ひゃく・てん! ~その伍~
正文二帖 桜雲詠
もも・くり!
~毎度ながら桃尻が痛くて立腹していたところ裏ありげな優男に連れられて夜這いに繰り出すことになった件!~
「わっくん~」
部活動を終えたばかりの金曜日の放課後。寒さよりも暑さの勝る日が増えてきている六月の暮れ時。
本校舎の玄関で靴を履きかえていた和雲に、同じサッカー部の友人が声をかけてきた。
「一緒に帰ろ~ぜ」
「おー」
「わっくん腹減らない? おれ、チキン食いたいなぁ~」
「あー、じゃあコンビニ寄ってく? おれもアメリカンドッグ食べたい」
「いいね~」
帰り道にはコンビニエンスストアがいくつかあり、和雲らの通う高校や他校の生徒が下校時によく利用しているのだ。
身体をフル稼働させたあとは、成長期の肉体が欲するのだからしかたない。財布の中身と相談しつつ、ときどき友人らと買い食いを楽しむことにしている。
「あ、萩野センセー、さよ~なら~」
ふと、隣を歩く友人が校舎のほうに声をかけた。和雲もそちらを見やる。校門にほど近い花壇のそば、白妙のブラウスの君こと、萩野祈子の姿を見つけた。
「はい、さようなら。寄り道しないで帰るのよ」
「センセー、買い食いは寄り道とは違いますよね?」
「日本語では、まさに買い食いなどを指して寄り道と言います。もっと国語を勉強しましょうね!」
「は~い。じゃ、あらためてさよ~なら~」
陽気な生徒の受け答えに苦笑をこぼし、祈子が和雲にちらりと視線を寄越した。ぺこりと小さく会釈を返す。
祈子が校舎へ入るのと入れ違いに横を通りすぎる。ふわりと薫るシトラス系のコロンの香りに、和雲はこっそり唇を噛む。振り返りそうになるのを抑え込んで、友人とともに校門をくぐった。
コンビニ店であれやこれやと買い込み、近くの公園のベンチでそれらを広げた。アメリカンドッグにケチャップをかけていると、ポケットのなかでスマホがぴろりんっと鳴った。
片手でごそごそ取り出していると、フライドチキンをかじりながら友人が訊いてきた。
「メッセ? もしや彼女から?」
「あー、そうそう。おれを産んだ彼女な」
「うひゃっ、さみし~」
生あたたかい同情の眼差しを華麗にスルーして、メッセージアプリを起動する。
母からのメッセージを読み、思わず、「えっ」と声をあげた。「どしたの?」と訊いてくる友人にあいまいに答えてごまかし、もう一度、送られてきた文面を確認した。
そこには、明後日に控えていた家庭内一大イベント――大和が恋人の祈子を我が家に連れてくる予定だったバーベキュー大会が、大和の仕事の都合で延期になったことが書かれていた。
駅で友人と別れ、電車に乗り込む。最寄り駅は地下鉄で二駅。この方面は夕方以降はわりと空いているので、乗客の影もまばらだ。
和雲は扉の近くでポールに背を預けて立ち、さきほどのメッセージをぼんやり眺めていた。
――マジで中止になるなんて……。
嫌で嫌でしかたなかったものがあっさり回避できて、正直なところ拍子抜けしている。青い鳥マークのアイコンをタップして、以前に呟いた『BBQなんてポシャっちゃえばいーのに』という文面を引用リトラックしつつ、
『ガチでポシャってくれたぁ~、めちゃラッキー! こんなことってあるっ!?』
と、打ち込む。それからたて続けに、
『ついでに月曜の理科のテストもポシャってくんないかな~なぁんてっ』
茶目っ気のある顔文字つきでタイムラインに流した。
――でも。よく考えたら。
そのままSNSをだらだらと垂れ流していると、ふつふつ、湿気た思考が湧いてくる。
――結婚式まで……いやこれから先ずっと、それこそ一生、こんなことがわんさか起こるわけだよな……
両親自慢の兄。勉強でも運動でも、ちょっとした日常のことでもなんでも、和雲は昔からことあるごとに「なんでお兄ちゃんみたいにできないの!」とイヤというほど言われ続けてきた。
顔合わせの延期に、母はガッカリしているだろう。大和の縁談が決まってからずっとご機嫌で、祈子に会うのを楽しみにしていたのだから。
――帰ったらまた、祈子先生の様子とか、アレコレ聞かれたりするんだろうな……
ふつふつ、もやもや。嫌な妄想ばかりが駆けめぐる。
――よりによって兄が好きな人と結婚……しかも相手は自分が通う学校の教師。なにこれ、どんな地獄?
ああ、なんて面倒なんだ。ダルいし、ウザいし、腹立つし。これがこの先の人生、ずっと続くなんて!
――もうこんなことならいっそ。
勢いのまま、フリック入力を動かした。
『もういっそ、兄キなんか消えちゃえ〜(∩^o^)⊃━☆゚.*・。』
ごおっという轟音に顔を上げると、地下に下りた電車が、いましもトンネルに差しかかったところ。無機質な壁が高速で流れ過ぎ、手前の暗いガラスに、和雲の顔が写りこんでいる――
あっと思う間もなかった。フラッシュのような閃光も、一瞬のこと。
和雲はわずかの間、意識を失う。そうして次に浮上したときには、もはや見慣れた地下鉄の車内ではなく、服も着なれた学生服ではなくなっていたのだった。
◇
「ちっくしょう……またこれだよ」
いてて、と小さな尻をさすりながら、和雲は顔をしかめた。
目覚めた途端にどーんっと地面に投げ落とされた。これが毎度、地味に痛くて腹が立つ。
――こんな美少女(自称)の尻を何度も何度も痛めつけやがって……
「あのたぬきつねコンビめ、恨んでやるからな……」
がさっ
背後で物音がして、びくっと和雲の肩が跳ねる。こわごわ振り返ると、そこには青ざめた顔の年若い男が。牛若丸みたいな装束を着たその男は、かたかたと小さな松明を揺らしながら、和雲の顔を指さしている。
「で……」
「で?」
「出たーっ!!」
男は松明を放り出し、ぴゅうっと背を向けて逃げ出してしまった。
「出たーって……ちょっとあんた、人をおばけかなんかみたいに」
失礼な反応にムッとしながら、和雲は立ち上がる。男は牛車の裏側に逃げ隠れたらしい。おとなしそうな眼をした牛が、松明と一緒に取り残されてきょとんと和雲を見つめていた。
「こんな薄暗い林のなかで恨みつらみをいう物ノ怪……なまんだぶなまんだぶ……」
「お、おれは物ノ怪じゃないって――――いっ!?」
男のほうに向かって踏み出した途端、足に激痛が走る。落下した拍子に足首をひねったようだ。踏ん張る力を入れられず、和雲は再びしゃがみこんでしまった。
「もののけ?」
ふいに、牛車のなかから声がする。かたり、物見の小窓が開いてこちらを見下ろす二つの目。
「まだ暮れて間もないというに、気の早い輩もおったものだな」
声の感じからすると、こちらも若い男のようだった。笑い含みの瞳と和雲の目がはたと合う。
「おや。ずいぶんと可愛らしい物ノ怪だ」
「だから、物ノ怪じゃないって!」
「物ノ怪ではない? ではこんな暮れ時にこんな林の奥深くで、年端もゆかぬ童女が一人きりで一体なにを?」
「そ、それは……えっと……」
和雲は言葉に詰まった。
見たところ、まわりは竹林のようだ。陽は落ちて薄暗い道の上。灯りも持たずに一人っきりでうずくまっている少女は、確かに不審がられても仕方ないかもしれない。
「あ、足を怪我して、動けなくなっちゃって……困ってたところで……」
とりあえずこれは本当のことだ。この男らが何ものかはわからないが、どのみちこの足では移動に困る。ましてや暗い林道。他に人影もないし、このまま置いていかれたくはない。
「怪我を? ……なるほど。この夜道にそれはさぞ難儀であろ」
「そ、そうなんです! だから、よければ一緒に連れてってもらえないかと……」
「ははぁ」
男は興味深そうに和雲を見ている。
「いけませんぞ、ご主人さま! 童女に化けて人をたぶらかす類やも……!」
牛車の陰から最初の男が言った。
「ふむ……」
「わ、わたし人間です! ほら、足だってちゃんとあるし、顔もこんなに可愛い!」
「うん? うーん……」
「姿かたちをそっくり人間に変える物ノ怪の話はごまんと聞いたぞ!」
「だから、わたしは違うってば!」
ぱしり、音が鳴った。牛車のなかの男が扇で手を打ったのだ。
「あいわかった。いまから向かうところがあるのだが……この童女もそこに連れていくことしよう。目的地に着けば、先方で怪我の手当ても頼めよう。枢の言い分ももっともだが、人であれ物ノ怪であれ、手当くらいはしてやらんとな。話はそれからでもよかろう」
「あ、ありがとうございます!」
枢と呼ばれた従者は、まだいぶかしげな顔のまま。だがともかくも、和雲は牛車に乗り込むことに成功したのだった。
◇
牛車のなかは案外広い。大人の男――二十代なかばくらいに見える――と、少女姿の和雲。二人ならゆったりとくつろいで座ることができた。
この男も立派な衣装を着ている。雅な文様の浮かんだ布地がきらびやかなだけでなく、装束自体がゆとりをもって作られていて大きく見えるのだ。きっと身分の高い貴族なのだろう。烏帽子を被った顔も、そこそこイケメンだ。
「助けていただいて、ありがとうございます。おれ……じゃなくて、わたし、和雲です」
「和雲、か。私は良岑宗貞という」
「宗貞……さま?」
――聞いたことない名前。んんん……この人は百人一首の人じゃないのかな。
ではもしかすると、これから向かう先に歌人がいるのかもしれない。がたごとと、牛車はゆっくり林道を進んでいる。
「この牛車には陰陽師の手による退魔の札を貼っておる。すんなり乗り込めたところを見るに、お前はやはり物ノ怪の類ではなさそうだ。であれば、童女の一人歩きは感心せぬぞ」
「は……?」
――牛車に退魔の札? だからすんなり乗せてくれたのか!
こいつ、意外と性格悪そう……と和雲は目を細めた。
「いま、どこに向かってるんですか?」
「この先にさる方の邸宅があるのを知らぬか? ここらでは評判のようだが」
「評判?」
首をかしげると、男はやんわりと目を細めた。
「絶世の美姫」
「びき?」
「そう。見目麗しく、気品にあふれ、和歌をよくし、そのさまはまるで衣通姫の再来とも言われている」
衣通姫とは和歌の女神。その美しさは衣を通してさえ光り輝くようだと謳われている、らしい。
「和歌を……そ、その人の名前って」
「比右姫、と。学問に優れた家系・小野家の姫君でいらっしゃる」
――残念……比右姫、っていうのも聞かない名前だ。
むむむ、と和雲はうなった。
――もしかしたら忠岑の時みたいに、また従者の誰か、とかなのかな。
先ほどの枢という従者はいま、牛を先導して歩いている。よくよく見るとまだ高校生くらいの素朴な感じの少年だが、和歌とか詠むものだろうか?
「宗貞さまは……その姫さまとは?」
さきほどの口ぶりではまだ親しくはなさそうだ。絶賛アタック中、といったところだろうか。
和雲が訊ねると、宗貞はますます目を細めてこそりと笑った。
「百夜通い……といったところかな」
「百夜通い?」
復唱して、その言葉には聞き覚えがあると気づく。
「そう。比右姫の噂を聞きつけ、いままでにも数多くの男たちが言い寄った。だが、姫君は誰にもまったくなびかず、「毎日ずっと通ってくれたらお相手しましょう」などとこちらを試してくるのだ。その期限、なんと百夜」
「あ……? あっ、あーっ!」
思わず、ぱちんっと手を打った和雲。宗貞は驚いて目を瞬いた。
――小野小町だ、それ!
心のなかで和雲は「ナイス!」と叫んだ。
さすがにそれならわかる。“百夜通い”はメジャーな昔話だし、小野小町っていったら百人一首のなかでも有名人だし、和歌も覚えてる。
「ん? どうした?」
宗貞が不思議そうにこちらを見ている。和雲は曖昧に笑ってみせた。
「あ、いえいえ、そのお噂は聞いたことあるな~って。ぜひわたしもお目にかかりたいなぁ、絶世の美女のお姫さまに!」
「そうかそうか……。楽しみだな」
にやりと、宗貞が微笑んだ。
◇
「お怪我?」
比右姫の邸につくと、宗貞は応対に現れた女房に和雲を示した。袴の下の足を見せ、手当を頼めないかと言う。
「この童女は……?」
「ああ、我が家人の娘でして、このほど女童として仕えさせることになったのです。こちらの姫君に強く憧れておりますもので、今日は供をさせてやりましてな。往路、この花を見かけ、どうしても姫君への土産にしたいと訴えるものですから摘みに行かせましたところ、足をすべらしひねってしまいまして……なぁ?」
「え! あ、はい。そうです、そうです」
――よくもまぁ、すらすらとあることないこと言えるもんだ。
宗貞は、転移後の落下で足を痛めた和雲を拾ってきただけだし、携えている花は枢に申しつけて取ってきたもの。
隣でぺらぺらとでたらめの説明を続けている宗貞を、和雲は横目で見やった。
「ですからどうぞ、処置をお願いしたく。まだ子どもですから少し休ませてやればすぐに快くなりましょう」
宗貞の言い分をまるきり鵜呑みにしたわけではなさそうだが、女房らは和雲の足を気遣ってくれた。
「あらまあ、腫れていますね。これはそこそこに痛むでしょう?」
「あちらで少し冷やしましょうね。お薬も塗っておかなくては」
「あ、ありがとうございます」
彼女らは宗貞や枢には愛想がないが、まだ少女である和雲には当たりが柔らかい。怪我をしているのは本当なので、和雲の身体を支えて邸内へ入るのをサポートしてくれた。
その様子を眺め、宗貞はにこにこと温和に微笑んだ。
「ご親切いたみいります。さあでは我々も、少し休ませていただこう。枢、お前も疲れたであろ」
「はい。それはもう」
「あ、これこれ少将さま!」
「まあまあ固いことを言わずに。もう二月近く毎日通っているのです。姫君と私はもう友人と言っても差しつかえないわけですから。な?」
「はい。宗貞さま」
「少将さま、お待ちを! 勝手に入られては困ります。少将さま!」
女たちの制止も聞かず、宗貞は枢を連れてずかずかと上がり込んでいく。
――なんてやつだ。あいつ、おれをダシに使うつもりだったんだな!
さっさと行ってしまった二人の背を見送り、和雲は白目をむいた。
「もう。お姫さまったら変なお約束なんかなさるから……」
はぁあ、と、和雲の手を引いていた女房が息をついた。
「約束って……百夜通いのことですか?」
「あら、いけない。これは聞かなかったことにしてねぇ。うちのお姫さま、どんな殿がたにも心を寄せるつもりなんかないと思うわ。すごーくお美しい方だけど、なんだかとっても変わった方なの」
「へぇ……」
回廊を少し進んだ房のなかに、和雲は通された。盥の水でしぼった布をあて、足を冷やしてもらう。その後、丁寧に水気をぬぐい、つんと匂いのある塗り薬をすりこんでくれた。薄荷のような、茴香のような清涼な匂いだ。その上を布で巻き、「できた」と女がうなずいた。
――湿布みたいなもんなのかな?
「和雲ちゃん、少しここで待っててね。替えの布を持ってきてあげる」
「ありがとうございます」
二人ほどいた女房らが出ていくと、室はしんと静かになった。もう夜はとっぷりと更け、燭台の灯りがゆらゆらと闇に踊っている。
膏薬の匂いにほっと心を落ち着けていると、抜き足差し足……ふいに、障子の外を人が通る気配がした。
少し痛みがやわらいだ気がする足を引き、和雲は障子の向こう側をこっそりうかがい見る。
「……宗貞さま?」
回廊をしのび歩く黒い影にそっと呼びかけると、その肩がびくりと揺れた。
「おっと。――なんだ、和雲か。驚かすな」
「いや、何やってんすか……?」
「もちろん、夜這いだ。そのために来たのだからな」
「夜這いって」
宗貞は姫の居所を探し当てるつもりらしい。枢はどこかで待たせているのか、単独行動だ。
――なんてアグレッシブなやつ……!
「でも、まだ約束の半分ほどしか通ってないんでしょ?」
「それでもだ。お顔を拝見、とまではいかなくとも、せめてお話し相手くらいはしていただかないと。残り半分も意気揚々と通ってくるためにもな」
「いや、だって……」
――そもそもお姫さまは断るためにこの難題をふっかけてるわけだし、きちんと会うつもりなんか毛頭ないだろーに。
和雲は眉をひそめたが、「じゃ」と去っていこうとする宗貞のあとを慌てて追う。小野小町に会えるかもしれないチャンス、逃す手はない。
暗い回廊を宗貞はおかまいなしにずんずん進んでいく。
――これって……他人ん家ってことだよね? なんでこの人、こんな堂々と歩き回ってんの?
平安人との感覚のギャップに和雲が悩まされていたところ、前を行く男の足がぴたりと止まった。そして和雲の袖を引き、手近な簾の後ろにすいっと回り込んだ。「なにごと!?」と問おうとするも、「しぃ」と指で制される。
「あなめ……あなめ……」
暗がりの向こうから、誰かが歩いてくる気配。
和雲は宗貞とともに簾の陰で息をひそめ、そちらをそっと見守った。
「ああ、今日はいやに目が痛む。月影さえも、染みるよう……」
綾の衣を引き、憂い顔のまま歩いてきたのは線の細い女。
――十六~七歳くらい……現実の俺と同じ、高校生くらいかな? ……だけど。
暗闇にぽつっと灯りがともるような。光を放って月夜に浮かび上がる、可憐で儚げな姫君の姿。
それは今まで見てきた女性のなかでも、ダントツに一番、きれいだった。
――顔が……顔もきれいなのだけど、それよりももっと、なんというか……オーラがある感じだ。橋本カンナとか、生で見たらこんな感じなのかも。
宗貞は息を殺して、その姿をじっと見つめている。和雲ののどが、緊張でこくりと鳴った。
「……だれ?」
ふと、姫が振り返った。月明かりの下、扇を顔の前にかざして。
「『聞き得たり、園のうちに花の艶を養ふことを』……その花の一枝を請うものです」
姿を出さぬまま、宗貞がはっきりとした口調で答えた。
「良少将さま」
ふ、と、姫の吐くため息が夜闇に浮かんだ。
「案内もなくあがってこられましたの? 困った方ね」
「恋する男など、みな愚かなものです」
「お約束の日まで、まだまだ遠いはず」
「心得ておりますとも」
「では……?」
「もちろん、今宵はご挨拶だけ。明日もまた、粛々と通って参りますゆえ」
「……」
かざした扇の下からのぞく、姫の唇は心外そうに固く結ばれている。
「また来ますよ」
「……」
「最初に誓いの文を差しあげましたね。必ず百夜、通いぬいてみせると」
「……百夜にはまだ遠い。次は邸内にはあげませんよ」
「この和雲の、足の経過をお見せしましょう。あなたに花をお渡ししたいと、無理をしてこしらえた怪我だ。あなたもさぞ、気にかかるでしょう?」
――あの手この手。なんだか、狩りみたいだなぁ。
「……和雲」
「え、あ……はいっ?」
突然、姫に呼びかけられた。予想外のことに、和雲の声は裏返ってしまう。
「可憐な石蕗の花をありがとう。私のためにお怪我をしてしまったとか。大事にしてくださいね」
申し訳なさそうな声色。やはり彼女も、小さな女の子には優しい。
「だ、大丈夫です。これくらい、なんてことないしっ」
実際には花とは関係のない怪我なので、和雲はちょっぴり罪悪感にかられながら答えた。
和雲の返事だけを確認すると、姫はくるりと背を向ける。またしずしずと、夜のうちに歩き去ってしまった。
◇
その夜はそのまま、宗貞の邸に連れ帰ってもらうことになった。
「成り行きとはいえ、お前には明晩も付き合ってもらうぞ」
などと宣言されつつ、「住処まで送ってやろう」と言われ、和雲は慌てた。
しどろもどろになりながらも、実はヘマをして仕えていた邸を追い出されたのだということ。身寄りがなくて、行く当てがないこと。できたら宗貞の家に置いてほしいこと。嘘八百、云々。
宗貞のもとにいたいとの必死の懇願に、彼は「そういうことなら」と、あっさりOKを出してくれた。
――平安時代ってほんとにゆるいな……それとも、これも魔鏡の魔力なのか?
ともかくも潜り込むことに成功した和雲。あとはもう、百人一首の和歌が詠まれるのを油断なく待ち構えているしかない。
そうしてまた、あくる夜。
牛車に乗って、宗貞は比右姫のもとへ向かう。大げさに手当をされた和雲をお供にして。
――しばらくはこうやって連れてかれるんだろうな……まあ、好都合か。
出発した時刻が遅めになってしまったので、その日は月夜の道中となった。ほう、ほう、と鳥の鳴き声がどこかから響いてくる。
「それこそ物ノ怪でも出そうな夜だ」
からりと笑う宗貞。また不気味な鳴き声が聞こえ、和雲はにじり、宗貞のほうへ詰め寄った。平安時代の夜闇は現代人の和雲には暗すぎるし静かすぎる。心細い牛車の道のりを、宗貞に身を寄せてやり過ごした。
姫の邸に着くと、一声をかけるや、宗貞はずかずかと勝手にあがりこんでいく。
「いやはや、良い夜ですなぁ」
宗貞はこう見えて身分が高いらしい。きっかけを得てぐいぐいと強行されると、邸の者たちがむげに追い返せるはずもない。まごつく女房や舎人たちを枢がいなしているすきに、宗貞はさっさと奥に入っていった。仕方ないので、和雲もあとに続く。
昨日同様、姫の室を探して歩く宗貞と和雲。その前に、どさり、と重そうな音をたてて大きな物体が落ちてきた。
「わっ! ……な、なに?」
板張りの床をつたう地響きに、和雲はたたらを踏んだ。大きな黒い影はぬらりと鎌首をもたげ、ちろり、火花のような舌を出す。
「ぎっ、ぎえぇぇぇーっ!!」
それは大蛇だった。丸太のような胴体をぐるぐるととぐろ巻きにし、その上にゾウのような大きな頭を載せている。
「おお。これはこれは……」
「や、ヤバいっすよ! 逃げましょうっ!」
和雲が必死で袖を引っ張るが、宗貞はいたって涼しい顔。なんなら、好奇心に沸きたっているようなふしさえある。
なるほどなるほど、などとつぶやきながら、宗貞は回廊をふさぐ大蛇のほうへと歩み出ていく。
――マジか、この人っ!!
じゃらり。音がして、宗貞は数珠を手に掲げた。
「光風霽月 魔縁降伏 急急如律令……」
そう唱えると、ぴたりと大蛇が宗貞に視線を絡ませた。それからするするとなめらかに、宗貞が読経を始める。低く歌うようなそれは、和雲も法事なんかで聞いたことのあるポピュラーなやつだ。
「あ、あれ……?」
読経に合わせるように大きな頭をゆらゆら揺らしていた大蛇の姿が、だんだん薄まっていく。身を固くして見守るうちに、ふいと吹き消されるようにあたかたもなくなってしまった。
「なるほど、姫は優れた法力をお持ちだ。いつぞやの雨乞いの折も、それは見事なものであったな」
「あ、雨乞い?」
「晩夏の日照りだ。覚えておらぬか? あの折、何人もの術者や舞姫が祈祷をしたが、すべて徒労に終わっていた。それなのに比右姫が舞歌を奉納するや、すぐに慈雨が降り出したのだ。神泉苑の神もきっと、彼女の美しい心映えに感化されたのであろ」
『ちはやぶる 神も見まさば 立ちさわぎ
天の戸川の 樋口あけたまへ』
(ちはやぶる神々よ。この日照りをご覧になっておいででしたらば、どうぞ大急ぎで天の川の水門の口を開けてくださいませ)
帝をはじめ、大臣ら公卿、諸官の居並ぶ神泉苑。金銀七宝でできた法壇、押し寄せた群衆がつくる黒山の人だかり――その華やかな大舞台で、比右姫はそう詠って舞い、人々の期待にこたえて見事、大粒の雨を招いたのだそうだ。
「へぇ……」
「まあ、儀式に姫を推薦したのは私なのだがな」
ドヤ顔の宗貞を和雲は振り返る。
「え? そ、そーなんですか?」
「若く、美しく、才気にあふれ、鉄壁の防御を誇る噂の佳人。男ならば、引きずり出して拝みたくなるものだろう」
「はぇー……」
童女にはわからんか、と宗貞は笑う。
「――才能は美徳だ」
ひとしきり笑ったあと、宗貞は静かに言った。
「それはもちろん、天から与えられたものもあろうが……人の能力は個人が研鑽して磨き上げたもの。あくまでも努力の賜物であろうと私は思う。神泉苑でのあの美しく気高いお姿――あれほど見事なものを披露した姫君は、さぞ心根もしなやかでお美しかろう」
かたり、物音がする。それからするすると移動していく、衣擦れの音。
和雲は小首をかしげた。
「いま……誰か、いたかな?」
「さあ。衣通姫やも」
その名の通り、衣がそそと揺れて動いていたのやもな、と宗貞は笑った。
◇
和雲はしばらくは宗貞の身の回りの世話をすることになった。食事の世話、洗面の手伝い、道具の片付け。体がまだ小さいことと、この時代の知識が乏しいこと。できることには限りがあって、仕事はいたってシンプルな雑用ばかりだ。
不思議と、宗貞は和雲のことが気に入ったらしい。比右姫のもとへだけでなく、いろいろなことに和雲を伴ってくれるようになった。
和雲が平安京のあれやこれやに物珍しそうに目を見開くたび、
「お前は風変わりな反応をする」
と、おもしろがって笑うのだ。
ある日には職場への出勤につき従うことになった。牛車を先導するのは牛飼い童――子どもでなくても童と呼ぶらしい――の枢。彼とともに、出かけの宗貞のお供を務めるのも和雲の仕事である。
――平安貴族の職場って……もしかして?
和雲の予想通り、そこは大内裏と呼ばれる巨大な官庁街。帝のいる内裏を取り囲む、平安京の中心部だ。広大な敷地にさまざまな部署の庁舎がところせましと立ち並んでいる。
なんて広いんだと和雲は目をまわしかけ、そして唐突に、はっと気がついた。
――そうか、ビルなんてない時代だから。
現代なら縦に積み上げてビルの形にするものを、パズルのように平たく縦横に配置している。だから平安貴族たちの活動場所はどこもかしこもだだっ広いのだ。
――そりゃあ牛車とか、必要だよなぁ。ただでさえ動きにくい服とか靴で、こんな広い距離を歩いて移動は大変だよ。
宗貞は少将、と呼ばれていた。良岑の良の字を冠して良少将などとも呼ばれている。位や職業のことはよくわからないが、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、案外せわしなく働いてるな、というのが和雲の印象だった。
「少将、久しいな」
そうして移動した先で牛車を降りてすぐ、宗貞に声をかけるものがあった。
「宮さま」
宗貞は顔をほころばせる。親しい相手なのだろう。いつにもまして、明るい笑みに見えた。
まだ童のようなあどけなさを残した少年。小学校の高学年か中学生か……女童と呼ばれている今の和雲と同じくらいの年頃。
だがその身なりはすこぶる立派で、陽の光で輝くような絹地の衣を身にまとっている。口ぶりからも態度からも、少年が宗貞よりも位が上の人物なのだとわかった。
「先日は、おそれおおくも母の住まいを訪ねていただいたそうで」
「うん。乳母どのは近ごろご気分がすぐれぬと聞いていたから。でも、思ったよりお元気そうで安心したぞ」
「私のもとにも喜びの声が聞こえてまいりましたよ。つねづね恋しく思っていた宮さまのお顔を拝見できて、何よりの薬になったと」
――宮さま?
牛車から荷物をおろしながら、和雲はそちらを見つめていた。視線に気づいた枢が、横から耳打ちをする。
「時康親王さま。ご主人さまのお母上が乳母をお務めもうしあげていた方だぞ」
「親王さまって……」
――帝の息子、つまり皇子さまだ!
この時代、帝には后がたくさんいて、子どもももちろん、たくさんいた。だから親王だからと言って必ずしも帝位につくわけではないけど、それでもやはり皇子は皇子。
――ほぇぇ、どうりでリッチな身なりをしてるわけだ~。
二人はしばらく親しげに会話をし、後日、野がけをともにしようなどと約束して別れた。親王が前を通り過ぎていく時、ちらりとこちらを見た。ぺこりと頭を下げると、小さくうなずきを返された。品の良い薫物が、ふわりと香った。
その後にも行く先々でいろいろな人から声をかけられていた。男ばかりでなく、女からも。御簾のうちから、何やら色っぽい声がけをされたり、文を手渡されたりすることも少なくなかった。
宗貞は気さくで、誰にも当たりよく接している。見る限り、目上からも目下からも頼りにされていて、人望もあついようだ。
――まあ、なんとなくわかるけど。
ひょんなことからの出会いとはいえ、和雲のことを身寄りのない少女だと思っている彼はなにくれとなく面倒をみてくれた。
下働きの立場の和雲にもときおり声をかけてくれる。わざとらしくない程度にさらりと、なにか困ったことはないかと、いつも気遣ってくれているのだ。
――たしかに、いい奴なんだよなぁ。
身分も、人気もあって、見た目も中身もよくて。
てきぱきと働いている宗貞を見ながら、ちょっと大和に似ているかもしれない、などとこっそり思った。
