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ひゃく・てん! ~その拾壱~

にせ・さつ!

~二世はいろんな意味でツラいものらしいと場の空気で察してしまった件!~



「あ、あれぇ……」
 もやの中から吐き出されるようにして放りこまれた局の中。和雲は祈子と正対して目を合わせ、困惑の呟きをぽとりと漏らした。
 またしても、平安魔境のどこか。またしても、畳に簾に単装束。またしても、少女姿の祈子先生。もちろん、和雲の身体も美少女のまま。
 なんだか色々と、想定外のことが起こっている。
 たしか今回の転移は清原深養父に始まったはず。相模ときて、今回のこれで立て続けに三度目、和雲らはまた新たな境界に足を踏み入れたということになる。
 ここまでの転移で、一首の間に二度も転移させられたのは初めてのことだし、詠唱による転移がこんなに連続して起こったのも初めてのことである。
「まだまだ魔鏡転移のルールを把握できてないんだな……」
 いや、そもそも明確なルールなどというものがあるのかどうかも疑わしいけど。
 つきつめて考えてみれば、わからないことばかりだ。
 あの狸と狐の奴ら、説明はざっくり荒いし、こちらの質問に答えずにいつも一方的に言いたいことだけ言う。隙間の時空からはさっさと退場させられるし、そもそもあの二匹自体が正体不明のままだし、人に強引にものを頼んでおきながら投げっぱなしにもほどがある。
 和雲は、はあーっと溜め息をつき、先々を思いやって肩を落とした。例によって前向きな祈子はきょろきょろと辺りに目を配って、まわりの状況を探り始めている。
「確かに、さっきはびっくりしたよねぇ。相模が急に相模になっちゃってたもんね! でもやっぱり、二度目の歌合の時のほうが、あの和歌のイメージにはピッタリだったかも」
「そう……なのかな?」
「うん。相模といえば、しっとりとした大人の女の情念って印象が強いし。若い頃の乙侍従も素敵だったけど、歳を重ねて定頼や他の殿方ともあれやこれやあって、そうして熟成されたあの姿がまさに真骨頂って感じがしたな、私は」
「へぇぇ……なるほど」
 言われてみれば、確かにそうなのかもしれない。
 あの和歌は人として、女としての歴史を重ねた乙侍従が、相模へと変貌を遂げた心の移ろいそのもの。ゆえに二度の詠唱を経てこそ、真にその心を取り戻したのだろう。
 おぼろげながら納得しかけた和雲を尻目に、祈子は今度は簾の外側の様子を窺っている。庭先の木々に紅葉の兆しが見られるところから察するに、いまの季節は秋なのだろうか。
「さて、お次はどこの誰に出逢えるんだろうねぇ〜、わくわくしちゃうっ」
「そ、そだね……」
 俺はもうおうちに帰りたいんですけど、と内心思いつつ、和雲もあたりの様子をうかがった。
「なーんか、さっきいた姫宮のところと雰囲気が似てる感じがするよね? 物音とか話し声からして女房の数も多そうだし。ひょっとしたら、ここはまた後宮のどこかなのかな」
「そうなのかな? まあたしかに、なんだかにぎやかな感じがするし、人の数は多そうだね」
「でしょ? ――あっ。ねねっ、和雲ちゃん、あの人……っ」
 簾に張りつくようにして縁側の先を見やっていた祈子が、色めきたって和雲を手招きした。指先に誘われるままに見てみると、直衣姿に垂纓すいえいの冠を戴いた男が二人、連れ立ってこちらへと歩いてくるのが目に入った。
 右側の男に、見覚えがある。すらりと背が伸び、以前より肩幅も張りだして、青臭い少年の面影が消えてしまってはいたが、子犬のように親しげな光を宿した瞳は相変わらず……あの、藤原定頼が、こちらに向かってきていたのだ。
「ひゃああ、また逢っちゃったねっ。今度こそ定頼の“朝ぼらけ”の和歌が聞けるのかしらっ」
 嬉しそうに目を輝かせた祈子に、和雲は目線でうなずいた。
「でもなんか……ちょっと大人になってるよね、彼?」
「うーん、言われてみれば確かに。ここはさっきより数年後の設定なのかなぁ」
 額を付き合わせてひそひそと情報分析をしている間に、定頼ともう一人の男はすぐそこまで到着していた。定頼よりも少し歳若の男の方が、「失礼」と、御簾越しに第一声を発した。
「女房どのにお取り次ぎをお願いいたしたく。越後弁えちごのべんどのはおられますかな」
「えっ!?」
「あ、はいはい、ただいま! 少々、そちらでお待ちいただけますでしょうか?」
 思わず裏返った声をあげてしまった和雲を隣からひじで小突き、祈子が男たちに返答する。それから彼女はそっと、和雲に耳打ちをする。
「私、奥に入って越後弁っていう人を探してみるね。ついでにちょっと、なかの様子もチェックしてくるからっ」
 まるで新しいショップに買い物にきたかのように軽やかに、祈子は和雲にうきうきと手を振った。そして引き留めるまもなく、奥の間へと飛び込んでいったのである。オタクとはかくも、たくましいもの。
 一人取り残された非オタの和雲が、男たちを相手に何のもてなしができるわけでもない。所在なく黙りこんで、その場で縮こまっているしかなかった。なんとも心細いことこの上ない。
 ――だがそういえば。
 ちらりと、和雲は御簾の向こうに腰を落とした定頼の姿を眺めた。
 ――さっき、内裏でのお遣いで道に迷いそうになった時、彼が助けてくれたんだったっけ?
 あの場では、「チャラ男のしつこいナンパめんどくさっ」としか思えなかったのだが、とても助けられたのも事実だった。彼は押しが強く、確かに気は多いようだが、人は好いのだろう。子犬のような瞳もわずかにまろくなり、もともとの端正な顔立ちもあいまって、いまの、少し大人びて落ち着いた風情の定頼は、なかなかの好青年に見えた。
 ――いまごろ相模も、彼への恋慕を募らせてその袖を濡らしているのだろうか。
「ねぇ」 
 そんなことを考えていた時、定頼がついと御簾に手をかけて、和雲に囁きかけてきた。
「君、どこかで会ったこと、ある?」
 そうして口の端をゆるりと引き上げて、見透かすようにじっとりと目を細めた。
 御簾越しにこちらを注視する双眸に、和雲はひくりと頬を引きつらせた。
 よもや向こうから話しかけてくるとは思いもよらず、反応に困って動けない。すると簾の下から、すいと手が差し出される。くるりと掌を返し、男は御簾の端を少しだけ持ち上げてみせた。 
「かの紫式部どのが詠われたという“夜半の月”ならぬ、“紅葉の日差し”が雲隠れしてしまう前に、お顔を少しだけ、お見せくださいませんか」
 ――相も変わらず……なんという押しの強さ!
 今にも簾を持ち上げんばかりの指先を見やりつつ、どう答えようかと思案に暮れる。と、弾けるような声で和雲の名を呼びながら、祈子が戻ってきた。
「和雲ちゃん、みてみてっ」
 言いながら彼女が手招くと、奥から小袿姿の一人の女房が姿を見せた。
 それは朽葉色の秋らしい配色の重ねがよく似合う、しなやかな大人の雰囲気をまとった女性だった。きりりとした目元にやや神経質そうな鼻筋、色白のその面に、和雲は見覚えがあることに気づいた。
「もしかして……賢子……さん?」
「まぁ、あなたも覚えていてくれたの!」
 感激したように笑みをこぼし、ずいと歩み寄ってくると、賢子は和雲の手を取った。 
「お久しぶり! 里下がりをなさってたんですってね。なんでも、萩野とともにこちらに再出仕をするとか。ご一緒に后の宮さまにお仕えできるなんて、喜ばしいことだわ」
「は? ――ああ、はい、こちらこそ……っ」
 知らぬ間に祈子が捏造設定を植え込んでいたらしく、賢子は一方的に感激を表している。祈子自身は苗字そのまま、“萩野”と名乗ったらしかった。
「私、あなたがたお二人のことが忘れられなかったのです。お名前も聞かず、ただ一度、三年前にお会いしたきりだというのに何故かとても印象深くて。晴明さまが折に触れて、お話しされていたということもありますけれども……」
「そ、そうなのですか? あ、あの、覚えていてくれて、ありがとう」
「こちらこそよ! お二人そろって覚えていてくれるなんて、私もうほんとに感激してしまって……」
 そうかあれから三年後の世界なのか、などと納得しつつ。
 和雲自身にとってははつい昨日のことでしかないが、三年後の賢子が自分たちのことを記憶していたことに、和雲は驚きを隠せないでいた。それはつまり、これらの世界線は繋がっているということを意味する。
 本題そっちのけで女たちが盛り上がっていたその背後から、しびれを切らしたように定頼が苦言を挟み込んだ。
「おいこら、賢子」
「あら、左中弁さちゅうべんさま。いたの。再三申しておりますが、気安く人前で名前を呼ばないでくださいます?」
「いたの、じゃない。呼んだのは私だ。お前、絶対わざと無視してるだろ」
「なんのことでございましょうか」
「なんだよ、この前の菩提講で後ろの席の娘にちょっかいかけてたこと、まだ根にもってるのか? だから常々言っている事だが、そういうのは男の嗜みというもので……」
「訊いておりませぬが。興味もございませんし。あ、経任つねとうさま、おはようございます」
「おはよう、越後弁。お二人はいつも、ほんとうに仲良しだね」
「いやですわ。少将さまはご冗談がお上手ですこと」
 目をぱちぱちと瞬かせつつ、和雲はまるでデジャヴのような平安人たちのやり取りを聞いていた。
 どうやら“左中弁”、とは定頼のことで、“越後弁”、とは賢子のことらしい。どちらも宮中にて職につき、その立場や呼称は少しずつ変遷しているのだろう。
 だが犬も食わない痴話喧嘩は相変わらず。定頼は、はぁっと息を吐き出した。
「――それよりも、こちらの女童どのは和雲、とおっしゃったか? その名前には覚えがある。やはり、前にもお逢いしたことがありましたね」
「あ……はい。以前に、道に迷っていたところを助けていただいて」
「そうそう。内裏を二人で楽しく散歩したんだったね。いやぁ、お久しぶりだ。私も、またお逢いできて嬉しいよ」
「は、はぁ……」
「そちらの女童どのは萩野と申すのか。お二人で藤壺に再出仕されると先ほど聞こえましたが、いやはや、こちらの局がいっそう華やかになりますな」
 藤壺? と和雲が祈子を振り返ると、彼女は興奮気味にぶんぶん、勢いよく何度も首を上下させていた。藤壺とはおそらく、源氏物語で有名な後宮の一殿のことであろう。
 先ほど賢子が“后の宮”と言っていたし、ここはやはり後宮。帝の妃の舎殿だったのだ。
「――で? 今日はどのようなご用事ですの? 左中弁さま」
「ああ。后の宮にいくつか文書をお持ちしたのでお取り次ぎを願いたい。それと、若宮さまの新年のご装束についてのご意見もそろそろ窺っておきたいと、お伝え願えようか」
「かしこまりました。宮さまはお髪を整えておられます。お二方には、いましばらくお待ちいただきたく」
「了承した」
 てきぱきと、業務上の会話が進められていく。そうして眺めていると、賢子はもとより定頼も立派な勤め人のようだった。三年の歳月はこうも人を変える。
「――ときに越後。聞いてくれよ。先日の大堰川御幸おおいがわのみゆきのこと、知ってるか?」
 和雲が定頼を見直していた矢先、彼はへらりと相好をくずして賢子に切り出した。
 御幸みゆき、とは帝が出かけることを指すのだと、和雲はすでに学習済みである。大堰川御幸とはつまり、帝が大堰川に遊覧に出かけた宮中行事のことを言っているのであろう。
「……ええ、まぁ。聞きおよんではおりますが」
「ああやはり。お父上が自慢してまわっててさぁ、先々でその話を持ち出されるもんだから、参っちゃうよ」
「はぁ」
「左様でございますな。いまやすっかり大納言さまの息子自慢の逸話の筆頭となりましたな」
「そうなんだよ、経任。まったく、お父上には困ったものでね。でも、あれはなかなかの出来だと我ながら思うんだよなぁ。どうだ、越後はどう思った?」
「確かに、お和歌の方はけっこうな作ではございましたわ」
「だろ? だから父上がうるさくって。大堰川と言えば父上の“三舟の才”の話が有名だが、それを持ち出しては、お前ならば歌の舟に乗るべきだとか、いや他事にも秀でているからそれではもったいないだとか、もう聞いてる私のほうが恥ずかしくなるくらいだ」
「はぁ」
 内容の大半は理解できなかったが、場の雰囲気から察するに、何やら男の出来高自慢が始まったようである。賢子の寒々しい眼差しをものともせず、定頼は経任と呼ばれていた部下らしき男の太鼓持ちを受けつつ、満悦の表情で話を続けている。
「――もしかして、それって……」
 それまで和雲と同じように黙ってことの成り行きを見守っていた祈子が、ぽつりと声を発した。
「『水もなく 見えこそわたれ 大堰川』……」
 祈子が途中まで紡ぎかけた和歌に、定頼がふっと目を細めて余裕たっぷりの笑みを浮かべて応える。
「『峰の紅葉は 雨と降れども』――――どうだ、悪くなかろう?」
 きゃあっと、すぐ隣の局から複数の女のものと思われる歓声が上がった。「定頼さまのお声よっ」「素敵ねぇ」などのさえずりが届いてくるところから、どうやらこちらの様子をずっと窺っていたらしいとわかる。
 賢子からは変わることなくぞんざいに扱われている定頼だが、やはりちまたの女人がたには人気のある貴公子なのだ。
「水もなく……と詠み始められたところで大納言さまは、「はや不覚してけり」とたいそう戸惑われたそうです。このなみなみと水を湛える大堰川を前に、水がないとは如何に!? と。それが下の句に入ってのさても見事な意表をつく展開。いやはや、逆転発想の妙にこの経任、感服するばかりです」
 経任という男は世辞が上手い。わざとらしくない程度に、それでいてしっかりと上司の定頼を持ち上げている。
 なんなんだこの見え透いたおべっか談話は、と内心しらけていた和雲だが、対照的に祈子は感動したように定頼に称賛を送っていた。
「すごいわっ、大堰川のあの話が生で聞けるなんて……定頼さまの代表作ですよね!」
「おお、萩野。君はなかなかに和歌心があるようだね。そうだな、これからは、代表作の一つとして数えてもいいかな」
「……たいしてたくさん詠んでないくせに」
 ぼそりと、賢子が小声でぼやいたのを耳が拾って、和雲は彼女を振り返った。そんな台詞はまったく聞こえていない素振りの定頼は、すこぶる上機嫌のまま。いつになく饒舌にとうとうと言葉を続けている。
「音に聞こえた高名な父を持つと苦労するものでね。その息子の名に恥じぬよう、これくらいはできんとな」
「はいはい」
「なんだよ、賢子。お前だって同じだろ? お互い、親が有名人だといろいろ大変だよなぁ」
「私は、別に……」
 おもむろに話の矛先を向けられた賢子は、ふい、とそっぽを向いた。
「物語を書こうとは思わないし。母は母。私は私です。進むべき道も違いますし」
「またまた」
 定頼がくすりと、目を細めて微笑う。
「無理すんなって。まあお前にも、お前の才能を発揮できる場がくるさ、きっとな」
「なに言ってんの。見当違いもいいとこだわ」
 すっかり普段口調の賢子が呆れたように切り返した時、奥から一人の女房が姿を見せた。
 小柄なその娘も賢子と同年代に見受けられたが、面差しにはまだ少女のようなあどけなさを残している。花薄の襲の色目が初々しく、「失礼します」と言う声も、鈴がなるような澄んだ響きをしていた。
「お待たせいたしまして申し訳ございません。ただいま、宮さまのお支度が整いましたので左中弁さまと少将さまをご案内するようにとのことです」
「あら、ありがとう」
 にこりと笑んでこたえた賢子にかぶせるようにして、定頼が、おっ、と色めき立った。
「その声は……もしや小式部ちゃんかな?」
「私は小式部内侍こしきぶのないしです。おはようございます。左中弁さま、少将さま」
「おはようございます、内侍どの」
 それまで和雲とともに平安人たちの様子を見守っていた祈子が、ぱしり、と音高く扇子を閉じた。片手でそれを握りしめ、反対側の手を伸ばして和雲の衣端を掴んできたところから察するに、この小式部内侍という少女もまた、有名な人物なのだろうか。
 定頼は今までになくやわらかな笑みを作って、簾の向こうから彼女に甘く囁きかける。
「久しぶり。相変わらず、小鳥が唄うような可愛いお声だね」
「つい先日、お会いしましたので久しぶりとは不可解なおっしゃりようですわね」
「そうだっけ? では君に会いたい想いが強すぎて、幾日も会えていないような気になっていたのだろう」
「それは難儀でございましたね」
「ああ、それより、小式部ちゃんも聞いてくれた? 大堰川の和歌」
「はい。お聞きしました」
「そう。で、どう思った?」
「お和歌はたしかに、大変けっこうでございますね」
「だろ? 惚れ直した?」
「……僭越ながら、左中弁さまにお二つ、ご注進申し上げます」
 小式部内侍と名乗った少女は、すっと居住まいを正す。「ん?」と、甘やかな微笑みを浮かべた定頼の前にしずしずと進み出ると、膝をついてその顔を見上げた。
「お一つ。せっかくの良いお和歌なのですから、ご自分であれやこれやと解説なさるのはお控えになったほうがよろしいかと。たいへんお見苦しゅうございますし、受け手の感性によって胸のなかで完成させることも、和歌の醍醐味と心得てございます。秀歌なればこそ、静かに余韻を味わいたいものです」
 ぎょっとしたように賢子が振り向いて、小式部内侍を見つめた。かまわずに、彼女は言葉をつむぎ続ける。
「お二つ。惚れ直したか、とのお問いかけでございますが、そもそも私はあなたさまに惚れ申しあげてございません」
「あ……はい」
 定頼が両の眼をつぶらにぱちくりと瞬かせた。その隣で経任は冷や汗を浮かべていたが、賢子は噴き出しそうになるのを堪えているらしく、小刻みに肩を震わせている。隣室からは、いまだやり取りを聞いているらしい女房たちの困惑のざわめきが届いてきた。
 ますます強く和雲の衣を握りしめている祈子とともに、和雲も黙ってじっと成り行きを見守るに徹した。
「――さすがに、気がお強い」
 わずかの間の後、ふっと、定頼が苦笑をこぼした。
「お血筋は争えんな」
「これは血筋の問題ではなく私自身の資質によるものです。……定頼さまも、そうなのではありませんか?」
「うん、まあ……そう、かもな。でもなんだ、ほれ。お互い、高名な親を持つといろいろとあるものよな」
「ええ、それはそうですわね。でも……」
 小式部内侍はいま一度、定頼の眼を真正面からひたと見据えた。
「そのお父上さまのおかげで、あなたは宮中でのびのびと過ごされ、左中弁などという立派な地位もいただけているわけでございましょう?」
「うーん……まあ、そうだな」
「さればこそ、多少の苦労など憂慮のうちに入りません。――私は、そう思うております」
 淡々とした彼女の言葉に音もない面々に、「失礼いたします」と言い残し、小式部内侍はさっさと奥の室へ戻っていってしまった。
 御簾の向こうの経任は困惑したままだし、賢子も何とも形容しがたい非常に微妙な顔をしている。
 当の定頼は怒るでもなく悲しむでもなく、ぽかんとした顔には特に色もない。まじまじと、目の前の簾を見つめたまま。
 今までに出会ったことのないほど淡白なタイプの女房だな、と和雲が考えているうちに、隣室の話し声が次第に大きくなって流れ込んでくる。どうやらこちらのやり取りを受けて、紛糾しはじめているようだった。
「お聞きになりまして? 小式部どののあのご対応!」
「今をときめく定頼さまからあのように優しくお声かけしていだきながら、失礼にもほどがありますわよねっ」
「小式部さんってかわいらしいお顔をしてイヤミな方なのよねぇ」
「ご自分だって、お和歌はどれほどがご自身の作なのやら。怪しいものですのにね!」
「そうそう。それこそ、ご高名なお母さまに代作を依頼してらっしゃると、もっぱらの噂ですわよ」
「いやですわねぇ。これだからお嬢様育ちは……」
 ノイズは次第にヒートアップして、こちらにいる者たちの耳にも十分に届いてくる。和雲は一同の反応を順に見やり、賢子がほう、と息をついて目を伏せたのを確認した。
 定頼はというと、和雲が視線を投げるといつものように、ふいと口角を上げて目配せを寄越よこしてくる。 
「――言ったでしょう? 高名な親を持つと、なにかと大変なんだって。もちろん、恩恵もたくさんあるものですがね」
 そうして彼は、「さあではぼちぼちお仕事と参りましょうか」と、ゆっくり腰を上げたのだった。




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