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歌謡曲で紡ぐ恋物語

名前のない約束

三十二年ぶりに彼女を見つけたのは、駅だった。

人違いかもしれないと思った。

髪は短くなっていたし、眼鏡もかけていた。それでも、改札の前で誰かを待つときに左足の踵を少し浮かせる癖だけは、十七歳のころと何も変わっていなかった。

声をかけるか迷った。

会いたいと思ったことなら、これまで何度もある。

けれど、実際に会ってしまうことまでは考えていなかった。

彼女が振り向いた。

目が合った。

「あ……」

それだけで、僕にも分かった。

彼女も僕だと気づいた。

「久しぶり」

三十二年を四文字で片づけるには、少し無理がある。

それでも僕たちは笑った。

「元気?」

「まあね」

「変わったね」

「そっちも」

たぶん、どちらも嘘だった。

変わったところを探すより、変わっていないところばかり見ていた。


初恋だった。

そう認めたのは、ずっと後になってからだ。

高校二年の春、席替えで隣になった。

彼女は授業中によく窓の外を見ていた。

ノートはきれいなのに字は小さく、笑うときだけ声が大きかった。

最初に話した内容は覚えていない。

ただ、君がいるだけで学校へ行く理由が一つ増えたことは覚えている。

僕たちは放課後、よく一緒に帰った。

付き合ってはいない。

手もつながない。

好きとも言わない。

だから誰かに関係を聞かれると困った。

恋人よ、と呼べるほど近くはない。

友達と言ってしまうには、少しだけ胸が痛い。

そんな距離だった。

卒業写真を撮った日、彼女が突然言った。

「私、東京に行くかもしれない」

「大学?」

「うん」

「そっか」

本当は言いたかった。

行かないでほしい。

あるいは、

僕も行く。

けれど十八歳の僕には、どちらも言えないよ、だった。

「頑張れよ」

結局、そんな言葉しか出なかった。

彼女は少し寂しそうに笑った。

「うん」

僕はその表情の意味を、三十二年後まで考えることになる。


彼女が東京へ行ってから、しばらく手紙のやり取りをした。

今なら数秒で届くような話を、僕たちは三日も四日もかけて交換していた。

大学のこと。

アルバイトのこと。

東京の電車は怖いということ。

知らない街を一人で歩いていると、自分が異邦人になったような気がするということ。

僕は毎回、返事を書いた。

待つわ、なんて口にはしなかったけれど、郵便受けを確認する回数だけは明らかに増えた。

夏休みに彼女が帰ってきた。

二人で海へ行った。

夕方まで話した。

帰り道、彼女が言った。

「東京、一回来れば?」

「そのうちな」

「そのうちって、いつ?」

「そのうち」

彼女は何も言わなかった。

その沈黙が、僕には少し怖かった。

それでも僕は、自分たちにはまだ時間があると思っていた。

若いころの未来予想図は、いつだって都合よくできている。


二年目から、手紙が減った。

彼女が悪かったわけではない。

僕も書かなくなった。

アルバイトが忙しい。

試験がある。

友達と遊ぶ。

今日は疲れた。

理由ならいくらでもあった。

大切なものほど、後回しにしてもなくならないような気がしていた。

ある土曜日。

久しぶりに彼女から電話がきた。

「今、何してる?」

「別に」

「そっか」

妙な沈黙があった。

「ねえ」

「ん?」

「私たちって、何なんだろうね」

答えられなかった。

付き合っていないのだから、別れることもできない。

約束していないのだから、破ることもできない。

僕はその曖昧さに甘えていた。

彼女は少し笑って、

「じゃあ、元気でね」

と言った。

電話は切れた。

あれが僕たちのさよならだったのだと気づいたのは、ずっと後だった。


社会人になって東京へ出た。

あれほど行かなかった東京に、仕事なら簡単に行ける自分がおかしかった。

彼女の住所は知っていた。

電話番号も残っていた。

それでも連絡はしなかった。

いや、できなかった。

何度か受話器を取った。

途中まで番号を押した。

最後の一つを押せなかった。

プライドだったのかもしれない。

怖かっただけかもしれない。

あなたに会えてよかったと笑ってもらえる未来より、

「誰?」

と言われる未来のほうを想像した。

だから、やめた。

僕にも恋人ができた。

結婚もした。

子供もできた。

普通の人生だった。

幸せだったと思う。

少なくとも、不幸ではなかった。

だから彼女を思い出す夜があることを、誰にも言わなかった。

思い出すことと、戻りたいことは違う。

そう自分に言い聞かせた。


妻と離婚したのは五年前だった。

大きな事件があったわけではない。

長い結婚生活の中で少しずつ会話が減り、気づいたときには、二人でいるより一人でいるほうが自然になっていた。

最後の日、妻が言った。

「あなた、昔からそうだったのかもね」

「何が?」

「本当に大事なことを言わない」

胸に刺さった。

三十二年前と同じことを、僕はまだやっていた。

離婚してしばらく、家では音楽ばかり聴いていた。

ある夜、オリビアを聴きながら、ふと高校時代の彼女を思い出した。

なぜ、その夜だったのかは分からない。

ただ突然、あのころ彼女が僕にくれたものを全部覚えていることに気づいた。

修学旅行のお土産。

誕生日の鉛筆。

風邪をひいた日に持ってきたノート。

東京から届いた、少し派手な木綿のハンカチーフ。

……そこまで思い出して、僕は一人で笑った。

どうして三十年も忘れていたんだろう。

いや。

忘れていたのではない。

思い出さないようにしていただけだった。


「時間ある?」

駅で再会した彼女が言った。

僕たちは近くの喫茶店に入った。

「結婚は?」

彼女が聞いた。

「した。離婚した」

「あら」

「そっちは?」

「したよ」

一瞬、胸の奥が沈んだ。

我ながら勝手なものだと思う。

「旦那さんは?」

彼女はコーヒーを見ながら言った。

「三年前に亡くなった」

言葉が出なかった。

「病気」

「……そうか」

「いい人だったよ」

彼女はそう言って笑った。

その顔を見たとき、不思議なことに嫉妬はしなかった。

彼女には、僕の知らない三十二年間がある。

愛した人がいて、

愛された時間があって、

僕の知らない暮らしがあった。

それを消して十七歳の彼女だけを取り戻したいとは思わなかった。

「幸せだった?」

僕が聞いた。

「うん」

迷わず答えた。

その一言に、なぜか救われた。


しばらく昔話をした。

先生の名前。

文化祭。

修学旅行。

友達。

くだらない出来事ほど、よく覚えていた。

そして彼女が言った。

「あのころ、私、あなたのこと好きだったんだよ」

コーヒーカップを落としそうになった。

「……知ってた」

「嘘」

「ちょっとは」

「絶対知らなかった」

笑われた。

悔しいけれど、その通りだった。

「じゃあ、なんで何も言わなかったの?」

答えを探した。

三十二年かけて考えた答えなのに、うまく言葉にならない。

「また会えると思ってたんだよ」

彼女は黙った。

「ずっと?」

「いや。当時は」

「そっか」

窓の外で雨が降り始めた。

最後の雨になるのか、ただの通り雨なのか、そんなことは誰にも分からない。

人生はいつも、後から名前がつく。

あれが初恋だった。

あれが別れだった。

あれが幸せだった。

あれが最後だった。

全部、過ぎてから分かる。


店を出るころには、雨は弱くなっていた。

「傘ある?」

「ない」

「相変わらずだな」

「昔から忘れるんだよね」

僕は傘を開いた。

二人で駅まで歩いた。

肩が少し触れた。

十七歳のころなら、それだけで一晩眠れなかっただろう。

今はただ、暖かかった。

駅に着く。

彼女の電車が先だった。

「じゃあ」

「うん」

「今日はありがとう」

「こちらこそ」

彼女が改札へ向かう。

まただ。

僕は思った。

また何も言わずに帰すのか。

三十二年前と同じように。

妻に言われた言葉が蘇る。

本当に大事なことを言わない。

「なあ」

彼女が振り返った。

僕は一瞬迷った。

それから言った。

「今度、飯でも行かない?」

彼女は目を細めた。

「それだけ?」

「え?」

「三十二年待って、それだけ?」

笑っている。

僕も笑った。

「じゃあ……また会いたい」

彼女は少しだけ黙った。

そして、

「私も」

と言った。


電車が出たあと、僕は一人でホームに残った。

若いころなら、これを運命と呼んだかもしれない。

今は違う。

運命なんて大げさなものじゃない。

僕たちは一度すれ違った。

それぞれ別の人を愛した。

失ったものもある。

間違ったこともある。

それでも今日、偶然同じ駅にいた。

それだけだ。

ただ、

人の人生には時々、

もう恋なんてしないと思ったあとにも、

世界中の誰よりきっと大切だった人と、

もう一度恋におちてしまうような日があるのかもしれない。

その先がハッピーエンドなのかは、まだ分からない。

恋はいつでも途中にいるときには結末が見えない。

だから僕は、未来予想図を描くのをやめた。

今度はただ、

君がいるだけで変わる一日を、

一日ずつ大切にしてみようと思う。

三十二年前には言えなかった言葉も、

今ならきっと言える。

会いたい。

また明日。

そしていつか、

愛が生まれた日を振り返るように、

今日のことを思い出せたらいい。


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