輪廻転生、因縁について(後編その6)~因縁は実際にはかなり複雑であるということ~
「輪廻転生と因縁」について、真意を記しています。
今回は“後編その6”で、これまで「輪廻転生における因縁の基本原理」について整理したことのうえで、「実際の複雑な実情、事例」を記すものです。
これまでの記事を先にご覧のうえ、お読みになることを推奨します。
おさらい(以下に全てまとめています)
実際の複雑な事情(事例学習)
1.はじめに
これまで、輪廻転生における因縁について「土台となる理解」を説明した。
そこで現実は「これが複雑に絡み合って、複雑に実現しているもの」ということである。
その結果、「単純にわかりやすいもの」もあれば、「複雑で一見分かり難いもの」もある。
問題なのは“後者”であり、後者を勘違いするから、人々が「善因楽果・悪因苦果」を事実として受け止められなくなって、<道徳心の根源となるべきものが機能しなくなってしまっていたり>、或いは<その単純な理解から生まれた不適切な理解が人を傷つけたりするようなこと(例:障がい者は罪業が深い、健常者はそうではない等)が起こったり>しているのである。
これこそ「大切な事実を人心から妨げる最大の原因」であり、最も訂正するべきことである。
そこでこうしたケースを、いくらか列挙し説明するものである。
前提として理解しておくべき点
ここで基本的に、全体的に言えることは、
・概ね「霊的階層と現実とは根底は一致、表層では必ずしも一致しない」
・「一生は輪廻転生という長い生命のなかで何度も繰り返すものであって、一回の一生ではない」ということである。
これを忘れること/認識していないことによって、色んな不適切な理解が生じるケースがほとんどである。
反対にいえば、この点をよく押さえておけば、そのような不適切な理解をしないで済むようになりやすいので、これを常に意識しておいてもらいたいのである。
2.複雑な事例(一覧)を見ていく
(1)基礎:「良い内容のもの=功徳による/高い階層と対応する」は本質的には事実としてあるが、その一方で「仮の一回の転生においてはむしろこれに反することも多い」。
まず、典型的に複雑化していて誤解されやすい事例を挙げる。
それは「人生・能力などが良い内容のものであること≠高い階層(功徳の標準値が高い)」ということである。
よく「よい境遇(経済的に恵まれている、身分が良い人生であるなど」であるとしたときに、「どんな功徳を積んできたのだろう」という言い回しを現代でもすることがある。
<「功徳を積んだ、高い階層にいる」と⇒「よい境遇的なもの」になることが出来る>、或いはこれと同時に<「よい境遇でない」と→逆に言えば「そのような功徳を積んでいなかった、高い階層ではない」「そういう人と相対して、功徳が低い、階層が低い」>、といった因縁論的理解の型式があるように見受けられる。
「経済的に恵まれている」「身分が良い人生である」「能力が優れている」「容姿が優れている」といったことなどが、「その功徳を現わしている」といったような理解型式が、真剣に信じていなかったとしても蔓延してしまっている。
そこで実際、「すでに説明してきた内容からしても、功徳があるとそうした内容と連動すること自体は基本原理としては事実である」ことを明かしてきたものであるから、むしろこうしたことを肯定してきたようにも言える。
ところが、これが実際にはそうではない。
既に何度も断ってきたが、「基本原理と現実の応用複雑系というものはまた別の段階の話」である。
基本原理が複雑に絡み合って、複雑系を構成するときには、その基本原理というものは現れたりもするし、かき消えたりもするのである。PCの喩えなどでも説明した。
そこで、まず第一の複雑系の事例としてこれを整理して説明する。
①人気な要素は取り合いになる。
人生において良い内容を誰しも味わいたいものであり、良い内容のものは人気である。
そこで、「功徳がなくては成立しない内容」について人気になり、「総体・標準値としてはまだそこに至っていない階層の霊たちが、なんとか功徳を溜めたり節約したりしながら、ときどき良い結果のものを得て生まれてくる」というようなことが起こるのである。
例えば“経済的裕福”、“容姿の美”、“その他その時代ごとに人気のある項目(現代ならば頭脳・学歴など)”などの「人気な要素」について、地上にその要素を伴う身体・人生の個体が生じたときに、これにこぞって並ぶようにして、生まれてくるようなことになっていると喩えるとわかりやすいであろうか。
観光地において人気なスポットほど、あらゆる人が並んでそれを体験しようとしているようなことになっているのである。その観光予算に応じて、人々はそのおでかけをなんとか楽しもうと考えており、その予算を使用して各おでかけを実現していく。
そこで厳密にはここに二種類ある。
(イ)予算さえあれば、経験できるものと、(ロ)予算があっても、現地の人や常連の人にしか経験できないようなものである。
輪廻転生というおでかけにおいてもこのようになっている。
輪廻転生に置き換えて説明しよう。
(イ)功徳の貯蓄さえあれば、経験できるもの
容姿や大体の能力、経済的裕福、ある程度までの身分はこうしたことに該当している。
(ロ)功徳の貯蓄があっても、その霊格水準になくては経験できないもの
ある程度以上の身分(天皇など最も典型例)、上級な神秘体験など。
この(ロ)については、その霊格水準にいることが必要条件となるが、それ以外の多くは(イ)となっており、概ね多くのたましいが功徳の貯蓄などさえあれば、それを経験すること自体は可能になっているようなことになっている。
そこで(イ)について、沢山のたましい達が、その霊格(霊的住所)外からなんとか経験しようと待機して、こぞって並んでいるようなことになっている。
その結果どうなるかと言えば、そうした(イ)の項目は、多くの場合その霊格(霊的住所)ではないたましい達がそれを経験して存在するようなことになるのである。
そこでこの物質界を見ると、(イ)のような要素を持っている人達の多くは決して「霊格(霊的住所)がその要素と本来対応する水準の者」ではないというような状況になっているのである。
これがまず基本的な事情である。
②霊格高きものは無理をしない、時にその気にもなる。
ちなみに反対に、霊的階層が高いものはどうしているかといえば、いつでもその気になれば伴うこともできるがために、かえって無理をすることはなく、(ⅰ)ある程度伴う程度の普通の転生(おでかけ)をしたり、(ⅱ)また時にはその気を本当に出して人気な項目を多く伴ってみたり、(ⅲ)また敢えて反対に降りていくこともある。
これも同時にここに絡んでいて、①を強化しているのである。
③霊格高くとも、用事や都合次第。
また霊的階層が高くても罪業が大きくあれば、それを払いにでかけなくてはならないことがあったり、或いは外部に払いにでかけなくてはならなくなったりもする。
いくら普段余裕があっても、大雨が降っていてもどうしてもそのときにでかけなくてはならないときがあったりすれば、その中をでかけていくことになったりするように。或いはすぐに戻らなくてはならなくても、そのときにでかけなくてはならないときがあったりもするように。
そうなると、良い内容はほとんど伴わない一生となったりする。
前者は「苦難多き」ケース、後者は「早世する」ケースの比喩である。
まとめ
こうした事情が掛け合わさった結果、どのような複雑な状況になっているか。
「一回の人生を見たときに、その見かけの内容と、霊格(功徳上の標準値・総合水準)とは単純な対応ではない」というようなことになっているのである。
・一回の人生で良いものを伴っている者は必ずしも霊的階層が高いとは限らない、それどころかその水準以下の段階のたましいたちがこぞって伴っていたりするというのが実相である。
・そうしたたましいたちは、平均的転生においてはその水準通りの転生を基本的にはしているが、それが見えづらいだけのことである。そうした者たちの中から、今回の転生で特別に良い内容を伴いに生まれてきたものたちが、そうした項目を占めるという事情になっているために、錯覚を起こしている。
などといったことになっているのである。
ところが基本原理としては「それらの要素はそうした霊格水準と対応してある」ということもまた事実であるから、これと食い違ってねじれの関係のようになっており、理解上の混乱を生んでいるようなことになっているのである。
このような事情から、人気のある項目などについては特に、かえって「霊格(功徳水準)と、現実の相が一致しない」ということが度々生じている(ただし対応しているケースもある)ものである。
このことから言えること
そこで、このことから言えることがいくつかある。
・優劣感・劣等感の誤り
世間で未だに言われる「境遇・能力・容姿などが良いときに、功徳を積んできた人と理解する」ことは、実際にはそうではないケースが多い。
経済的に裕福な人や地位身分が備わった人がいて、その人は相対的に過去世でそれだけ功徳を積んだ人だというようなことは、そんなケースばかりでは別にない。能力が高い人がいて、その人は相対的に過去世でそれだけ功徳を積んだ人だというようなことは、そんなケースばかりでは別にない。容姿がいい人がいて、その人は相対的に過去世でそれだけ功徳を積んだ人だというようなことは、そんなケースばかりでは別にない。
むしろその逆であるケースも少なくない。そのとき一回限りの特別なおでかけをしているのを、見かけているだけであったりするものである。
そこで、そのようなことから優劣感・劣等感を持ったりすることも間違えているし、或いはそのような価値観を蔓延させることも事実に反している。
・方便のあや
人々が善業楽果・悪因苦果といったことを素直に事実として認識できなくなっているのは、一般的に認識されているそれが別に本当に事実ではないというだけのことなのである。単純な理解で、事実ではないような想定をするから、事実と反していて信じるに足りないようなことになってしまっているのである。これは方便のあやである。
子供の成長でもこのようなことがある。
かつて教えられた方便・単純基礎が、ある程度大きくなったときには、見かけ上当てはまらないような事態になってきて、その教えられたことが単純に間違っていたと短絡的に否定してしまい、反抗的になるというようなことがある。
ところが、もう少し大きくなって事情をさらに複雑に理解できるようになったときには、その大人の方便が実は本当に正しかったこと、ただ現実がそこまで単純ではなく見かけ上でそうなっていなかっただけであったことなどが理解されたりもするようなものなのである。
(2)事故・障がい等について見られる複雑事例
「事故や障がいなど」といった“通常喜ばしくないようなこと”について、因縁はどうなっているかという、センシティブな問題を説明する。
昔からそうした“通常喜ばしくないようなこと”については、この単純因縁論から「重い罪業があると起こること」といったことが言われてきた。
これもまた、現代において因縁論が問題となりやすく、信じられなくなりつつある理由の最大の一つであると確信する。
確かに、既に解説してきた善因楽果・悪因苦果の基本原則から言えば、「功徳と良い内容が対応する」ように、その反対を言えば、「罪業と悪い内容が対応する」ということになる。
そこで裏を返せば、「悪い内容・苦しい内容があれば、それは罪業などが原因である」ということになる。これは実際に仏教経典などにもそのように記されている。
そこで問題となるのは、既に何度も指摘しているように、「基本原則と複雑系は必ずしも対応しない」という問題である。基本原理はあくまで基本原理であって、現実はその応用複雑系であって、必ずしも見かけわかりやすく対応するとは全く限らないことになっているのである。
この問題もまさにその代表例である。
そこでこれを説明する。
基本原理
⓪基本原理
まず基本原則としては、そうした苦果は罪障(悪業)に伴うものであり、反対に言えば功徳あれば・霊格高ければそうならない(或いは反対に一般的に良いとされる項目を伴うことができる)ということになっていることに間違いはない。まずはこれが事実である。
複雑な事情
ここからが検討するべき、複雑な事情ということである。
ここにもまた色んなケースがあるので、整理して列挙していくこととする。
①純粋に本人に罪業があるケース
まずは単純に、本当に本人にその分の罪業があるというケースである。
このケースが決して少ない訳ではなく、実際こういうケースもあるということである。
ただし、ここで検討すべきことが、いくつもある。
(ⅰ)その苦果がない人=罪業がないではない
「罪業がある⇒それにより事故なり障がいなりの苦果を生じる」ということが事実であることは、「その苦果がない=罪業がない」ということを意味するわけではない。
そうした苦果があってそれはその罪業があるというときには、同時にその苦果がない人たちにはその罪業がないという、一歩向こうに行けば優越感みたいなものまで混ぜられて語られたりまでするときがあるが、それは全然誤りであるということである。
ここがどうも論理的に分らない人がいるようであるが、「そうした苦果がある人と、ない人とでは、それだけで罪業の多少など測りえない」ということなのである。故に、「ここに優劣などはない」ということである。
(ⅱ)罪業があっても、一気に大きく払うケース以外のケースもある
また罪業が大きくとも、わかりやすい大きな苦果で払うとも限らない。小出しに払うケースもあれば、懺悔や善業によって一部又は全部を払うケースもある。
そうなると、「わかりやすい大きな苦果がない=そうした苦果と基本的に対応するような罪業がない」ということは意味しないということになる。
このことからも、その「大きな苦果の有無と罪業の大小などは単純対応しているものではない」ようなことになっているのである。
(ⅲ)反対に一回一回の罪業が少なくとも、一気に大きく払うケースもある
またその反対に、一回一回の罪業は少ないが、それをまとめて払うというケースもあるかもしれない。そうなると、小さな罪業から、本来それと対応する訳ではない大きな苦果が生じるということになり、やはり「単純な型式外の事象」となる。
(ⅳ)霊格が高くても罪業は有り得る、それどころか罪業が重くなり得る→その苦果がある≠霊格が浅い
また、既に説明したが、「霊格(功徳の標準値)と罪業の多少の状況とは、短期的に見ると一致するとは限らない」。その最たる例として、「霊格が高くても、むしろかえって罪業が大きくなるケースがある」ということは既に説明した通りである。そうなると、霊格が高いながら、大きな苦果を生じるというケースが存在する。これは事例としても認識している。
このことはまた、「その苦果があること=霊格が浅い」ということを意味する訳ではないということでもある。
①まとめ
本人に罪業があるケースとしても、そもそもこのように事情は複雑であり、単純な因縁論では事実が捉えられていないのである。
②その家系・親などに罪業があるケース
次のケースとして、本人ではなく「その家系・親などに罪業がある」ケースを説明する。
実は、因縁というものは本人自身の因縁だけではなく、「家系の因縁も負う」というようなことが起こってくる。これこそ、「自業自得外のこと」に思われるが、ここにもまた複雑な事情がある。
それをここで説明する。
これまで霊体(たましい)について、「親霊から分れ出たもので、霊界から物界に融合してくるものである」というような説明を示してきた。
これは本当にそうなのであるが、事実はもう少し複雑なのである。実は霊体は、「(イ)過去世由来のものと(ロ)肉体由来のものが融合して在る」というようなことになっているのである。
(イ)過去世由来の霊体
まず(イ)過去世由来のものについては既に説明してきた通りである。そこでこの部分については、これまで説明してきた通りの因縁がある。
(ロ)肉体由来の霊体
もう一つに(ロ)肉体由来のものが実はあるのである。その最も詳細は「理論」において記述するが、ここでは雑な説明に留めておくと、ちょうど男性から精子という配偶子が出て、女性から卵子という配偶子が出て、それが結合して新たな個体となって、母胎に宿るが如しである。
本霊から半分の霊体が出て、肉体から半分の霊体が出て、これが結合して新たな霊体となるようなことになっているといった感じなのである。
そこで実は、その半分の霊体の側は、肉体由来のものであって、肉体の先祖らの要素をも引き継ぐということも起こってくるということである。そこで、肉体先祖の功徳・罪業のエネルギーのようなものも、人生に響いて来たりもするということになっているのである。
先祖らは常に共に在って連動している
もう一つの事情としては、そこまでの話をせずとも、単純に先祖らは常に共に在って、そのエネルギーの影響は常に連動しているというだけのことでもよい。
ともかくこうした点から、自身由来のものだけではなく、家系由来のものも連動しているということが実際に起こっており、そこで「家系由来の罪業を受けるというようなことも起こる」ということである。
このようなパターンもあるのである。
ただしここに注釈すべきことがある。
・自身にも罪業があるから連動する
まず自身にも罪業があるから連動するものであって、結局自業自得の範囲を出ないということである。
もしそれを受けるとしても、それもまた自身に罪障があってそれを払うべき因縁があるから、それとセットになっているものである。過去世からの罪業がないのに、先祖の罪障からくる苦果を受けるような立場には、後述する修行という理由は別として、基本原則としては生まれて来ない。
・タイミングや相性がある
また、タイミングや相性があるという問題である。
家系の罪業は、誰でも受けるわけではないし、どの先祖のものでも受けるわけではない。(a)それが噴出するタイミングというものがあったり、(b)相性というものがあったりする。
(a)タイミング
例えば、病気も大きな症状を生じるのに数十年もかかったりすることもあるように、過去の誰かの罪業はあるとき縁によって噴出するようなことになっていて、いつでもいいではないか等ということではないということである。
(b)相性
また相性のようなものもあって、例えばこの人には頼みやすい頼みにくいがあるような感じで、罪業が出ると言っても誰にでも出るのではなくその相性の人が生まれたときに出て来たりする。
このような複雑さが、家系から来る罪業苦果には見られ、さらに複雑に事象を形成している。
③修行のケース
そしてもう一つのケースが、「修行」である。
苦果を受けるには実は二種類ある。(ⅰ)一つは「罪業の果」として。(ⅱ)もう一つは「修行のための負荷・課題」としてである。
「修行としての苦果」といってもまた色んなケースがある。
例えば、「貧困な環境に生まれて」、その苦難を耐え忍んで育つことで忍耐力を養ったり、或いは苦難ある人の心を理解して歩んでいくために負ったりするケースがある。
これと同様に、「事故で大怪我を負って」、たましいの忍耐力を養ったり、或いはその境遇を一度味わって何かの役に立っていくため(今世とは全く限らない)に活かしていったり、というようなことがある。
「障がいについて」も、ほとんど同様のようなことがあるケースもある。
「事故で死す」というケースが修行であるケースとはどのようなことかといえば、その最たる例として、「家系の罪業を引き受ける」ということがある。これを代わりに苦を受けるということで、「代受苦」と言ったりする。
家系に罪業が深いのを見て、その苦しみを代わりに背負うという修行をするために出てくるというケースがあるのである。障がいにもこのケースがあると昔から言われる。水子などもそうである。
このような「修行というケース」もあるのである。
②のまとめ
以上、事故や障がいなどの大きな苦果についての複雑な事情を説明した。
こうした複雑なケースがあり、そう簡単にどれであるかということが外から分るようなものではないのであり、ましてや「大きな苦果=罪業が大きい」という理解はあまりに短絡的であって事実ではないようなことになっていたりするということである。
【まとめ】
以上、
(1)基礎:「良い内容のもの=功徳による/高い階層と対応する」は本質的には事実としてあるが、その一方で「仮の一回の転生においてはむしろこれに反することも多い」
(2)事故・障がい等について見られる複雑事例
について説明した。
(3)男尊女卑について
(4)出家在家について
を続けて説明するが、長くなるのでここで区切ることとした。
【ご喜捨のお願い】
社会の精神的な向上を願って、宗教者の道を歩んでいます。
本物の宗教を徹底して示すべく、厳しくともご喜捨のみで歩んでいます。(25.2月現在は毎月数万圓のみで生活しています)
ご縁ありましたら、以下よりご喜捨いただけましたら幸いです。
ご功徳が廻り、社会の精神基盤に寄与しますように。
・メンバーシップでの応援(五百圓~)
※ただし手数料が18%ほどかかり引かれますので、従来通りお振込みにてお施しくださる方はそのままにして頂ければ大変幸いです。その他の方は、以下のメンバーシップからお願いします。(メンバー人数が増加することも非常に助かります。)
・PayPay : raikouji0216
・お振込みによる場合は、こちらHPまで
ここから先は
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?
