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ひゃく・てん! ~その拾参~

ばい・ばい!

~バイタリティを発揮した女が餞別として梅花の扇をくれてやったのを目撃した件!~



 次にもやから抜け出ると、そこはもう何度目かという局の内だった。
 徐々に晴れていく視界。和雲は「またかぁ」と嘆息した。
 ふと隣を見ると、祈子が顔を袖で覆って肩を小刻みに震わせている。ぎょっとして呼びかけると、おいおいと泣き濡れた顔を見せてしゃくり上げた。
「大江山……大江山の和歌を生で……っ」
「ちょちょっ……祈子ちゃん、泣かないで」
「だってぇ……」
 あまりにも感動的な光景だったんだもんっと、祈子は再び面伏せて肩を震わせた。
「定頼が歌合の件を持ち出してきた時点でキターッ! て感じだったの。くる……くる……って身構えてたんだけど、実際に聞いてみるとこの感動たるや、あああ~もうっ!」
「さ、さっきのもエピソードとして残ってる話なの?」
「もちろんよぅ。めっちゃ有名、めっちゃ当意即妙、めっちゃ感動的、小式部さんマジ天才……っ!」
「あ、あー、その、とういそくみょう? ってなんなの? 定頼も言ってたけど」
 聞きなれない言葉を一度ならず耳にして、和雲はいまだ感涙に暮れる祈子に水を向けた。ずびずびと鼻を鳴らしながら、祈子が「ああ」と答える。
「当意即妙、ね。その場面に適応して素早く機転の利いた和歌を詠み上げることだよ。早くて、なおかつ巧みな和歌を詠むと誉れが高かったの」
「さっきの小式部さんのは……」
「あれはね!」
 祈子はいまだ熱に潤んだままの瞳をあげ、和雲を力強く見返した。
「定頼の言葉に的確に返答をしているうえに、地名の“生野”と遠くへ“行く野”、橋に足を“踏み”いれることと手紙の“文”が掛詞かけことばになってて、さらに歌枕うたまくらである大江山、生野、天橋立、と三ヶ所も詠み込まれているのよ! マジですごくないっ?」
「す、すごいね……」
 勢いに圧倒され、「歌枕って?」と基本的な疑問を残しつつも、和雲は素直に感心した。よくはわからないが、あれはそういう、たくさんの技巧が施された秀歌だったのか。
 つまり、代作疑惑をネタに戯れかけてきた男に、女はその場で即座に見事な自作を詠み上げてみせ、見事、男の鼻を明かしたという逸話なのだ。
 だけど――。
「定頼……笑ってたよね?」
 ぴたりと、祈子は鼻をすするのを止めて、すん、とうなずいた。
「……私も、見た」
「じゃあ、あれって」
「うん。わざと道化を演じたんじゃないかな、やっぱり」
 絶えず周囲から聞こえてきていた女房たちの気配。雨の降りしきるなか、女たちは室内で静かな時を過ごしていて、定頼の声はやけに大きく響き渡った。それに対する、小式部内侍のあの和歌も。
「いろんな尾ヒレがついてくるエピソードだけど、よく聞く話では、小式部をからかった定頼は見事な和歌にびっくりして、返歌もできずにあわてて逃げ帰ったって言われてるんだけどね。……事実は小説よりも奇なりってところかな」 
 和雲は定頼の袖を握りしめた小式部内侍の横顔をいま一度、思い起こした。「ご声援に感謝します」と静かに言った彼女は、やはりすべて承知していたのではないだろうか。なんといっても、とても聡明な彼女のことなのだから。
「なんか……よかったね」
「うん。マジで。めっちゃ感動した……!」
「……祈子ちゃん、ほんと嬉しそうだね」
「うん、うん」
 まだ鼻をずびずばとすすっている祈子がほほえましくて、和雲は苦笑を漏らした。
 下ろされた簾の外は黄昏の時。季節の頃はわからずとも、風のない乾いた大気が縁側を撫でつけているのを感じる。電飾の灯りのない世界、ほの暗い室内には、風も止まったような閑寂な時間だけが流れていた。
「ねんねん」
 ――……ねんねん?
 ふいに静寂を打ち破った者があった。その聞き覚えのある声と妙な語呂に、和雲と祈子は互いに目を見合わせた。
「……あ」
 二人してつぶやくと同時、弾かれたように御簾に張りついて目を凝らした。
 すい、すいと、夕闇の風景を切り裂いて、今まさにこの世に生まれ出づる泡のような、ゆったりとした足取りで歩み来る若い男の姿がある。
 纓を後ろに垂らした黒い冠、鮮やかな蘇芳色の袍を纏った束帯姿。夕の赤と宵の青の合間、深紫の薄闇を照らす灯火のような、静謐な影。
 和雲はごくりと唾を飲みこんで、近づいてくるその姿をじっと待ち構えた。ひたひたと素足による闊歩が絶え間なく続き、ついに局の前まで到達する。
 刻々と藍が圧し始めていく宵の空を背に、くるりと纓を揺らして男はこちらを睨めた。
「ねんねん、ねうねう。――お久しゅうございますな、和雲どの、祈子どの。その後、つむりのお加減はいかがなものでしょうや?」
 ――あ、安部晴明、ふたたびっ!?
「あ、お……おかげ、さまで、なんとか……」
 とたんに感じる謎の威圧感に興奮を抑えつつ、和雲はしどろもどろながらに返答した。「さようですか」と、細いみかづきをひっくり返したような眼をして、晴明は微笑う。
「さて、ときに方々。ご存じですかな? 今宵という日は庚申待ちが執り行われますぞ」
「こうしんまち?」
「もしかしてそれって……みんなで徹夜するという、あれですか?」
「さよう、さよう」
 当然というべきか、その存在を知っていたらしい祈子が確認すると、晴明は大きくうなずいた。
「みんなで徹夜?」
「さよう。これは道教の三尸さんし説に由来する庚申信仰の習わしにございます」
 言って、晴明は三本の指をぴんと立て、和雲の前に示してみせる。
「人の体内にいる上尸、中尸、下尸からなる“三尸さんし”という虫――これはすなわち、霊魂や鬼神のことなのでございますが――それが、およそ六十日に一度の庚申かのえさるの夜、人が眠りについた隙に体内から忍び出で、天におわします天帝にその者の罪を告げ口しにいくと言われております。三尸は日ごろから宿主から自由に解放されたいと望んでおり、宿主を早く滅そうとするものですからな。宿主である人間はそれを防ぐため、虫たちが体を抜け出さないように夜の間中こぞって集い、和歌や詩を詠んだり、碁や双六、管弦などに興じて互いに眠らぬよう見守りあいながら過ごすもの」
「へぇ……」
 またしても、平安時代の妙な行いに和雲は驚くばかりだった。六十日、つまり二ヶ月に一度は、国をあげてそんなふうに夜を過ごすというのは、非常に奇天烈な風習のように思える。だが、この時代ではそれが常識だったのである。
「今宵はにぎやかな夜になりましょう。あなたがたも、女房たちに混じって語らわれるといい。私は方々が無事に三尸の逃亡を防がれますよう、ご祈念申し上げておきましょう」
「あ、ありがとうございます」
 ふっふと笑って、晴明は和雲の眼をちらりとのぞきこんだ。
「――そして和雲どのと祈子どののこれからの旅にも、ツキが宿りますよう」
 旅、と言った晴明の両目を、和雲は見返す。そして初めて気がついた。
 右は黄金こがね、左は白銀しろがね。オッドアイというのだろうか、彼の二つの眼球はそれぞれに違う色の輝きを放っている。その類い稀な瞳には、やはり通常では見えないなにかが見えているらしい。
 彼は当たり前のことのように呼んで語りかけてくるが、そもそも和雲も祈子も、一度も彼に名を名乗ったことなどないのだ。
 二色の光に呑み込まれそうな感覚を覚え始めた和雲に向け、晴明はまたふっと、柳眉をゆるめて笑った。
「ささ、ご友人が見えられましたぞ」
「友人?」
「晴明さま?」
 晴明が言ったのとほぼ同時。右手に置かれた几帳が揺れて割り開き、もうすっかり見慣れてしまった色白の慎ましやかな女房がひょっこと顔を出した。
 ここまでの連続した転移のなかで、いつも親しげに接してくれた女性――賢子である。
「あら、和雲。萩野も。まだこんなところにいたの?」
 実に、ごく当然のことのようにさらりと、賢子は二人に話を振ってきた。
「じきにお客さまがたが参られますわよ。そうしたら后の宮さまがお題を出されるから、和歌の詠み合わせをしようとの仰せです。お二人も、ご一緒に参りましょ。そちらの茵を奥に運ぶのを手伝ってくださる? 命婦みょうぶどのに頼まれていて……」
 ちょうど良かったわ、とぺろりと舌を出す。
 その、転移によるタイムラグを微塵も感じさせないあまりにも自然な物言い。和雲は困惑して、思わず御簾の向こうの晴明を振り返った。だが確かにそこに立っていたはずの晴明の姿が、忽然と消えてしまっている。
 狐につままれたような面持ちで祈子に目を向けると、彼女もまた戸惑いを隠せないようだった。ええと、と口もとに指を添えて考えるふうに口を開く。
「賢子さん……あの、いまこちらに晴明さまがいらしてて……」
「晴明さま?」
 言われて御簾の外を見やった賢子は、ああ、と苦笑した。
「やはりですか。私も、お声が聞こえたような気がしてこの局をのぞいてみたのですけれどね。いたのはお二人だけだったから、いかがなものかと思うておりましたの。ではあの方はもはや、こちらにはおいでではないようですね」
「いや、でもさっきまで確かにここに……」
「よくあることですよ」
 こだわりなく笑う賢子にそう説かれても、和雲はどうにも腑に落ちない。そして彼女の姿をあらためてまじまじと目に留め、もう一つの疑問を頭に浮かべた。
 それは時間の流れのことである。
 賢子の容貌は前回よりもさらにずっと大人びていて、もはや和雲よりも一回り近く年長に見えた。最初に彼女に出逢った時、彼女は現代で言うところの中学生ほどの華奢な少女だったはずである。そしてその際、ともに出逢ったのが、さきほどの晴明だった。
 つまりこの世界は、最初に彼らに出逢った世界から十五年ほどの時間が経ったところという計算になるはず。それなのに晴明の見目形みめかたちはその時と寸分も違っているところが見受けられなかったのだ。
「賢子さん……晴明さまって……いまいくつ?」
「晴明さま? さあ……おいくつなのかしら?」
 賢子は心底から不思議そうに首をひねった。
「なんかあの人、いつ見ても若々しいような気がするんだけど……?」
「ああ、そのこと。あの方はいつもそうなのですよ。初めて知る方は、みなさま驚かれますけれども」
「ええ……そういうのって、陰陽師にはよくあることなの? なにかの術とか?」
「いいえ。尋常のことではございませんね。ですが、あの方に限ってはもう通念といいますか……そもそもいまの晴明さまは何代目なのか、それすらもはっきりとはわかりませんし」
「んん? ちょっと待って、それってどういう……? あの人は晴明の何代目かの子孫ってこと?」
「いえ、晴明さま自身が代変だいがわりされているというか……たぶん、そのような感じだと」
「えっ? ほ、本人が、代変わりをしてるってこと?」
「おそらくは。でなければ、あんな不老長寿ではいられませんでしょう?」
 でしょう? と、こともなげに言われても、和雲に答えられるはずもない。
「ええと……ちなみに訊くけど、安部晴明っていつからここにいるの?」
陰陽寮おんようのつかさにですか? たしか……村上帝むらかみてい御代みよから御活躍されてるとうかがったことがありますけど」
「それって、何年前?」
「そうですわねぇ……ざっと算定して、八十年ほど前?」
 ――いや、それでいいのか、平安時代。
 もはやそれでは物ノ怪のようなものではないか!
 そういうとんでもない概念が平然とまかり通ってしまう、なんともゆるやかな世界である。和雲はあらためて、それを思い知った。
「でも」
 賢子が和雲と祈子をちらりちらりと交互に見比べた。
「二人もとても神出鬼没だし、いつまでも若々しいわよね。まるで晴明さまと同じみたい」
 言って、すっかり落ち着いた大人の女性に成長した彼女は、若い頃と変わらない慎ましやかな微笑みを見せたのだった。

 ◇

 庚申待ちの夜は長い。
 気温は寒くもなく暑くもなく、とても過ごしやすい季節柄。この藤壺と呼ばれる后の宮のサロン。飛香舎ひぎょうしゃという舎殿のそこかしこで、まったりとした時を過ごす人々が散見された。
 和歌の詠み合わせの会はほどなくして終了し、あとは奏楽を楽しんだり、碁を打ったりとそれぞれが比較的自由に行動しているようだ。なかでも双六は人々の間で人気が高いゲームらしい。賭け事としても男女ともに熱中して興じられ、現代でいう麻雀のような感じに思われた。
 御格子みこうしという跳ね上げ式の雨戸もいまだ締め切られておらず、開放的な庭先には釣りかがり火も明々と焚かれている。弓を携えた褐衣装束かちえしょうぞくの随身たちがそのまわりで護衛にあたっているが、これは雛人形でいうところの右大臣と左大臣みたいな格好だと、和雲は外の様子を眺めながらぼんやりと考えていた。
 ――むむ……?
 庭の片隅、かがり火の一つの様子がおかしい。他のものとくらべ、あきらかに不自然な揺らぎ方をしている。
 よくよく目を凝らすと、灯りのそば、煙の妖らしきものが「おろおろ~ん、おろろ~ん」と鳴いて(?)いた。ぎょっとするが、和雲にしか見えないのか、かがり火の近くにいる男たちも、賢子ら女房も気にもとめていない。祈子も気づいていないようだ。それどころか、
「平安時代の文化をライブで見られるなんて!」
と、感激しまくり。
 きゃあきゃあとはしゃぎながら、そこかしこにある書物や小道具などを見分していた祈子を和雲はじっと見つめた。
「平安時代……楽しい?」
「楽しいっ。もう感激しかないよ~」
「そっか……。じゃあ、もしかして帰れなくても、平気?」
 何気なくそっと訊ねてみると、祈子はことりと首を傾げて和雲を見た。
「……帰れなくてもって……どうして?」
 逆に祈子から問い返されて、和雲は素直に言葉に詰まった。
「いや、ええと……とくに、深い意味はないんだけど……」
 深い意味は、確かになかった。弾みで口をついて出ただけの言葉だったと思う。
 なぜそれを訊いてみたのか、和雲にもわからない。
 これはたいしたものではないな、と心の片隅にしまっておいたものが、ふとした弾みに転がりでたような、そんな感覚だった。
 ええと、と和雲はやや目を泳がせ気味に言葉を繋ぐ。
「……たとえば、祈子ちゃんが大好きな平安時代と、今まで普通に暮らしてきた現代の生活と、どっちが楽しいのかなって……思っ……て」
 他意もなく、語尾を濁しながら問いかけた。
 祈子は幾度か目を瞬かせて、それから反対の側にことりと首を傾ける。
「和雲ちゃんは?」
「……え?」
「和雲ちゃんは、現代の生活が恋しくないの?」
 虚をつかれて、和雲はまた押し黙った。かりかりと傷跡のかさぶたを爪の先で掻かれるような、心地の悪い気分がした。
「帰りたくないの?」
 和雲は、目を逸らした。今度こそなにも、答えることができなかった。
 帰りたくないのか――それは果たして、どうなのだろうか。
 こうしてきらきらとはしゃぐ祈子と二人で、ずっと仲良く平安魔鏡を旅していけるのだとしたら、あるいは――。
 もしかしたらそれは、これから近い将来、実の兄との結婚に臨む彼女を見守るべき現代での生活よりも、よほど快適な世界なのではないだろうか。
 ――たとえ二度と、男の姿に戻れなかったとしても。
 兄の存在すら、このままなかったことにして……。
 いつのまにか近くから、妖が「おろろ~ん」とのぞき込んでくる。気遣っているのかからかっているのか、いたずらに和雲の心をかき乱す。
 今まで日帰り感覚で行きつ帰りつを繰り返してきた魔鏡への転移だけれども、ここ何回か連続して世界を越えたことで、この時間が永遠に続くような錯覚を起こし始めていたのかもしれない。
 帰れなくても平気か? と、彼女に問いかけた自分こそが、もしかしたら現実の世界に帰ることを切望してはいなかったのではないか。
 その上で彼女が、帰りたくないと嘘でもいいから言ってくれることを、心のどこかで密かに願っていたのではないか――――。
 和雲はしばらく、悶々と考え込んでいた。
 ふと見ると、片端の御簾越しに恋の駆け引きをする男女の一団がある。御簾のこちら側にいる女房たちが、簾と簾の隙間から手を延べて、外にいる男たちがそれを握り返したりなどしながら愛の文言を囁きかけているらしかった。くすくすと忍び笑い合う愉しげな音声が扇子から漏れてこちらまにで届いてくる。
「――なんか……わりとざっくばらんとしてるね」
 いまは漢文の詩集のようなものに熱心に見入っていた祈子に、和雲は声をかけた。
「うん? ああ、うん、そうね。フリータイム~って感じよね」
「うん。それにみんな、あんなふうにおおっぴらに男女のやり取りしちゃうんだね。なんかこれってハロウィンっていうより合コンみたいなもんなのかも?」
「はろいん? ごうこん?」
 近くで別の女房仲間と談笑していた賢子が、和雲の呟きを拾ってこちらを振り向いた。
「……って、なんですの?」
「ああ、えっと……地元の方言みたいなもので」
 曖昧に言うと、扇子で口もとを隠してころころと賢子は笑う。
「和雲は、ときどき不思議な言葉遣いをするわよね。ご出身はどちらだったかしら。そういえば、聞いたことがなかった気がするわね」
「地元……は、最近あんまり帰ってないんですけど……」
 なおも曖昧な愛想笑いを浮かべて言葉を濁していると、助け船なのか祈子が賢子に向かって、「それよりも」と切りこんだ。
「賢子さんはどうなの? 最近は」
「私?」
「うん、ほらあの、例の彼とは……?」
 うまい言い回しだな、と和雲は思った。
 この言い方だと、賢子の今のお相手が和雲らの思い描いている人物でなくとも、スムーズに話が展開されることになるだろう。
 女という生き物はこういうことに非常に機転が利く、と脳内現役男子高校生の和雲は率直に感心した。
「……そうですわねぇ」
 しっとりと、扇子をもてあそびながら、賢子は物思いをするように言葉を紡いだ。
「端的に申し上げて……だめだめね」
「だ、だめだめ?」
「そ。なんだかもう、長い付き合いを経て、抜き差しならぬ感じにおちいってしまったというか……もう袋小路ですわね」
「袋小路……どうして、そういうふうに思われるの?」
 女の勘とかいう謎器官によってなのか。相手の男についての確信を得たらしい祈子が、さらに深く問いかける。
 そりゃあね、と賢子は苦笑を漏らした。
「小さい頃からずっと見てきたから、お互いなんでもわかってるような気になっちゃってるところが多分にあって。でもそれが、逆に良くなかったんじゃないかって、今になって思うことがあるの」
「賢子さん……」
「わかりすぎて、動けない。わかったつもりになって、話せない。まさに、袋小路としか言いようがありませんわ」
 黙って見守る和雲と祈子に、「そうだわ」と賢子は手を合わせて言った。
「昔話でもいたしましょうか。庚申かのえさるの夜は長いのですもの。枯れかけの恋の供養にはうってつけよね。今宵こそ、この気持ちを夜闇の底に埋めてしまってもいい」
 努めて明るく振る舞うような態度に、和雲はなにも言えないでいた。祈子はやさしい声音で、「聞かせてほしいな」と彼女に短く伝えた。
 賢子は郷愁の色を浮かべて、ふっと微笑んだ。扇子に描かれている梅の花を眺めながら、ゆっくりと口を開き始める。
「あの方……定頼さまとはね、小さな頃からずっと、幼馴染で。親同士がそれなりにお付き合いがあって、歳が近かった私たちはすぐに仲良くなりました。なにか、感じるものもあったのだと、思う。成長とともにそれは自然に男女の気持ちへと育っていって……彼が元服する時、お祝いに駆けつけた私に、家の庭に咲いている梅の花を手折って、「もっと大きく立派になったら、僕のお嫁さんになってください」って。いまでもあの時のお可愛らしいほっぺだけは、忘れられないのよね……」
 懐かしむように、愛しむように、賢子はくすりと笑った。
「――だけど、うんと小さな頃は自慢でしかなかったことが、成長のなかで日増しに影を投げかけてきて、それはある日突然、脅威と重圧に変じてしまう。そういう暗い部分も含めて、やはり私たちは、とてもよく似ていた――」
 定頼の父・藤原公任は諸事に優れた名門の貴公子で、歌人の誉れも高い。一方の賢子の母は、後世にも残る古典文学の傑作、源氏物語の作者・紫式部である。
「……彼も私も、親子関係は良かったのだけれど。でもそれが逆に、なおさらの重荷にもなった。愛情を含んだ期待はなおきつい呪縛になるもの――彼はもともと頭がよくて器用な方だから、最初は要領だけで逃げてばかりましたの。ふらふらと色事にかまけるのも、そんな雑念から逃れたくてのことだったと、思います。お相手の女性の方にお父上や家柄のお話を出されるや、いつのまにか疎遠になってしまいがちでしたから。ほんとうに、逃避のお気持ちがあったのでしょうね。……そんなふうだから、本腰をいれて和歌に取り組んだりすることもずっと避けていた。でもご存じでしょう? あの大堰川御幸での作を」
 賢子は顔を上げて、まるで我がことのように誇らしげに目を細める。
「あの秀歌を評価されて以来、彼は自信を備え始めた。和歌もたくさん世に送り出されましたし、もともとお声が素敵なことは有名でしたから、奏楽にもめきめきと才を発揮されて。なにごとにも、それこそお仕事にも精を出されて、このまま順調に出世を重ねていかれると、誰もが予感したものです。そうよね?」
 祈子がだまって、賢子に相づちを送った。
「私も、これを期にのびのびとご活躍くださればと、真に願っておりましたけれども――次に立ちはだかったのは、やはり家運でしょう。しょせんは血筋と家柄が評価される世ですもの。努力だけでは上がりきれない天井というものを、知ってしまわれたのです。彼は心根が素直で、お父上さまほど割りきってうまく世渡りしながら生きることもできなかった。そういう不器用な面も、ある方なのです。おまけに従者のものの不始末事があったり、摂政どのの勘気に触れて宮中出入りをしばし禁じられたり、まあそれはご自身の至らなさのせいではございますが、入道さまのご評価は存外に低く、納得できないなかで、常にもがき続けてこられたのだと思います」
 入道、とはかの有名な藤原道長のことであろう。であれば、摂政というのはその嫡子・頼通よりみちのことを指す。
 定頼は素直で奔放な気質が災いして、時の権力者からは好かれず、出世ルートに最後まで乗りきれなかったということのようだ。
 賢子はごく小さく、息をついた。
「……私とのことも、同じ。私の身分では、しょせん彼の正妻にはふさわしくない。隆盛期でないとはいえ彼は名門の出だから、高貴なお血筋でいくらでもご縁談がありえます。出世のためにはすこしでも良縁を望まれるのがお家の、ひいてはご本人のため。――だけど、彼はどちらも選ばなかった。腹をくくって私を選んでくれるわけでもなく、さっさと良縁を決めてしまってわきまえさせてくれるわけでもなく、変わらずにつかず離れず……」
「賢子さん」
 思わず名を口にした和雲をしなやかな瞳で見返して、「だからね」と賢子は続けた。
「だから、去年の暮れの頃に菊花に添えてお和歌をお送りしましたの」
「それは……どんな?」
「……『つらからむ 方こそあらめ 君ならで
 誰にか見せむ 白菊の花』
 ――名歌人・紀友則きのとものりの古歌からの本歌取りではございますが……あなたの態度はつれないけれども、それでもあなた以外の誰にお見せましょうか、知る人ぞ知るこの白菊の花を、と」
 白菊は萎れてなお、赤みを帯びて変化していくさまも愛でられる花。二人の仲も、萎れかけてもまた子どもの頃のように親密になるようにとの、彼女の願いが込められていたのだろう。
「――でも、だめだめでしたの」
 ぱちん、と扇子を閉じて、賢子はぽつりと言う。
「だめだめ、だった?」
 祈子がそっと問うと、賢子は大仰にお手上げのポーズをしてみせる。
「もうぜーんぜん。彼はのらりくらり、ふーらふらしたままで全く変化なし。……いい加減、私も疲れてきちゃって」
 年明けて二月頃から、しばらく無視を決め込んでやったのだという。時おり気まぐれに投げてくる向こうからのアプローチを、今度はこちらがのらくらと受け流し続けていたのだとか。
 すると春の足音が聞こえ始めた先日、定頼が珍しく真面目に文を寄越してきたのだという。ご丁寧に一振りの梅の花枝まで添えて。
 それには、
『こぬ人に よそへて見つる 梅の花
 ちりなむ後の なぐさめぞなき』
(漂ってくる花の香りに、いつまでたっても来てくれない貴女ひとをしのびながら、我が家の梅の木を眺めていました。花が散ってしまったら、あとはもうなんの慰めもなくなってしまいます)
「お前から来い! って感じでしょっ? 訪れも途絶えがちな男のくせに、気まぐれに女に甘えてきたりして! もうほんと頭にきたから、こう返してやりましたのっ」
『春ごとに 心をしむる 花の
がなほざりの 袖かふれつる』
(もう何年も、春が巡って来るたびにあなたの家に咲く梅の花を心待ちにしておりました。その枝に、今年は誰が袖を触れて、花の香りを移してしまったのでしょうね。私のような深い想いもなく、いい加減な気持ちで)
 それが、つい昨日のことらしい。
 なるほど、どうにも抜き差しならぬところまで来ているようだ。色恋沙汰には疎いほうの和雲にも、はっきりと理解することができた。
 晴明の言ったとおり、今夜はにぎやかな夜だった。
 奏でられる音楽や愉しげな話し声。鬼虫たちの脱出を阻んで、夜通しこうこうと焚かれ続けるかがり火の炎。
 こうして夜中に起きていると、不思議なほどに人々の胸はざわめいて気持ちが昂ってくる。高揚はコミュニティのなかでさらに増幅され、その行事は祈りというより、もはや祭りのような様相となっていた。
 ざわめきの中で昔話を口ずさみ、ぽつぽつと話を続けていた賢子の声が、ふと止んだ。
 視線の先、恋歌を送りあっているのだろうかまったりとした人の群れの片隅。人知れずそっと寄り添い合う、男女一対の姿がある。几帳を挟んで背中合わせに座し、何事かを囁きあっているのだろう二人は、そこだけが別の空気に包まれているような穏やかな笑みをたたえていた。
「――できちゃったんだ、私」
 唐突にこぼされた言葉の意味を拾いきれずに、和雲はきょとんと目を見開いて賢子の顔をのぞきこんだ。
「……え?」
 だから、と賢子は再び扇子を両手で開いて、匂いたつような梅花の絵に目を落とす。
「ややこを、授かったの」
「えっ、それって、赤ちゃ……」
「賢子さん」
 和雲が漏らしたつぶやきをさえぎるようにして、祈子が手を伸ばして賢子の袖に触れた。
「ややこの、お父上は……」
「さあ。彼か……もう一人、少し前から通ってこられる方がいて」
 内緒にしてたんだけどね、と賢子は薄く笑った。
「確率は、半々てところかな」
「賢子さん……」
「ずっとほったらかしにされてるうちにね、こちらにはこちらでちょっといろいろありましたの」
 急な話の展開に追いつけず、和雲はひたすら目を泳がせていた。祈子はじっと、黙って賢子の目を見つめたまま。
「結婚いたしますわ、私」
 控えめな音声ながら、決然とした言葉。和雲はいよいよ目を丸くして、彼女の顔をまじまじと見つめた。
「正直、どちらの子だと言い張っても通ると思うのですけれど……でも」
 ぐっと、開いた扇子を掴んだ賢子の十指の先に力が込められた。
「いままで、おろそかにされてばかりだった私には、きちんと真正面から、誠意をもって結婚を申し込んでくださった殿方のお言葉は、正直、心に効いたわ」
 賢子の顔にはいまだ笑みが浮かんでいたのだが、和雲にはなぜか、彼女が泣いているような錯覚を覚えた。祈子もためらいがちに、静かに問う。
「でも……いいの? 賢子さん」
「――ほんとはちょっと、まだ悩んでます。でも……二年前、小式部どのが亡くなったときに、痛感したのです。若くしてまだ幼い子を残し、逝ってしまった彼女を見て、ああ私も、いつまでも若いままでは――変わらないままではいられないんだなぁって」
「え、小式部さんが……」
 この時代は現代よりは医療技能も未発達で、人々は病に脆く、今よりもよほど短命だったことだろう。
 刻々と老いていく自分と、若くして亡くなった友人。煮えきらない男と、そこに手を差し伸べてくれた新たな人。 
「まあ新しい彼もね、決して悪くない条件ですし? それとは別に、夏には親王さまの皇子さまがご誕生なさるにあたって、乳母をお探しとの情報があるから、子を産んだ後、それに推挙してもらうのもありかなぁって思ってるし? 新規一転、というところかしら」
 気丈な瞳で賢子は語り、梅花の扇子をつかってひたひたと風をおこす。
「だから今宵は、古びてカビのはえかけた恋の弔いをお二人に聞いてもらえて、ちょうどよい機会だったのかもしれないわ」
 祈子が考え込むようにして顔をうつむけて、和雲はいよいよ話の継ぎ目を見失ってしまった。
 また「おろろーんおろろーん」と妖の声。なんだか泣き声のようだなぁと、和雲は思う。
「越後弁さま」
 背後にかかっていた簾の向こう側に、文を携えた童がちんまりと立って控えている。
「だんなさまが、これを貴女にと」
 見知った相手なのだろう、賢子はわずかにためらった後、童を親しみを込めた声音で労って、差し出された文を手ずから受けとった。少年が見つめる前で、かさりと音をたてて手紙を開く。なかの文面に目を通すや、眼尻をゆがめて小さく微笑った。
「……おぼつかなく、かぁ」
 独り言ちた彼女の声が悲痛な響きをともなっていた気がして、和雲はその顔をのぞきこむ。だが意外にも、その表情にはあたたかな幸福みたいな影が射しているようにも感じられた。
 おぼつかなく――つまり、あなたのお心がわからず不安です、と彼は言い募ってきたらしい。
 和雲と祈子が見守るなか、賢子は梅花の扇子にさらさらと手早く文字を書き付けて、菓子とともに童に差し出した。
「もう一度、お遣いをお願い。菓子はあなたへのお駄賃よ。おたくの気まぐれなだんなさまに、この扇子を――」
 賢子が、そこに記して曰く、

有馬山ありまやま いなの笹原ささはら 風吹けば
 いでそよ人を 忘れやはする』
(有馬山、それから猪名野いなのの笹原に風が吹き下ろせば、心だってそよがずにはいられますまいに。さあそれですね。音沙汰があれば、気持ちもなびいて揺れるもの。そうであったなら、あなたのことを忘れたりなど、するものですか)

 忘れていたのはどっちなのかしら、との思いを、痛烈に込めた和歌である。皮肉がきいていながら、それでいて、彼女の彼に対する深い情愛のすべてが込められているかのような。
「吹く風ぞ、思えばつらき……」
 そうこぼして、賢子は静かに目を伏せた。その穏やかなたたたずまいを目に焼きつけながら、和雲と祈子は音もなく始まった転移の渦に、巻き込まれていったのだった。




#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門

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