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冷笑系がインテリジェンスの王道だった時代の終わり

他人の情熱や善意、真剣な主張を一歩引いた視点から相対化し、冷ややかな態度や皮肉で嘲笑う人々を冷笑系と言うらしい。

この新たなレッテルは主に否定的な意味で使われていて、「なんだ冷笑系かよ」というように批判したり対話を打ち切るために使われることが多い。

私はこういうレッテル貼り自体は嫌いであるが、この冷笑系という概念自体は歓迎したい。

思い返せば日本のインテリ層がこの冷笑系に支配されたのは全共闘・安保闘争や赤軍による革命等、若者の失敗体験が連続してしまったからではなかったか。

戦後も終わり「復興より経済成長」が意識されていた当時、その反動から多くの若者が共産主義にかぶれ、情熱をもって革命に挑んだ。
その行き着いた先は無軌道な暴走と壮絶な自滅であったことは歴史的事実であるが、それが残したのは「どっちらけ」という物事に対して斜に構える文化だった。

革命に失敗をした若者自身、それを見ていた下の世代、全てが若者らしいストレートな情熱や正義感を肯定することを馬鹿らしいと感じるようになり、シラけきってしまったのだ。

そして唯々諾々と資本主義の論理に飲み込まれエコノミックアニマルとなっていく・・・という時代の流れになったのだが、そんな状況で若者が自分自身を肯定するには、自分も含めた社会全体を冷笑するしかなかったのだろう。

「世の中を変えようと熱心になるのはバカのやること、どうせ結果は破滅が待っている」
「かと言って既存の社会のパーツになって無個性に働かされるのも気に入らない」
「でもそれに飲み込まれざるを得ない俺自身も下らない人間だ。全てが無価値だ」

この様な空気感で多くの若者、特に知識層が冷笑的になっていった。

これは一種の自己防衛反応だと言える。
全てを冷笑することで「情熱という分かりやすさを疑う賢さ」や「達観した大人の態度」を示し、「冷笑している自分は、失敗しない側にいる」という優位性を保持したかったのだろう。

この風潮は1982年生まれの私が若者だった時代にもまだあった。

私がまだ学生だった頃、私はちょっとした学生運動に参加していて、
「もっと政治に興味を持とう。若者が社会を変えよう。選挙に行こう」
と声を大にして同世代に叫んでいたが、返ってきたのは冷笑だった。

「俺等が何かしたって世の中変わらないよ」
「政治的なことに興味があるとか、危ない人なの?」
「それよりこの就職難をどう乗り越えるか考えたら?社会を変える前に底辺になるよ」

大体この様な反応が返ってきたものだが、正直私自身それを無理からぬことだと思っていた。

それは、若者が情熱を持っても社会は変わらないし、ろくなことにならないという「常識」を共有していたからだと思う。

この常識は世の中にとある風潮を作り出していた。

それはサブカルチャーのメインカルチャー化だ。

つまり、若者がストレートに情熱をぶつけるようなメインカルチャーは廃れ、世の中に対して一歩引いた立場から王道を冷笑する様なカウンターカルチャーが盛んになったのだ。

60年代から70年代にかけての赤軍の失敗のあと、この冷笑系はニューアカやポストモダン思想とも結びつきながら、「情熱より相対化」という価値観を広く知識層で共有していった。

そのサブカルチャーが文化面では唯一ダサくない知的活動であり、やがて本来の王道を淘汰したのだ。
そういう文化的なねじれが日本社会には長らく存在した。

では何故今になってその冷笑系が批判されてきたのか。

それは「終わらない日常」の終焉が認知されたからであろう。

冷笑系の立場を大きく支えていたのがこの「終わらない日常」という概念だった。

これは社会学者の宮台真司が提唱したもので、その意味は簡単に言えば
「俺達が何しても世の中は変わらない。この手応えのない世界でアンニュイな気分のまま俺達は生き続けなければならない」
といったものだが、この概念が提唱された90年代、我々は本気でこれに共感して、この退屈な世の中をどう生きるかを真剣に考えていた。

ところが、である。
ここ20年で社会は大きく変化した。

テロとの戦い、大災害、コロナウイルスの蔓延、国連常任理事国による現状変更、そして日本の相対的かつ絶対的な国力の衰退・・・

時の流れはどれも我々に「終わらない日常」などなかったと思い知らせてくれた。

この「世の中は変わる」という新しい常識が、冷笑系の立場をメインカルチャーから引きずりおろしたのではないだろうか?

これにより、「どうせ何も変わらない」と斜に構えることはすっかり知的な反応ではなくなってしまった。

今まで「他人とは違う自分」を演出してくれた冷笑系という文化は、今まさにその役目を終えようとしている。

今まで散々この冷笑系にうんざりさせられてきた私としては少し嬉しいというのが本音である。

まぁ、これはそうならざるを得ないほど世の中が悪くなっているということの証左なのかも知れないのだが。