「自分」という語とは何か
漢語には「自分」を表現する語に、吾、我、己、主、私、僕、朕、余、某、自己、自分、小生、それぞれ文脈により用いられます。
これらの内、仏典や禅の語録に登場する「自分」を表す語については、漢語の伝統を受け継いだ言葉が使われており、特に「吾」「我」「己」「主」「私」「身」「自己」などが頻出します。一方で、世俗的な一人称(例:「在下」「小生」「僕」「寡人」「朕」「余」など)、および「自分」は、仏典や禅の語録ではほとんど用いられません。
1. 仏教における「自分」という概念と関連する語の違い
仏教における「自分」を表現する漢語は以下のような違いが見られます。
吾(ご/われ)
「吾」は「我」とほぼ同義ですが、やや文語的な表現で、特に漢文や古典的な用法で使われます。「吾身(ごしん)」という言葉は、自己の身体を指すことがあり、仏教では「この身も無常である」という教えの文脈で用いられることがあります。我(が/われ)
仏教では「我」はしばしば実体的な自己を指し、特に「我執(がしゅう)」のように、自己を固定的なものと捉える誤った見解の対象として登場します。「無我(むが)」という概念は、この「我」の否定です。しかし、「我(われ)」という言葉は日常語では単なる一人称代名詞としても使われます。己(こ/おのれ)
「己」は、「自分自身」の意味が強く、比較的中立的な言葉です。道教や儒教では「己を修める(修己)」などの用法があり、仏教でも自己修養の文脈で見られます。「己」と「我」の違いは、仏教的な文脈では「我」は実体的な自己を示すことがあるのに対し、「己」は単なる自己の指示詞として機能することが多い点です。主(しゅ)
「主」は、主体や支配する者を指すことが多く、仏教では「主(あるじ)」として自己を所有し支配する存在があるかのような錯覚を指す場合があります。例えば、「主我(しゅが)」という言葉は、「自己を実体的なものとする誤った考え」を意味することがあります。私(し/わたくし)
「私」は、近代日本語では「公」に対する「個人的なもの」の意味で使われますが、仏教的な文脈では「私欲」「私心」などの形で、自己中心的な執着を指すことが多いです。仏教的な理想としての「無私」は、エゴを捨てた状態を指します。身(しん/身)
「身」は、基本的には「肉体」を指しますが、それにとどまらず、精神的な側面や仏の境地を表す概念としても用いられます。また修行者としての身(立場)という場合にも用いられます。
このように、仏教における「自分」の概念を考えるとき、それが「実体的な自己(我)」なのか、「単なる自己指示詞(吾・己)」なのか、「主観的な主体(主)」なのか、「私心を含むもの(私)」「肉体的な身」なのかといった観点から言葉を区別することができます。
2. 「自分」という漢語の語源
「自分」という言葉は、漢語からの借用ですが、その語源をたどるととても興味深い変遷があります。
漢語における「自分」
漢語としての「自分」は、もともと「自然と」「自ずから」の意味を持つことが多く、「自分」とは「自己の本性」や「自然にそうなるもの」といった意味で使われることがありました。たとえば、「自分而然(自然とそうなる)」のような表現があります。「自分(zìfēn)」は、現代中国語ではあまり使われず、日本語でいう「自分」は「自己(zìjǐ)」が一般的です。日本語における「自分」
日本語において、古い文献にも出てくるようなのですが、いわゆる「自分」は、江戸時代以降に一人称代名詞としての用法が一般化しました。特に武士階級で「自分は~」という言い方が使われるようになり、それが広がったと考えられます。もともと「自分」は「自己の分(=身の程)」という意味合いを持ち、それが転じて「自ら」を指すようになったと考えられます。
このように、「自分」という語は、もともと「自己の本性」や「自然な状態」を意味していたものが、日本語では「自己指示の代名詞」として発展したという背景があります。さらに「自分」と言う日本語は、日常的な自己指示詞として使われますが、他者との関係性や「自己=自分自身の範囲(身の程)」を意識する要素も含まれる場合があります。
一方、「自己」 は、より哲学的な概念であり、心理学や仏教においては「自我」や「個人の本質」を指すことが多いのです。
3.「自分とは何か」ということは?
次に仏教的な視点から「自分」と「自己」を考えてみますと、「自己」の視点は明確で、それは「ātman」と言う抽象的な「自己の概念」として扱われています。そして仏教では無我説の立場からの「自己」の固定的な存在性を否定しています。
「自己」の語は、自+己と書きます。己はおさめると言う原意ですから、自+おさめるということです。
「自己」は、より直接的に「自らのこと」を意味し、より本質的な自己意識を示す言葉として使われました。「自己」は「自分そのもの、自分自身」に焦点を当て、関係性の中にある「自」よりも、それ自体、個としての「自」を意味すると言えます。
ですから哲学的、思想的に「自分とは何か」と問うたとき、それは「自己とは何か」という問いになるのでしょう。そしてその内容は「自己とは我なのか、自己とは己なのか、自己とは主なのか、自己とは私なのか、あゆいは自己とは吾なのか?」と問いとなります。
そして仏教では、「自己とは何か」と考察していき、「自己とは我では無い」というひとつの理解につながっていくのです。この理解を無我と呼んだのです。
一方、「自分」に対応する仏教用語は確立されておりません。
しかし私はこの「自分」という語に、縁起の立場からの「自己のあり方」を示唆しているのではないと考えます。
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