできになりましたな?」
「い! いや、私は……」
ちらりと親王がこちらを見る。和雲はなんだかもう、穴があったら逃げ込んでしまいたかった。宗貞はそんな二人の様子にひたすらにこにこしている。
「わ、私のことはよいのだ」
こほん、と親王がしきりなおした。
「宗貞。小野の姫君のことだが――父上のもとへ更衣として召し上げる話が出ているのだ」
――更衣?
和雲は首を傾げた。宗貞を見ると、静かに微笑をたたえたままだったが、その目にはかすかに動揺の色が浮かんでいる。
「父上は姫君の美貌のみならず、才をも高くかっておられる。神泉苑での雨乞いの折、その素晴らしさにいたく感激なされたそうだ。身分を偽って何度かお文を遣わされたそうで、そのお返事も素晴らしかった、と」
『色見えで うつろふものは 世の中の
人の心の 花にぞありける』
(花ならば色に見えてその移ろいがわかるものですけれど、あなたのお心が移ろうのはどのようにして確かめればいいのかしら?)
男の心などあてにはならない、と、比右姫にからかい混じりに返されたのだろうか。
――つまり……帝も姫を狙ってるってこと?
和雲は眉をひそめた。――せっかく宗貞が何日も通って、ここまで仲良くなれたというのに。
「先だってご寵愛の女御さまを亡くされてから父上はたいそう沈んだご様子で過ごされておる。……そのような優れた女性がおそばに仕えてくれれば、さぞお心のお慰めになろうと、みな申していてな」
まだ決まったわけではないようだが……とそっと付け加える。
時康親王は宗貞を気遣っているのだろう。あくまで彼の様子を見ながら、言葉を選びつつ慎重に伝えているようだ。
「お伝えいただきありがとうございます、宮さま」
宗貞がいつもの人当たりのよい笑顔で言った。
「ですがご心配にはおよびません。百夜通いとは申しましても、もともとは戯れで始めたこと。それは姫君のほうも重々ご理解のうえなのです」
「そ、そうか? ならばよいのだが、その……少し気になってな」
「宮のお心遣いには頭が下がるばかりです。ですが、これも男女の間の愉しみのうち。――ああ、宮におかれては、まだまだこれから学んでいかれることであろうと思いますが」
ちらり、和雲に目配せをした宗貞。時康親王はまた、ぽっと頬を紅潮させた。
「だ、だからっ、私のことはよいのだと……っ」
「おお、これはこれは。ですぎたことを」
朗らかに笑う宗貞に、必死で言い繕う時康親王。その光景はむずがゆくもほほえましくもあったけれど。
和雲はさきほどの宗貞の言葉にひっかかりを覚えていた。
百夜通いはいたって順調だ。舞姫特訓を機として滞在時間も日に日に長くなっていってるし、二人の会話も格段に増えている。奇怪な法力対決も、いまは不気味な現象ではなく、かわいらしい式神を案内に出してくるほどだ。
和雲の目にも、どんどん親密になっていく二人の様子がありありと映っていた。
――なのに、なんで……?
自分を気遣ってくれる親王を安心させるためだったのか、本心からの言葉だったのか。その時の和雲には、判断がつかなかった。
◇
「新嘗祭までもうあと数日ですわね」
今日も今日とて比右姫の邸。
舞姫教育も佳境。二人はすこぶる楽しげに、和雲はいよいよ悲鳴を上げながら、猛特訓がおこなわれている。
そう、新嘗祭はもうすぐ。
宗貞と姫の約束の百日目も、もうすぐ。
――あの、榧の実……
和雲は比右姫が、宗貞の届ける榧の実を保管していることを知っている。以前、姫の自室でしつけを受けていた時、螺鈿の箱に今までのすべての実を大切におさめているのを見かけたのだ。
――やっぱり……すごく、いい感じなんだよな。
比右姫からは心待ちにしている空気が読み取れた。それは自分が育てた和雲の晴れ舞台のことだろうか、百夜通いの成功についてだろうか。
どちらにしろ、最初の頃とは大違い。純粋な笑顔を拝めることもあるし、会話だって饒舌そのものだ。少なくとも、宗貞を拒否しているような印象はまったく受けなかった。
そうして、迎えた九十九夜目。
和雲は比右姫から、やっと舞姫としてのお墨付きをもらった。もちろん、つけやきばではあったけれど、毎日毎日、一月近くかけて仕込んだのだから一つの舞台くらいはこなせるだろう、と。
「あとは少将さまの采配で当日のお仕度をいただき、御所入りするだけですわ」
「そのあたりはご心配なく。よそ様の舞姫に引けを取らぬ整えをいたしますゆえ」
お願いいたしますね、と比右姫がぺこりと頭を下げる。
「……今日まで、とても楽しかったわ」
「ええ。私もです」
「やはりこうして何かを成すことができると、充足を感じるものですわね」
「そうですね。ええ、わかりますとも」
「明日で百夜……」
花咲くような扇の上から、姫が宗貞を見つめる。
「あなたは……ここまでの成果に充足感を得ていらっしゃることかしら?」
「まだ九十九夜ですので、今はなんとも……」
「そう、あと一日……」
きらきらと、比右姫の瞳がきらめいているように、和雲には思えた。燈台の灯りがみずみずしい姫の顔だちを淡く彩っている。
「あと一日が過ぎれば、私は“良岑宗貞の恋人”、と呼ばれるようになりますわね」
「ええ。明日の夜をともに過ごすことができれば、その暁には、きっと――」
――楽しみにしている、と。
やはり和雲にはそう思えてしかたなかった。姫の美しさは恋に咲き初める乙女のもの、と。
「姫君」
宗貞が静かに呼んだ。
「なんでしょうか」
しっとりと、甘い声色の姫が答えた。
「……あなたは、あなたです」
宗貞の声はおだやかに低い。闇のなか、ほのかにともす灯りのような、あたたかな音。
「この先、誰の何になろうと、あなたはあなたのままだ。覚えていてください。それは誰かが決めるものではなく、ただ、あなたのありようのすべてであると。――あれからずっと考えていたのですが、ようやく答えが出せました。この百夜通いで私が得たものはとても大きい。すべて……すべて、あなたのおかげです」
「少将さま……」
深夜、「では、また」と短い言葉を残し、宗貞は和雲とともに帰路についた。
◇
明けて翌日。雨がしとどに降っている。
和雲は暗い空を見上げ、今日は荷物が多くなりそうだと考える。牛車の榻に刻まれた傷跡は九十九本。百個目の榧の実。
今日で、百夜目だ。
「宗貞さま? 仕度ができましたよ」
和雲が声をかけるが、宗貞はまだ衣も整えず、自室でだらりと書物などを読みふけっていた。
「ああ、和雲か。……今宵は雨がひどいな。これではもう、出かけられまい」
「え……」
「枢にも、そう伝えておいてくれ」
「だって……」
――今日で、百日目なのに。
ばしばしと、雨音が乱暴に屋根をたたく。木造の寝殿造りには、その音はいやに大きく鳴り響いた。
「この前の……宮さまのお話を気にしてるんですか。姫が御所に上がるって」
「ああそうか、お前も聞いておったのだったな」
「あ、あんな話より、大事なことがあるって……わたしは思います。だって、だってお二人の心はもう……!」
「あの折」
和雲の言葉を宗貞がきっぱりとさえぎった。
「聞いていたであろう。百夜通いは男女の戯れ事。私ははなから、そのつもりであったと」
「うそだ!」
知らず、和雲は声を荒げた。
「そんなのうそだ。ずっと見てればそれくらい、わかる」
く、と宗貞がのどで笑った。何かをこらえるようなその仕草に、和雲は眉をひそめた。
「人の心など、かんたんにわかるものか」
「わかる! なんでだよ、せっかく心が通じ合っているのに……っ」
言いながら、和雲の脳裏に忠岑の和歌がよみがえる。朝焼けのなかで見た、彼のすがすがしくも切ない諦念の微笑みも。
――あんたらは、身分だって申し分ないじゃないか。妨げるものなんか、なにも……。
忠岑とも違う、もちろん、和雲とも全然違う。
――むしろあんたは、大和みたいで……。
ふるふると震えるこぶしを握りしめている和雲に、宗貞はやれやれと首を振ってみせた。
「お前には大人の考えなどわかるまいな。まだまだ子どもだから」
鼻で笑うような物言いに、いよいよかちんとくる和雲。燈台の炎が、ゆらりとゆらいだ。
「……大人の言い分は大嫌いだ。子どもにだって、ものを考える頭ぐらいある」
「それはなんとも、子どもらしい言い分だな」
「ば、ばかにすんなっ!」
がっと仁王立ちになって、和雲は宗貞をにらんだ。女童とは思えないその振る舞いに、さすがの宗貞も驚いて目を見開く。
「そうやってなあ、物分かりいい顔して諦めて! それがかっこいいとでも思ってんのか! それがほんとに賢い大人だってのかよっ!」
「和雲……お前」
「そんなつまんねぇ大人なんか、俺は絶対なりたくないね!!」
どんっと雷が落ちる音がした。風はいよいよ、強く吹き荒れている。
「――どのみち、雨がこれほどでは、行けぬ」
宗貞が低く、うなるように言った。
「私はもう休む。お前も、今日は早めに休め」
そうして宗貞はそれきり、奥の室に錠をかけてこもってしまった。
「枢!」
髪を振り乱して駆けこんできた和雲に、枢が驚いて立ち上がった。
「和雲、どうしたんだ、そんなにあわてて」
「頼む、力を貸してほしいんだ。馬を、馬を出して!」
「え。で、でも。ご主人様は……」
宗貞はすでに就寝してしまったと聞き、枢も途方にくれていたところだった。
「いいから! 早くっ!!」
和雲の剣幕に、枢は気圧されて走り出す。すぐに裏手に馬をひいてきて、和雲をその鞍に乗せてくれた。
「比右姫のところへ!」
枢はもう何も言わなかった。和雲よりも前からずっと、彼は宗貞に従っていたのだ。きっと彼にも、思うところがあるはず。
雨脚に追い立てられるように、通いなれた道を馬はかけた。枢は小さな和雲の身体を前にかばい、二人で衣をかずいて風雨をしのぐ。
足場の悪いなかを決死の思いで駆け、やっとたどり着いた邸の門を和雲はたたく。
「こ、こんばんは!」
返事がない。雨音にかき消されて聞こえないのだろうか。
「姫さま! 姫さまっ!!」
――宗貞ではなく自分が来たって意味がない。
わかっている。わかっているけれども、このまま何もせずに夜を過ごすなんて、そんなことできない。
和雲は必死で、濡れた戸をたたき続けた。
「和雲、あれ……」
枢に呼ばれ、築地塀の先を見ると。雨のなか、小さな、小さな白いもやが浮かんでいた。それが、みるみるうちに手足を伸ばし、愛らしい乳幼児ほどの人の形をとった。
「比右姫の式神だ……」
和雲は雨に打たれながら、そちらへ足を向ける。ゆらゆらとけむりのように揺れる式神に、そっと手を差し出した。
「これ……これを比右姫に。む、宗貞さまのお遣いで……」
和雲が差し出したのはいつも宗貞が姫に届けていた榧の実。今日で百個目になるはずだった、その最後の一つ。
小さな式神はじっと手のひらの上の実を見つめた。真っ白な頬に滝のように雫が伝う。――まるで、泣いているみたいだ。
「お願い。これを……」
和雲も泣きそうになって訴えた。だけど式神はせつなげに首を振るだけ。
やがてその姿が厚みをなくし、一枚の呪符へと転じる。そうして雨のなか、ぺしゃりとくずおれて落ちた。
◇
比右姫は御所へ上がった。その召し名を“小野小町”と称され、更衣として帝にお仕えしている、と。
あれから和雲と一言も口をきいていない宗貞だが、先日、ぽつりとそれだけ伝えてくれた。
そうして執り行われる新嘗祭。
舞姫は数日前から御所入りする決まりだった。正直、宗貞と顔を合わせるのが気まずかったので、和雲は心底ほっとした。
――もう和歌の詠唱なんて、いつになるかわかんないけど。つまりぶっちゃけ、現代に帰れる日もいつになるのかわかんないけど……
それでも重苦しい気持ちのまま、宗貞のそばにいるよりはいくらもマシに思えた。
――あの百夜通いの顛末には、どうしても納得がいかない……。
豊明節会の当日は、朝からこれでもかと飾り立てられた。衣や飾りは重いし化粧はくさいし、もやもやはまったくおさまらないしで和雲はマックスに不機嫌だった。
もやもやしながら他の舞姫の少女たちとおしゃべり。みんな貴族の娘さんたちで、人前に出るのは慣れてないからとても緊張しているらしい。
もやもやしながらリハーサル。入場から退場まで、ことこまかく決められた動きを懸命に頭にたたき込む。
そうしてもやもや、もやもやしたまま、ついに五節舞の舞台があがる。
――でもまあよく考えてみれば。
今の姿では似たようなもんだけど、本来、俺はこの女の子たちとはぜんぜん違う人種なわけだし。この子たちよりずっとお兄さんなんだし。こんな少女たちが緊張に震えているのと一緒になってビビッてる場合じゃないよなぁ……。
などと思っていたのに、いざ舞台に上がれば身体はがちがち、手足はぶるぶる。想像以上のきらびやかな大舞台と、取りかこむ観客の数にめまいがした。
――は、はわわわわ……
と、とにかくここまできたらもう、教えられたとおりにやるしかない。集中して、集中して……。
言い聞かせれば言い聞かせるほど、不思議とまわりの景色が目に入ってきてしまう。夜の闇を照らす篝火の灯り。こちらを見る大勢の人間の視線。肌がぴりぴりと焦げついてしまいそうだった。
ふと、舞台を見守る宗貞の姿がちらりと目に入る。黒の束帯で正装して、冠もきりりとかぶっている。時康親王の姿も見えた。一瞬、視線が絡んだのはきっと気のせいじゃない。
そうしてきっとどこか――御殿の奥の御簾のうちから、比右姫も見ているはず。
和雲はおしろいを塗った頬が上気するのと同様に、気分が高揚していくのを感じた。熱い視線に見守られての舞は、舞手の心をこんなにも刺激するものなのか。
『乙女ども 乙女さびすも 唐玉を
袂に巻きて 乙女さびすも』
たからかに大歌が流れている。天女の舞を称える、古の帝の歌。
――やばい。テンションが……おかしくなりそうだ。
いとあはれなり、と誰かが言う声が聞こえる。和雲は熱にうかされたような頭のなか、思った。
――そうか、これが「あはれ」なのか……
その時、帝が宗貞を指名した。すぐに応えた宗貞に、「和歌を所望する」と。
宗貞は恭しく礼をし、それからぴんと背筋を伸ばした。
『天津風 雲の通ひ路 吹き閉ぢよ
をとめの姿 しばしとどめむ』
(天吹く風よ、天女たちが帰る雲の通り道を吹き閉ざしてくれ。この乙女たちの美しい舞姿を、もうしばらく愛でていたいのだ)
それは百人一首十二番・僧正遍照の和歌だった。
瞬間、和雲にはわかってしまった。それは姫への深い思いを込めた、彼の心だ、と。
――なんだよ。
視界がみるみるにじんで、なにもかもがぼやけていく。
――やっぱり、あんただったのかよ。
涙が止まらない。白く塗りつぶされていく視野の向こうにすべてが飲み込まれていく。はなやかな御殿も、凛とした宗貞の横顔も。
――知ってるよ、その和歌。百人一首のなかでも有名なやつじゃん。
ちくしょう、すがすがしい顔しやがって。
こんな綺麗な和歌、詠みやがって。
人をさんざんふりまわして、姫の心だってかき乱して、自分だけかっこつけやがって。
やっぱりあんたなんか――あんたみたいな大人なんか、大っ嫌いだ…………!
