ひゃく・てん! ~その拾肆~
えい・かん!
~永代の川の流れに感慨を覚えたのも束の間にお久しぶりの奴らを見かけた件!~
寒冷な大気に肌を苛まれ、和雲は砂利の上に尻餅をついたまま、その眼を見開いた。
「ここは……」
呟いた声は少女のそれで、目の下には紅の袴と草履が見える。となりを見やると、祈子が腰をさすりながら身を起こしたところ。
さきほどまでと変わった大きなポイントといえば、緑深い屋外にいること。そして二人とも、壺装束をまとっているところだろうか。
魔鏡への転移を幾度も経て、和雲が一番助かっている点は服装についてである。無造作に放り出される乱暴きわまりない旅だが、とにもかくにも衣裳だけはその時に応じて自動的に変化してくれている。でなければ、春に冬にと季節が目まぐるしく変わるなか、生き抜くのに精一杯でとても歌人探しどころではない。
ともかくも、まだ、現代へは戻されなかったらしかった。じゃらりと、懐で三枚の木札が鳴る。
あらためて辺りを見渡すと、ずいぶんと人里離れた感のあるところだった
薄く霧の煙る川辺の景色が、細く長く続いている。背後になだらかな山の稜線が続いているのがはるかに見える、明媚な眺めの山河地帯であった。
辺りはまだ薄暗く、耳に痛いほどの静寂に取り巻かれている。夜はいまだ、明けやらず。
「おや?」
背後から、軽やかな男声のつぶやきが聞こえた。
「お二人はたしか昔、藤壺で……」
ややかすれた感はあるものの、その聞き覚えのある声に、和雲と祈子はほぼ同時に振り向いた。
「神出鬼没ですな」
そう言って男は、かつていつの時代もそうしていたように、口角をくいと持ち上げてゆったりと笑ってみせたのだった。
「あなたは……」
「ものすごく、久しぶりだね」
閉じた扇子でこちらを指して笑いながら、ゆっくりと歩み来る男の姿。ずいぶんと、大人になったらしい。烏帽子をかぶった頭髪には白い筋がいくつも混じり、額や頬にも重ねてきた時間を感じられた。
ただひとつ、子犬のように人懐こさを感じさせる瞳だけが、いまだあの頃の面影を色濃く映している。
「ほんとうに。こうして外で知己に会うのは実に久しぶりだ」
「定頼、さま」
「思えば君と初めて出逢ったのはまだ弱冠にも満たない頃だった。和雲。結局、君の真名は教えてもらえずじまいだったな」
「もしや……」
またなにかを察知したのだろう。祈子がすそを払って立ち上がりながら、数歩、距離をつめた。
「宇治川へ、ご散策に?」
宇治川、とは現代では観光地にもなっている京都の河川のこと。琵琶湖から流れ出て京都を通り、大阪へと流れ込んで淀川となる一級河川だ。
和雲は見たことがないが、目の前の堂々たる川の景色を見ると、なるほどそうなのかもしれないと合点がいった。いまは朝霧がもうもうと立ち込めていて、いっそう荘厳な風格を感じさせている。
「そう。休暇をとってね。君は……萩野、だったかな。相変わらず、聡明さの滲み出ているご様子ですな。和雲は……」
定頼は軽く笑んで祈子と和雲を交互に見た。
「不思議なほど、いつお逢いしても変わらないね」
「あなたは……なんかずいぶん、大人になったみたい」
言うと、定頼はさもありなん、と声をたてて笑った。
「いつまでも子どもではおれまいよ。私も従二位にまでのぼり、人並みに家庭や、子を持った」
「家族を……。今日は、お仕事は、お休みしてるんですか?」
「手厳しいことを言うね。和雲はほんに、相変わらずだな」
手厳しい、と言った男の言葉に、和雲は賢子が“天井”と話していたのを思い出した。出自や人間関係次第で出世にも限界がある……いつでも安穏としているように見える貴族社会にも、いろいろと悩みは尽きないものなのだろう。
「今までかなり精力的にやってきたつもりだからね。仕事も、私生活も。でもここまできて、ちょっとばかり人生に疲れた。たまにはのんびり骨休めもいいと思ってね」
ゆっくり川へと向かいながら、男ははるかに霧の中へ流れいく水の道を眺めた。まるで脈動しているように、水流は留まることなくせせらいでいる。
「――そう、ほんとうにがむしゃらにやってきたが……なしてきたことの何が正しかったかなど、結局なにもわからない。地位や名誉や……愛する人も。求めて求めて、あがき続けたような気もするが、今となっては何をしてきたのかと、思うこともある」
「定頼さま……」
「――お召しもの、梅花の香りがいたしますね」
割り込んだ祈子の言葉で、和雲も気がついた。冷たい朝の空気に混じってほのかにただよう、かすかな梅の香り。
ああ、と定頼はうなずいて、軽く袖を振ってみせた。
「季節外れなんだけどね。なんとなく、この旅にはこの香りを引き連れていこうと思いたって梅花香を焚きしめてみたんだ」
扇子をかたかたといくつかの中骨の分だけ開き、そうして男はおもむろに和歌を詠み上げた。
「――『梅の花 をりける袖の うつり香に
あやな昔の 人ぞ恋しき』」
(梅の花枝を手折った袖に、移り香がただよう……その薫りに、むしょうに昔の人が恋しくなってしまう)
「それは……」
「ここは宇治。源氏物語の宇治十帖の舞台ともなった地だ。大弐三位が書いたのだとか、世間では噂されておる続編だがな」
「大弐三位って……賢子さん?」
ああ、と定頼は嬉しそうに笑う。
「そうか、お前たちは賢子の真名を知っているのだったか」
「賢子さんは、いま……?」
「さあ」
ぱしりと、扇子を閉じながら、定頼はまつげを落とした。
「時おりお見かけすることもあるが……まあ、お元気だろう。親王さまの乳母として立派にやっておられるようだし」
「親王さまの乳母って……ああ、ほんとになったんだ」
時代の移ろいを思うと感慨深く、和雲はつぶやいた。定頼は再び、川面を視線で凪ぐ。
「……源氏物語の宇治十帖で、浮舟が身を投げたといわれたこの川面。以前に、賢子に言われたことがある。「あなたは“薫の君”でもあり“匂の宮”でもある。浮舟はどちらも、選ばないだろう」と。――ああ、そういえば、そのとき横で聞いていた小式部内侍は、「物語のお二方みたいにかぐわしい香りなどいたしませんけどね」と揶揄していたかな」
もうずいぶん昔の話だ、と、心底から懐かしむように、定頼は額の皺を深くして微笑った。
ふと、川岸でさわがしげな音がする。見ると、網に足をとられてもがいている鳥の姿があった。
「鵜であろう。宇治は鵜飼で有名だ。きっと、どこかの鵜匠の小屋から逃げ出してきたのだろう」
必死にバタつく鵜が不憫で、網をほどいてやろうと和雲は近づいた。だが手の内でばっさばっさと暴れられ、思うように網がとれない。川べりの水に足が浸ってしまい、「うひゃ、冷たっ」と声を上げた。
「ああ、これか」
背後から伸びてきた定頼の手が、こともなげに網を掴んだ。そのまま、ざぶと、和雲のとなりまで水辺を入ってくる。絡んで食い込んでいた網の縄を、懐から取り出した小刀でさくりと切った。
「こやつはこのまま、逃がしてやろう」
怪我をしている様子がなさそうなことを確認して、定頼が微笑った。
「一羽くらいいなくなってもかまうまい。放ち鵜などもあるし、もしも鳥にその気持ちがあれば、戻ることもあろう」
などと、いたずらっぽく目配せをするのだ。
「そうですね……それじゃあ」
和雲は天に向かって投げるようにして鳥を放ち、それが、つうと飛び立っていく姿を見送った。
「――命など儚く短い」
となりで同じように視線を上向けていた定頼が、ぽつりとこぼした。
「一所懸命に生きてきたつもりでも、振り返ってみれば残せるものなどなにほどもない。ならばせめて、限られた生を自由に羽ばたいてもいいではないか」
まるで我が身のように、定頼は語る。和雲はそっと、小野小町の桜の和歌を思い出した。
あの時、桜へと手を伸べた小町がそうであったように、彼の瞳に映っているのはきっと、この川の景色だけではない。遠く、過ぎた時間の流れたちが、いくつもいくつも水面下に飛沫のように浮かんでは消えていく――和雲は彼の立ち居振る舞いに、そんなイメージを覚えていた。
それはたしかに、小町と遍照とともに眺めた、あの桜吹雪によく似ていて――――
「……そうでしょうか?」
ふと、声を発したのは祈子だった。
和雲も定頼も、その力強い声音に引かれるようにして、彼女の方を振り返った。祈子は背筋をすいと伸ばし、真っ直ぐに揺らぎのない瞳で、定頼を見つめている。
「源氏物語や伊勢物語などの物語だけではない、古今和歌集をはじめとした数々の歌集……たくさんの書物に宿った人々の心は、きっといつまでも、残ると思います」
「萩野……」
「あなたの、大堰川の和歌も。相模どのや小式部さん……賢子さんの和歌も、その想いも」
きっと、と真っ直ぐに自分を見据える祈子の視線を、定頼は受け止めている。いつでも子犬のように無邪気だった瞳に柔らかな朝焼けの陰がしのび寄り、心なしか震えているように見えた。
祈子の台詞に、和雲も思い起こしていた。最初に出逢った帝の父娘や、壬生忠岑と中の君、遍照と小町、深養父や、これまでに遭遇した人々の姿と、その表情を。
そうかな、と定頼がぽつりとつぶやいた。
「そうなのかもしれないな……」
手持ちの扇子を開き、定頼は扇面に描かれた絵をじっと見つめた。そこに添えられている一首の和歌も。
「萩野は、まことに聡明で良いことを言う……」
ひゅうと風が吹き抜けた。寒気に身をすくめ、やがて顔を上げると定頼が川面を示して二人に呼びかけている。
「ごらん。朝霧が薄れていく。浅瀬の中に、網代木が見えている」
朝の光が差し込み始めた川辺の景色。定頼の言った通り、水面にはいくつもいくつも、川底から突き出した木の杭が浮かび上がっている。それが、明るみ始めた空を写して白々とする川面に、無数の影を落としているのだ。
『……朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに
あらはれわたる 瀬々の網代木』
(夜もしらしらと明ける頃。宇治川の川面に立ち籠めていた朝霧が切れ切れに晴れてきて、その絶え間から浅瀬に次第に姿をあらわしてゆくものがある。あれが宇治川の網代木なのだろう)
ふっと、定頼が吐息ともに小さく笑う。――この和歌も、残り往くものだろうか、と。
和雲の視界が停止する。
あっというまに乳白色のもやに包み込まれた空間のなか、定頼の持つ扇に描かれた梅の花枝だけが、ほのかな輝きを放つようにいつまでも赤く灯っていた。
◇
「おお、やっとここか……」
再び視野がクリアになったとき、和雲は長いため息とともに漏らした。
全面が乳白色の、あちらでもこちらでもない狭間の時空。なにもないただ広い空間に、唐突に四面張りの襖障子だけが、どどんとそびえ立っている。
「すげぇ、札が増えてる……」
前回見たときには三枚しかなかった札が今は十枚に。それぞれ納められるべき位置があるのだろう。障子のあちらこちらに張りついて、ほのかに灯りを点しながらその存在を主張していた。
「これって…………っ!」
背後から飛んできた、驚嘆したような困惑したような声を聞き、和雲は我に返る。
――そうだ、今は一人じゃなかったんだ。
「祈子、ちゃん」
「和雲ちゃん……これって、もしかして小倉山の中院山荘の……!?」
「さよう」
答えたのは和雲ではなく、低い位置からの声だった。
「さすがは祈子。よくご存じだ。誰かと違って、話が早くて助かります」
「まっことまっこと」
現れた狸と狐の奴らを、「出たな」と見やり、それから「先生みたいに話がさくさく通じなくて悪かったな、おれは別にやりたくてやってるわけじゃないのにこの言われようなんなの?」と、和雲は胸中でこっそり、かつ、がっつり悪態をついた。
祈子が悲鳴に近いような声を上げ、あわてて両手で口もとをおさえた。
「狸人間と狐人間!」
「ああ。そうそう、こいつらが前に言ってた大宅世継と夏山繁樹だよ」
「いかにも、わしが世継じゃ」
「わしは繁樹と申す」
「はわわ……ほ、ほんとに物ノ怪だわっ」
無礼な、と狐の繁樹が小さな胸をぷんと反らせて憤慨の姿勢をみせた。
「わしらは仙。妖怪呼ばわりは聞き捨てならぬぞ」
「どっちでもいいよ、そんなの」
「和雲! 大事なところじゃぞっ」
「へいへい」
「うわーうわー、やっぱり仙人さまなんですね! お二人はあの、“大鏡”のあの方々ですよねっ! 雲林院の菩提講の!」
ふすま障子を目の当たりにして以来、テンションをうなぎ登りに爆上げさせた祈子が二匹に詰め寄った。和雲はひょいと首をかしげて祈子の顔をのぞきこむ。
「なんか前も言ってたような気がするけど、その“大鏡”っていうのは一体……?」
祈子が答えるよりも前に、大袈裟なため息を落とし、さも悲しげに世継が言った。
「これだから和雲は……」
「やれやれ、まったく現代っ子にはかなわんのぅ」
「……すいませんね、不勉強で」
「まあ知らぬでも構わぬことではあるが……ちと寂しいものじゃ」
「よいか、和雲。大鏡とは、“今鏡”、“増鏡”、“水鏡”の三作と合わせて、“鏡物”と呼ばれる四冊の歴史書の最初の一冊のこと。雲林院なる寺において行われた菩提講――つまり寺での集会のことじゃが、そこで語られる世の流れの物語を書きまとめたものなのじゃ」
「そのお寺で語り部として登場するのが、大宅世継と夏山繁樹という名の長寿の老人コンビなの。めちゃくちゃ長生きで、書物の中でも仙人じゃないかって目されてる」
「え、じゃあ……」
和雲は二匹を指差して目を瞬く。
「この二人は本の中の登場人物ってこと?」
それには答えず、二匹は目をなごませて微笑むばかり。祈子は、指先を口もとに添えて、うーんと、小さくうなった。
「そうか。つまりここは過去に実際にあった平安時代の世界でもなく、現代の世界でもない、もうひとつの世界なのね」
「ええぇ……隙間の時空って、ようするにそーゆーことなの……?」
「ねんねん」
和雲が漠然と、彼らの存在についての考察に納得しかけた時のことだった。
「……ねんねん?」
聞き覚えのある流暢な声と奇妙な語呂の言葉に、和雲は眉をひそめて復唱する。
「この声って……」
祈子がつぶやいたのとほぼ同時。立ち並んだ障子の横手のほうで、ぐねりと空間がひしゃげて大きく渦を描いた。
乳白色のもやが逆巻くように波形にうねり、やがて巨大な扉が内側へ開くように大気がばかりと口を開ける。そこから、一匹の黒い猫が悠々と現れ出た。
猫を吐き出すや、しゅるしゅると空を切るような音を残響させながら空間の歪みは消失していく。いまだ座り込んだまま、呆気にとられてその様子を見守っていた和雲の目の前まで、黒猫は二足歩行で、しゃなりしゃなりと歩み寄ってきた。
黒い垂纓の冠、鮮やかな蘇芳色の束帯姿。黒い猫耳をぴんとたて、背面に小さな鈴のついた黒い尾をそよがせている。そしてもっとも印象的なのは、右は黄金色、左は白銀色の異なる色彩を放つオッドアイ。
その瞳で和雲の両眼をついと見上げ、もう一度、ねんねん、とつぶやいた。
「まさか……安部晴明……?」
なかば確信をもって和雲は訊いた。朏の形に目を細めた黒猫が、にんまりと笑う。
「いかにも」
ああ、と和雲は大きく肩を揺らして、嘆息を落とした。
「あんた、やっぱりこっちがわの人間だったんだな……っ。おかしいと思ったよ~、ぜったい普通じゃないんだもん~なんだよ、猫かよ~、ねんねんてそういうことなのぉ~っ」
ふっふと、音をたてて晴明は笑っている。それを恨めしげに見やった和雲の肩口から、世継と繁樹が顔をのぞかせた。
「晴明どの! やあやあこれは、お久しぶりですな」
「相変わらずお忙しくてらっしゃるようだ」
「世継どの、繁樹どの。こちらも、おかわりのうお暮らしのご様子で安堵いたしましたぞ」
「いやそれが……近頃はそうでもなくての」
「ははあ」
黒猫の晴明はふいとかたわらに立ちそびえる襖障子に視線を送る。
「これのことですかな」
「さよう」
ひのふのみ……と晴明は肉球のついた黒い前足を上下に揺らしながら、和歌札の数を計数していく。
「あと――九十枚ですかな。ふぅむ、川水雲の君、まだまだ精出して潜ってもらわにゃあなりませんな」
「あなたも他人事だと思って簡単に言ってくれちゃうんですね……っていうか、人の名前を勝手におかしなふうに省略しないでください」
「ねんねん、ねうねう。しかしこちらの蓍削り花の君がいればたいそう心強いであろう。彼女はまことに知識も深く、機転も利く。これからも、お二人で力をあわせて挑まれるがよろしかろう」
「聞いちゃいねーし。しかもなんかやっぱり、言ってることが大半よくわからないんだけど。そもそも、なんで俺……じゃなかった、わたしたちが? それこそあんたたちみたいな、いかにも特殊能力を持ってそうな物ノ怪だか仙人だかが事にあたったほうが早くない?」
「それではいかんのだ!」
答えたのは晴明ではなく狐の繁樹だった。真面目そうに眉間にしわを刻み、ぎゅっと小さな拳を握っている。
「……なんで?」
「言うたであろ。和歌は心。心を呼び覚ますのは、人の心でなくてはならんのだ」
「心……」
世継にもそう説かれて、和雲は再び障子を見上げた。いつのまにか隣に並んでいた祈子も、ともにそれに目を馳せる。今はそこに、十枚の札がうっすらと灯って輝いている。
「……心って、美しいんですね」
祈子がぽつりと言った。
和雲もまた、胸に去来する歌人たちを思い起こしながら、なんとはなく黙って札を順に目で追っていった。
和歌は心。今日までに出会ったあの歌人たちの、それぞれの想い。
そしてふと、あることに気がついて、「ん?」と首をひねる。
「……なんか、ここのところ、ちょっとネタがかぶってるよね」
和雲が指し示した先には、“朝ぼらけ”から始まる一首。その札は、障子の中央よりやや左下の位置に配置されている。
その下に深養父の“夏の夜は”の札、さらにその左どなりに忠岑の“ありあけの”の札が並ぶ。
“朝ぼらけ”始まりの定頼の明け方の和歌と、その下の深養父の和歌も夜が明ける頃の月の様子を詠んだものだ。同じくして、忠岑の和歌も、明け方の月を詠んだ一首なのである。
ここの三首はあきらかに、明け方というキーワードで呼応していて、うち二首にいたっては月を詠んだものであるという部分も関連づけることができる。
「でもそういえば、百人一首って同じような語句、多いんだよね。下の句なんか“ひと”で始まる札が異常に多くて、カルタのときに絶対一回はひっかかるし」
「そうそう、似たような文句が多っていうのは昔から言われてるね。編纂者の藤原定家が意図的に選んだのかどうか、何度も議論されているところで……」
はっと、思いついたように祈子が和雲を見返した。
「和雲ちゃん、そういえば百人一首は魔方陣だって、言ってなかった……?」
「え? あ、うん。そこにいる狸と狐が前回のときにたしか、そんなことを言ってて……」
「そっか……そうなんだわ。」
何かを思いついたらしい祈子に、「なにが?」と和雲は首をかしげて目線で問いかけた。祈子は至極、真面目な瞳で障子の札たちを見上げている。
「聞いたことがあるの。――百人一首はもともと、小倉山の宇都宮頼綱……この人は定家の親戚のお坊さんなんだけど、その頼綱の中院山荘の障子を飾るために選び出された百首の和歌だと言われているのね。定家が選んで、色紙形に書き、そしてこうやって並べて貼りつけられていた、と」
「さすが、よく知ってるね。でも、それがなにか……?」
「でもその障子は現存していないのよ。だからもしもそれが実在したとして、その並び方について、今までに何度も議論されてきたの。百枚の色紙って多いじゃない? なのに定家によって選ばれた和歌は、似たような文句を含むものが異常に多い。これはその百首を意味のある形で並べるための、意味のある選定だったんじゃないのかって」
「じゃあここのところの札が似たような感じの和歌なのは、意図的にそのために……?」
「たぶん。定家っていう人はすごく神経質で頭のいい学者さんだったんだって。だからなんの意味もなく配列するようなことはないだろうっていう説がたしか、あったはず。こうやって、同調的に連鎖する語句を上下左右につなげてならべて、百枚の札の魔方陣を完成させたんじゃないかな」
「へぇえ……」
和雲は感嘆の思いを込めて、障子を見上げて息を吐いた。
「さっすが!」
ぱしぱしと小さな拍手が聞こえてきて振り向くと、狸と狐と猫が前足を叩きあわせて手をたたいている。
「いやあ、祈子どのはまことに思慮深い!」
「造詣も深い!」
「その上、お察しも良い」
誰かさんとは大違いだなぁ~と、ごろごろと三匹が祈子の足元まで近寄ってきて盛り上がっている。
ぽつりと取り残された位置から、和雲はそいつらを白い目で睨めつけつつ、それで、と口をとがらせた。
「んで結局、やっぱりあと九十枚をなんとかしなくちゃなんないわけ?」
「もちろんじゃ!」
くるりとこちらに向かって素早く踵を返し、世継が小さな前足で拳を作って突き上げる。
「百枚そろわねば魔方陣は完成せぬ! よいか、和雲、百枚じゃ。九十九枚でも足りぬ。百枚すべての歌人の心を取り戻してきてたも!」
「頼んだぞ、和雲!」
「ご武運をお祈りしておるぞ、和雲どの」
なんでこういう時だけ寄ってたかってこっちに言ってくるんだろう、と和雲は白目をむいた。
そしてはっと、唐突に思い起こして晴明猫を手招く。
「あ、あのさ……実は、うちのアニキのことなんだけど――」
ずっと抱えていた重荷を降ろすように、和雲は現世での状況を説明した。
「なるほど……それはいかんな」
「晴明どの、これも、呪いの影響に違いないであろうな」
いつのまにか寄ってきていた世継が晴明に念を押す。
「もはや現世にまで影響が出てきてしまっておるのか……」
繁樹もやってきて、うーむと腕を組んだ。
「これは推測だが」
晴明は二匹と一人に顔を寄せて切り出した。
「あらたに文字でつぶやいた言葉が現実となってしまっているのではないかと。その証拠に、和雲の兄上が消える前に、ばべきゅーが中止となっておる」
「あ……たしかに」
――じゃあやっぱり……大和がいなくなったのは俺のせい……!?
だけどまさか、トラクターが原因だったなんて……これからはつぶやきに注意しなければ…………
「……晴明」
「なにかの、和雲」
「……取り戻せる? アニキを」
ぽそりと訊ねた声には、力強いうなずきが返ってきた。
「平安の魔を封じることができたあかつには、きっと」
うん、と和雲もうなずいた。目頭がぎゅっと、熱くなる。
――取り戻せる……取り戻す。きっと。
いつの間にか、じわじわと忍び寄ってきていたのであろうもやもやの波が、和雲の身体をどうと飲み込んで急浮上させた。
小さな獣たちや祈子や、襖障子やの目に映っていたもののすべてを巻き込んで、その風景を溶解しながら転移が起こり始めていくのがわかる。
薄れいく意識のなか、はるかにけむる時空の彼方から、「次も頼んだぞよ~」という狸と狐の無責任な声援が聞こえてきたような気がした。
