ひゃく・てん! ~その肆~
ちょっ・かん!
ちょっと感動して泣きそうになった矢先に現状を突きつけられて唖然とした件!
平安時代では男が女の家に通う“通い婚”が主流である。ということは、和雲も基本知識として知っていた。
結婚前の段階である恋人同士も同様に、男が女のもとへおもむくものらしい。そしてそれは、当人たちよりも、侍女である女房や、小舎人童や女童と呼ばれる召し使いの子どもたち……そういう多くの者たちのなみなみならぬアシストの上に成り立っていたことを、和雲はこの夜、身をもって理解することになった。
あのあと、中の君が書いた返信の文を、小舎人童を遣わして忠岑に届けさせた。
いわく、
『夢路には 足も休めず 通へども 現に一目 見しごとはあらず』
(夢の通い路では足を休めることなく毎日通ってきてくれるけれど、しょせん現実に一目見ることにはかなわない)
と。
これは、現代でも絶世の美女として有名な女流歌人・小野小町の和歌らしい。
一見、会えない辛さを歌ったもののように思われるが、「夢ではほいほい会いに来るくせに現実にはまったく会えないってどういうことかしら?」との非難の色のほうが強い和歌なのだそうだ。
“あなたが恋しいです”と、おべっか混じりに寄越した忠岑に対する遠回しな皮肉。姫の教育係の女房の入れ知恵で採用されたものだ。こう言われたら、真に姫を恋しく思う身なら、忍んで会いに来るしかないだろうとの算段だ。
さて、そこからがまた大仕事。逢い引きのために姫の居室を整え、姫の父や母、兄の動向を確認。その従者らにも根回しして、密会が見つからないよう入念に注意する。
邸内が寝静まった頃を見計らい、縁側に案内の女房を配置。夜陰に紛れてやってきた男を手引きし、なかへと招き入れる。
和雲も年嵩の女――どうやら姫の乳母らしい――の先導で他の女房らとともに逢瀬に向けての準備に奔走した。
よい匂いのする香を焚き染め、畳を敷き、文机や鏡台などの調度を動かし、御帳台を組み上げて室内を整える。それは単衣装束の女たちには、なかなかに骨の折れる重労働だった。
――御帳台って……これはつまり囲いつきのベッドだよな……?
などと内心で思いつつ、和雲も小さな体をフル活用して働いた。
姫の近待のものたちとともに準備を仕上げ、かの男の訪れを待つ。
だが……忠岑はなかなか来なかった。
月が高くなり、さらに傾き始め、夜はしんしんと更け行く。密やかにおしゃべりを続けていた女房たちがうつらうつらとし始めても、その影すらも見えない。
よもやすっぽかしかと、みなの心に不安がよぎり始めたころ、ようやっと彼は姿を現した。
秋の夜半、這うような寒気に包まれる縁側に、穏やかな声が響いたのである。
「――壬生忠岑が参りました」
姫の返答はすぐにはなく、しばしの間があいた。
対屋にある奥まった室《へや》。邸内は襖や簾などでフレキシブルに仕切られていて、基本的には壁がない。
この部屋は一方が板壁で、残る三面を障子と御簾で締め切り、女房たちはその障子の外側にこぞって控え、固唾をのんで、次の言葉を待っていた。
「……お前、そんな声をしていたのね」
ようやく、姫の声が聞こえてくる。
「あんまり長く聞かないものだから、もう耳が忘れてしまっていたわ」
「それはそれは」
憤懣やるかたない姫の皮肉に、忠岑が苦笑をこぼす。
「なんとも、つれないお言葉ですね」
「あら、つれないのはどっちなのかしら……兄上のためには霜を踏み分け夜半にすらお出かけするらしいとうかがいましたけど」
昨夜の左大臣邸での出来事を引き合いに出し、姫は牽制の手を休めない。
「あいかわらず、おべっかだけはお上手のようね」
「それはまぁ。私どものような身分卑しいものは、あなたのようにぬくぬくと庇護されている貴人とは違い、生き抜く術が必要ですので」
「そうね、わたくしのような貴人には、あなたのような卑しきものの低俗な考えなど、知るよしもないわ」
――ちょっと待って。
和雲は目線だけでまわりの女たちの様子をうかがった。彼女らもみな、一様に緊張した面持ちでじっと成り行きを見守っている。
せっかくの逢瀬――しかもどうやら久しぶりの――が叶ったというのに、どうにも刺々しい空気が充満している。二人の間の御簾も、固く下ろされたまま。
「そうですね」
忠岑がやんわりと返す。
「もともとあなたと私の住む世界には、邸の階段やこの御簾どころではない多大なる隔たりがある」
「……見た目には、ほんのわずかの距離ね」
「真実は見た目では測れません」
「そうね……まさかお前のあの“愛を乞う言葉”の数々が、偽りだったなんて」
「偽りとは心外ですね」
「定方は白状したわよ。『男嫌いの姉を口説き落とせるかどうか賭けをした』と」
「…………」
「どんなご褒美をいただいたのかしら? 卑しきお前が、高貴なる者のお遊びに貢献して」
「中の君」
「そういえばお前は熱心に口説きこそすれ、歌人のくせに和歌を寄越すこともなく、結局は手に触れることすらなく……思えば中途半端なこと」
「……高貴なる者のお戯れで、あなたに疵を残すわけにはまいりませんので」
「あら。もう白状しちゃった」
つまんない、と中の君が微笑った。
「――参内の日取りが決まったと、おうかがいしました」
「……そうね。もうすぐだわ」
「心よりお祝いを。謹んで、前途を祈念いたします」
「……」
また、沈黙が降りた。見なくとも、晩秋の底冷えだけではない寒々しい気配を感じとることができる。
「――そんなに、喜ばしいこと?」
「……ええ」
「後宮では尚侍に内定してる。実質、帝の妃のようなものよ。これからは気ままに浮き世に遊び出ることも、簡単にはできなくなる」
「存じ上げております」
「それが、本当に、そんなに喜ばしいこと?」
「女性であれば、後宮にて帝のご寵愛を賜ることは無上の栄誉かと」
ああ、とまるで嘲笑にも似た声色で姫が息をついた。
「前にも、お前はわたくしにそう言ったわね」
「……」
「こういうことを、お前は幸福というのね?」
「……はい」
「望まぬ婚姻であっても、価値のある結婚をすることが女のしあわせと?」
「価値があり、望まれる婚姻をすることこそが、高貴なる女人がたのしあわせかと」
「……なるほど」
姫が密やかに、ふっと笑う音がする。
「それは少しわかるわ。思われることは、きっと何よりの幸福ね。さらにもしも、こちらからも思う人に思われるとしたらそれは言うべくもない。――たとえばそれが許されぬ恋で、決して結ばれないとしても。心のなかには、職務も階級も、ないものね」
「……」
「――さて。では忠岑、こちらへ」
「……中の君」
問うような忠岑の声が姫を呼ぶ。姫はまた小さく、ふふ、と笑った。
「一人寝の夜は寒々しいわ。せっかく参ったのだからお前、まだ見ぬ主の代理に、今宵わたくしを温めなさい。これはお願いではなく、命令よ。卑しきお前は、高貴なる私の一夜のお戯れに付き合うのよ」
――ちょっ……ちょちょ…………っ!
めくるめく逢瀬の一時が流れる障子の外側。和雲は眼球が飛び出るくらいに目を見開いて硬直した。
――ちょっと待ってくれ……これは……この展開は………ぁっ!
御簾の動く音がする。意外に重たい簾がざらりと持ち上げられ、そっと落ちる。衣擦れの音。いくつもいくつも、しゅる、しゅるりと。がたり、置き畳が鳴る。また、衣が動く音。今度はばさりと、大きく。二人分の息づかいが聞こえる。それからまた、布が擦れる音。するりするりと解けていく、距離と時間。くすりと、姫が忍びやかに笑う。
「中の君……」
「名を、呼びなさい」
「……満子さま」
「忠岑……」
吐息が重なる。ぎしりと畳が鳴く。ん、とこぼれ落ちた姫の呼吸――――。
「……行きますよ、和雲」
「ふぁっ!?」
唐突に小声で呼びかけられて、和雲は思わず肩を跳ねさせた。
見ると、姫の乳母と女房らがおり、かたやおいでおいでと手招きを、かたや人差し指を口もとにあて、しーっとジェスチャーをしていた。
いまだ漏れ聞こえてくる逢瀬の物音に動揺しつくし、ガチガチに固まって動けない足を必死に鼓舞。和雲はぎこちない動きで、這いずるようにそちらへと向かっていった。
◇
廂をくぐり、暗い濡れ縁に出た和雲は、やっと大きく息を吐き出した。
ふと気づくと、秋の夜長に虫たちの大合唱が耳に騒がしいほど。空を見上げると、電灯のない夜空は撒き散らしたような星の粒が無数に瞬いている。外気はひしひしと肌寒く、火照った頬をやさしく撫でてくれた。
まわりを見ると、邸を囲む縁側の上に幾人かの女房が控えている。みな静かに外を眺めたり、密やかに談笑したり。和雲もなかば呆然としたまま、その場にそっと腰を下ろした。
まだ、心音がしたたかにこの身を叩いている。
しめやかに交わされる会話、心情のやりとり、息づかい、流れるような衣装の音、触れあう肌の切ない悲鳴、そして互いを呼び合う熱い声……。
いたって健全な男子高校生の和雲にとっては、刺激にすぎるほど刺激的な時間だった。声も出せず身動きもとれず、呼吸も止めて、ただひたすらに汗を浮かべることしかできなかった。
平安時代の貴族たちは、みなこんなふうに従者たちに見守られながら、逢い引きをしていたのだ。そして男は朝、まだ明るくなりきる前に退室するだろう。その時まで、仲介の者たちはここでじっと寝ずの番をする。
――夜這いって、大変なんだな…………おもに家人たちが。
現代に生まれてよかったな、とも思いつつ、和雲は冷えた夜風に目を細めた。
――それにしても。
ひっそりと、二人のやりとりを思い出す。どこかでねじれてしまったような、虚しい言葉の応酬。
――まさか、賭けの対象になってたなんて……定方ってヤツ、姫の弟のくせに、ヒドイことするよなぁ。
姫はきっと、偽りとも知らず、忠岑に恋をしてしまった。
忠岑は帝のもとへ行く姫に、お祝いの言葉を述べていた。「それがあなたのしあわせですよ」と、諭すように言ったのだ。
――口のなかが苦い。
和雲は外気から逃げるように首をすくめ、ぐっと唇を引き結んだ。
◇
紫だちたる雲の細くたなびきたる――と、かの清少納言が枕草子のなかで表したように、夜明けにはまだ少し早い頃、薄い綿花のような雲が仄暗い空にたなびいて流れていく。
和雲はあくびをひとつ、噛み殺した。
慣れない衣装での労働にくたくたの身体は、長時間の正座にはとても耐えられず、少し前にこっそり崩した。
他の女房たちを見やると、うつらうつらと目を伏せている者やすでにその場を離れた者。縁側の簀子の上は、今はひっそりと静まっていた。
――このあとどうしたらいいんだろう。
睡眠不足の頭でぼんやり考えていると、対屋の東側、動く人影があるのが目に入った。
烏帽子を被った後ろ姿だと認識するや、和雲はそっと立ち上がる。うたた寝しているとなりの女を起こさぬよう脇を抜け、階を降りて、小走りでそちらへ向かった。
「……あ、あの、忠岑さんっ」
裏手に続く細長い小路。呼びかけると、男が気づいて立ち止まる。振り向いて和雲の姿を認め、「ああ」と目もとを和らげた。
「その声は、女郎花の君」
親しみを込めた声でそう呼ばれ、思わず鼓動を高鳴らせて和雲は、はく、と息を呑んだ。
「昨日は文をありがとう。あなたのおかげで、中の君からお返事をいただけた」
きついお叱りのお言葉だったけどね、と彼はかすかに笑った。その顔にそこはかとなく匂いたつ色香のようなものを感じ取り、和雲はなぜだか少し、胸が苦しくなる。
忠岑は良い男だ。理性的で、優しくて、強い。とても、好ましい大人だ。
――だからきっと、お姫さまも……。
ぎゅっと、両手で襟もとを握りしめると、忠岑はことりと首を傾けた。
「おや……あなたは思いのほか、稚い方だったのですね。話口調がしっかりしていらしたので、てっきり妙齢の娘さんかと」
「あ……はい。いまは」
「ん? いまは?」
忠岑に首をかしげられ、和雲はあわてて手を振った。
「あ、いいえ! と、ところであの、お姫さまは……」
「まだ、おやすみです」
「そ、そですか……えと、あの俺、じゃなかった……わたし新入りで、よくわかってないんですが、お二人は、その……」
「私は」
さえぎるように、密やかだがはっきりと、忠岑が言う。
「秋の長夜のお慰めに、夜語りのお相手をつかまつっていただけ」
「でも……」
「そうだ、これを」
ふいに忠岑が懐を探り、ていねいに折り込まれた文を取り出した。
「どのようにお渡ししたものか迷っていたのですが、これもなにかの縁だ。あなたにまた、お願いしよう」
「これって」
後朝の文――源氏物語などによく出てくる、恋人たちの手紙である。逢瀬の翌朝に送るものと聞いてはいたが、まさか自分が預かる日が来ようとは。
「形が残っては差し障りがあろうかと、後朝の文などいままで一度も差し上げたことはなかったのだが――最後くらい、かまわないでしょう」
最後、と言葉尻を捕らえて和雲は忠岑の顔を見上げた。
悲恋といってしまえばそれまでだが、いまの彼には哀愁こそ漂っていても、悲壮な様子が全くない。和雲にはそれが、不思議に思えた。
「最後……とか、さみしくないんですか……?」
きょとんと、忠岑が和雲を見た。視線から逃がれるように、苦々しい気持ちで和雲はうつむいた。
――どうしようもないことだ。こんなこと言っても。
でも、言わずにはおれなかった。
「ひ、姫さまは、あなたのこと……っ」
声が震えた。涙がこぼれそうになって、慌ててずびっと鼻をすする。
――やばい。なんか、泣きそう。
少女の姿になって、気持ちまで幼くなってしまったのか。切なくて悲しくて、うるうると緩んでいく涙腺を止めることができない。
「……それが、和歌です」
意外な言葉を聞いて、和雲は顔を上げた。忠岑の顔はどこまでも穏やかで、しっとりと涼しげだった。
「和歌……?」
「私は歌詠みですから。いまの私のこの気持ち――その心を言霊に変えて和歌を詠む」
「言霊に、変えて……」
はい、と静かな声がはっきりと肯定する。
「そうすると、心は昇華されるんですよ」
「昇華……?」
和雲がつぶやくと、忠岑がやさしくうなずいた。
「私はここに、それを込めました。あなたがそんなにも慮ってくれている、いまのこの私の心を」
だからきっと、姫に渡してほしい、と。
ぼうっと忠岑を見つめたままの和雲の手に、あたたかな手が文を握らせた。
「しかと、お頼みします」
そう言って和雲に深く頭を下げる。そうして忠岑は、朝もやにけむる小路を辿り、静かに去っていった。
百人一首の和歌を詠唱してもらわねばならないのだったと気がついたのは、その背がすっかり見えなくなってしまってから。
和雲は預かった文を手に、明るんできた空の下で一人、もやもやする気持ちでうなだれた。
◇
満子、と、忠岑は姫のことを名前で呼んだ。
それは深く深く染み入るような、あるいは身を焦がすほどに焼きつくような熱い声色で。
互いが互いの名を呼ぶ、ただそれだけのことに、これほどの温度があるということも、和雲は今日まで知らなかった。秘めていてなお、あふれて零れ落ちるような心のうねり。
だが夜のしめやかな息吹のなかにその波をとじ込め、男と女は払暁を前に道を分かたれた。
「お、姫……さま……?」
一夜を越えた褥のなかで、姫は静かに身を横たえている。御帳台のなか、垂れ下がった帷の隙間から、その姿がちらりとのぞいた。
白い小袖をしどけなく羽織り、素足を投げ出した半身。紅桔梗の衣が覆うようにかけられている。たおやかで気だるげなその様子に、和雲はどきりとして目をそらし、上ずる声でそっと呼びかけた。
「あの……」
眠っているのかと思ったが、声に反応して身じろぐ気配がする。和雲は預かりものの手紙を握りしめ、ふたたび几帳の向こうへ声を投げた。
「あ、あの……てが……文を、預かってきました。――忠岑さんから」
「文……?」
するりと衣が滑る音がする。
ややあって、小袖を整えた姫が几帳の陰から姿を表した。目尻がうっすらと紅く染まり、しっとりと黒い睫毛が瞳にかかる。昨日初めて見た時よりもよほど大人びて見えて、和雲はますます緊張した。
ぎこちなく手紙を差し出すと、姫はそれを受け取り、ゆっくりと、ほどくようにして開いていく――――。
『ありあけの つれなく見えし 別れより
あかつきばかり 憂きものはなし』
(あの有明の月のようにつれないあなたとの別れ……あれ以来ずっと、暁が来るたびにあなたの姿が思い出され、私を苦しめています)
「忠岑がこれを……この和歌を、私に……」
――後朝の和歌。
忠岑が姫に送ったそれは、和雲も知っている和歌だった。百人一首に採られていたのは、間違いなくこの和歌だ。
「忘れないと……」
ふいに、震える声が落とされた。姫を振り返り、和雲は目を見開く。
「あかつきを迎えるたびに……私を、思い出すと……これから先も、ずっと……」
涙が姫の頬をつうとつたい落ちる。
和雲がはっと息を飲んだとき、時間がひたりと停止した。
忠岑、と呟いた姫の声も、目の前の涙に濡れる頬も、ぐずりぐずりとみるみるうちに滲んでいく。
姫の胸に点った和歌の心が、詠唱となって転移が巻き起こる。
和雲の身体は中空に放り出され、すべてが乳白色の曖昧な色の渦に溶解していった。
◇
「「あ」」
次に眼前に現れたのは小さな狸人間と狐人間――あの、大宅世継と夏山繁樹だった。
そろいもそろって間の抜けた声をあげ、目玉をひんむいて肩越しに和雲を見ている。こちらに背を向けて何かしらをしている最中にぴたりと動きを止めたところらしい。
その滑稽な二匹の様子に、姫君からのもらい泣きで浮かびかけていた涙がひゅるりと引っ込んでしまった。
「……何、やってンの?」
忠岑の木札をぐっと握りしめて、和雲はじろりと二匹を見た。
世継と繁樹があわあわと背後にあるものを隠そうとする。しかし小さな半獣の体躯では、後方に広がる一面の壁のようなものをまったく隠しおおせていない。
「それ、なによ?」
「いやあの、これはぁ……」
「調度品、そう調度品じゃよ。ほらなんかここって殺風景じゃん?」
「そうそう、ちょっと気分を変えて飾りつけたりしてみようかと……ね?」
「もう一度聞く。なんなんだ、それは?」
「え、えーとぉ……」
よくよく見てみると、それは四枚ほどの、左右に連なった襖障子のようだった。
乳白色のもやに包まれた何もない空間。縦横の果てがどこかもわからない夢想のような場所にあまりにも唐突に足元から生え出たように立ち並んでいる。
二匹は顔を見合わせ、それから観念したように和雲を見上げた。
「――魔方陣じゃ」
「まほうじん?」
「さよう。そもそも百人一首はな、撰者である定家卿が平安の魔を封じた魔方陣だったのじゃ」
「んん? 平安の魔って、なによ?」
「ええと、妖とか、鬼とか、怨霊とか……」
「なんだって……」
和雲は眉根を寄せて、屈み込んで二匹に詰め寄った。ひぃっと狸と狐が抱き合って小さく悲鳴をあげる。
「そんなあやしげな話、聞いてないんですけど!?」
「こ、こいつが内緒にしとこうって」
「あ、こら……っ、裏切り者!」
「どっちでもいいわ、そんなん! なんだよ、そのオカルトな話! 勝手に人に丸投げした挙げ句に、そうやって二人して隠し事してたわけっ?」
「だ、だって……っ」
「知ったら、怖がって協力してくれないかもと思って……」
「あのさぁっ!」
はぁーっと、和雲は大仰にため息をついてみせる。
「怖がって拒否もなにも、今回、魔鏡? とやらに転移してきて思ったけど、これ、有無を言わさずだよね? しかも前情報とかもないし、どこで何したらいいかもわかんない。これをあと何回もやれって、ほんっと大変なんですけどっ? ただでさえわかんないことだらけなのにこの上まだ隠し事とか、ほんとにやめてよね!」
「は、はいぃっ」
「ごめんなさいぃ」
「……で?」
和雲はなかばヤケクソ気味に、その場にどかりとあぐらをかいて腰を下ろした。
「その魔方陣がなんだって?」
「えーと、だからその……」
「こ、ここを見てたもっ」
世継が障子中央の下方を指で差し示す。そこには一枚の札が張り付いていて、淡く灯をともしていた。
「これが天智天皇の札じゃ。そしてこの右上部にあるこちらが持統天皇の札。お前さんが和歌の呪いを解いて札が現れるたび、その都度、こうやって魔方陣に封入されていくというわけじゃな」
「今回の和歌はこれ、この壬生忠岑の和歌札」
繁樹が指した先、天智天皇の札よりやや左上に登ったあたりに“ありあけの”の和歌札が収められている。いつのまにか、手の中の木札は消えていた。
和雲はいままさに呪から解き放たれたばかりのその札を、じっと見つめた。
「……いい和歌だね、これ」
忠岑がどこか清々しくあったわけが、いまならわかる気がする。飛ばされる間際に見た、姫の涙の意味も。
たとえどのような圧力が二人を引き裂いても、彼はこの和歌のなかでいつまでも彼女を想い、それは今までもこれからも、不変に輝き続けるのだ。千年もの時を越えて、ずっと。
「そうじゃろ。この一首はな、和歌に対して常に辛口批評の定家卿や貫之にも、こんな素晴らしい和歌を人生で一首でも詠めたら歌人冥利に尽きるとまで絶賛された秀歌なのじゃ」
えへん、と世継が胸を張る。
「和歌は心なのじゃ、和雲。これはいわば心を取り戻すための転移。見事、百人の心を取り戻すことができたあかつきには、魔方陣は再び発動し、平安の魔はすべからく鎮まるだろう」
繁樹の言葉を受けて、和雲は視線を二匹に戻す。
「……さっきからちょっと気になってるんだけど、その、平安の魔を封じることができなかったら、なんかマズイの?」
「……悪し」
「非常にな」
「具体的には、どんなふうに?」
「――今はまだ、この魔鏡のなかでくすぶっている平安の魔が、次々と現世にまで飛び出していくことになるだろう」
「そうなってしまっては、現代の世の中でどんな厄災が引き起こされるか、わしらにもおよそ想像がつかぬ」
いよいよもって明かされた最新情報に、和雲はぽかんと口を開けた。
「じゃから和雲、がんばって鍵の和歌をぜんぶ集めてきてたも!」
「現世の安寧はお前さんの肩にかかっておる!」
「ちょっ……」
相変わらずの無責任かつお気楽きわまりないな声援を受けて、和雲が文句を返そうとした矢先。また、ぐずりと景色が溶け落ちる。
あっと思う間もなく、優雅に手を振る二匹の姿が霞んでいき、和雲の身体はまたしても中空へ投げ出されていった。
「荷が重いーっ!!」
という雄叫びとともに。
