浅草物語・Ⅲー⑧
ヴェルレーヌの雨
龍之介は、秋甫に、
「玉喜さんに、黒いフードをかぶった人物が、ぶつかったおばあさんの似顔絵を描いてもらおう」
と言った。
その似顔絵の老婦人をみつけだして、事件当時のことを訊くのである。犯人逮捕につながる証言が得られないかもしれないが、それは、やってみないとわからない。
秋甫が、カフェ月殿亭にもどって、渡会玉喜刑事に連絡すると、玉喜は、浅草分室から、駆け付けた。
龍之介は、前回、津雲恵子の似顔絵を作ったときと同様に、老婦人の顔を、玉喜に伝えた。
玉喜は、龍之介から送られた記憶を、スケッチブックの上に、自動的に描き出す。
会話は、ない。
玉喜は、無意識に、ペンを走らせているのだが、その様子をみて、秋甫は、言葉を失った。玉喜は、老婦人の顔を描き出して、それを龍之介にみせた。
「このおばあさんだよ」
と、龍之介が言った。
秋甫は、その似顔絵をみた。
まるで、写真撮影したかのような、似顔絵だった。それを描いた玉喜の才能に、秋甫は、ほとんど驚愕した。
それから、毎日、午後9時から10時まで、秋甫は、地下鉄A駅構内へ通じる階段の入口で、老婦人を待ち続けた。手元にある、玉喜の描いた老婦人の似顔絵だけが、たよりである。
殺人事件のあった時刻に、その老婦人が、ひょっとして、階段を走り下ってくる犯人―名取美嘉を、覚えているかもしれないという、一縷ののぞみに賭けたのである。
地下鉄駅構内へ通じる、せまい階段の途中にいては、乗降客の邪魔になる。そのため、秋甫は、構内への入口で、老婦人を待った。
階段の途中なら、寒風をいくらかでも防ぐことができるが、夜間、出入口では、かなり寒い。
秋甫は、一日中、捜査のために、靴の底を減らし、夜は、事件発生の時刻に、おそらく唯一の手がかりかもしれない、目撃者の老婦人を発見するため、寒風に耐える。
その秋甫を支えているのは、高校時代に、書道を通じて交流のあった、富岡伸二を殺害した犯人への、怒りであろう。
秋甫は、富岡に調査を依頼したのは、名取美嘉―ピアニストのMIKAであると確信している。ユニット6では、その方針で、全員が、MIKAを24時間の監視下においた。
しかし、MIKAは、何事もなかったかのように、4月に開催されるピアノリサイタルの準備に余念がない。
世界的に有名なピアニストを、逮捕するには、もはや物的証拠を、確保するほかはなかった。
と、午後9時30分をすぎたころ、似顔絵の老婦人が、階段を上がって来た。
「おばあさん」
秋甫は、老婦人を、階段の途中で、呼び止めた。せまい通路は、まだ地下鉄を利用する乗降客が少なくない。
秋甫は、迷惑そうな顔をして、階段を昇降する人々に、警察バッジを見せて、捜査への協力を要請する。

「1月10日の夜なんです」
と、秋甫が、老婦人に言った。
「1月10日? 何曜日?」
秋甫の質問にも、いやな顔をせず、老婦人が聞いた。
「金曜日です」
「金曜日なら、この時間に、いつも、この3番出口を通って、自宅に帰るわ。施設にいる姉の見舞いに、毎週金曜日、ここを通るのよ。だから、1月10日が金曜日なら、ここを通っているわ。この時間にね」
「そのとき、この階段で、黒いフード付きのパーカを着た女性と、すれ違いませんでしたか?」
「女性と? さあね」
老婦人は、しばらく考えてから、
「ああ、そういえば」
と、老婦人がうなずく。
「でも、上からじゃなくて、下から男の人が駆け上がってきて、ぶつかりかけたことがあったわ。でも男の人よ」
「上から、階段を走っておりてきた人がいるはずなんです」
と、秋甫が言った。
老婦人は、記憶をたどるように、
「男の人とぶつかりそうになったんで、あたし、壁側に避けたの。そうそう、思い出したわ。避けたところへ、女の人が、上から降りてきて、またぶつかりそうになった」
「女性でしたか?」
秋甫が、聞いた。
「ほんの一瞬だからね。フードをかぶっていたし、そのうえサングラスをかけて、マスクをしていたから、顔はわからない。でも小柄で、体が柔らかかったから、たぶん」
「女性だと?」
「普通の洋服姿じゃなくて、スポーツをするような服装だったわね。足取りが軽かったし、細身の体形だったから、若い女性じゃなかったかしら? たぶんだけどね。でも、香水が少し、きついと思ったわ。それが、女性のつける香水じゃなくて、若い男性用の整髪料みたいな香りだったの。孫が付けているような。でも近頃は男の人が女性用の香水をつけたり、女性が男性用の香水をつけたりするから」
「ほかに、なにか、気づいたことは」
ありませんかと、逸る気持ちを抑えながら、秋甫が聞いた。
「そのときにね、その女性とぶつかりかけたときに、その人が、補聴器を落としたの」
「補聴器?」
龍之介が透視したのは、イヤリングでも指輪でもなかった。
「とても小さくて、耳の穴に隠れるくらいの大きさでね。値段の高いやつ。それが、私の買い物かごに入っていたのよ。家に帰ってから、それを見つけたんだけどね。たぶんその人の、でも若い感じの人だったから、補聴器をつけてるかなと思いながら、翌日に駅の落し物係に届けたわ」

MIKA-名取美嘉は、ピアノリサイタルが行われる、東京お台場アリーナで、リハーサル中だった。チケットは、発売直後に完売するほどの人気である。
長袖のTシャツに、ジーンズというラフな身なりの彼女を見て、
「美人だね」
と、埜瀬主任刑事が言った。
後宮秋甫刑事は、警察バッジをスタッフにみせて、
「富岡伸二さんのことで、MIKAさんと、お話ししたいのですが、そう伝えてもらえば、わかりますから」
と、言った。
アリーナの中央に作られた大きな舞台の上で、MIKAが、<flower seed>作曲のピアノ曲を、弾いていた。
スタッフたちは、別室へ移動し、舞台の上には、埜瀬刑事、後宮秋甫刑事、そしてピアニストのMIKAがいる。
MIKAは、いくぶん緊張した面持ちで、埜瀬に、
「富岡さん? そういう方は知りません」
と、答えた。
「名取さん」
と、埜瀬は言った。
MIKAさんとは、言わなかった。
「奥多摩で発見された津雲恵子さんは、妹さんでしたね」
復顔により、奥多摩で発見された遺体が、津雲恵子だと判明して、被害者の遺体を引き取ったのが、実姉の名取美嘉だった。
「ええ、わたしたちが幼いころに、両親が離婚して、わたしは父方に、妹は母方に引き取られたんですが、それ以来、ずっと妹とは会っていないので、妹の恵子が、どんな生活をしていのか、わかりません」
「これを」
と言って、埜瀬が、画家の木村時雄宅でみつけた、ポラロイド写真をみせた。
「写真の左端に写っているのは、妹さんですね?」
「似ていると思いますが」
と、MIKAは、あいまいな答えをした。
「妹さんと一緒に写っている、4人の男性を、ご存知ですか?」
「いいえ」
と、MIKAは即答した。
「妹さんは、この写真に写っているお屋敷で、この4人と行動をともにしていました」
「……」
MIKAは、無表情だった。
「実は、この4人の男性ともう1人、計5人の男性が、今年の1月に、事故で亡くなっているんです」
「恵子の事件と、関係が?」
「妹さんが亡くなったのは、昨年の11月ころです。犯人は、この5人組だと、捜査本部は考えています。それから1月ころに、富岡伸二という探偵が、ある人物から、妹さんと一緒に写っている5人の男性たちの身辺調査を頼まれているんです」
と、埜瀬が言った。
「捜査本部では、富岡さんに調査を依頼したのは、津雲恵子さんの関係者ではないかと考えています」
「それが私だと?」
MIKAは、冷静だった。

つづく
※見出し画像は<南かのん>さんからお借りました。
