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不思議話(3章) 初めての供養の経験~ある凄惨な事故現場にて~

不思議話、第14弾。
今回は、「死者供養として、初めて経験したこと」について記します。

注釈しておくべきこと
これは全く(物的には)縁のない”他の方のご不幸に関する話”であり、実は以前から掲載するか相当に迷ってきたところのものです。ただ今回、時も少し経ち(1)場合によってはご遺族への慰安になる可能性もあるかと思い、(2)また自分が経験した学びを記して世の精神的方面に寄与するためにも、掲載することにしたものであるということを、まずお断りします。

御霊とご遺族が安らかであられますように。
また、この学びが人々に伝わり、たましい安らぐ世といつかなりますように。


初めての供養の経験~ある凄惨な事故現場にて~


今回は2019年4月頃(23歳)のこと。
2018年11月(22歳)得度をして、一応僧侶となって大分初めの時期。ちょうど道場に入行した1カ月目の出来事である。

少しだけ前提

わたしは、仏教というものは「いのちとして完成する道」であるといつも説いているように、生まれたときからそれを強く知って、
この「供養一辺倒の現行仏教界をどうにかしたい」という思いから僧侶になったものであって、「供養を重視している者ではなかった」「一方で供養も実は大切であることは想像がつくが、今は深くわからないという立場であった」ということを前提として記しておきたい。

これはつまり、「供養をするということを正確にはまだよく分かってもおらず」、「これからそういう方面もそのうちに知っていこう」と思っていたような時期の話だということでもある。

修行1カ月目のこと

修行道場に入って間もなく。
一旦4月末にGW期間に帰されることになっていた。

道場に入行したものが一旦帰されて、「戻ってくる気持ちにならない者は一旦ここで振り落とされていく」という”ふるい”としても機能する期間のようであった。

帰された私は、当時まだ運営していたNPO法人の仕事もあって、帰宅翌日いきなり東京へと向かい、大阪から深夜バスに揺られて東京に赴いた。
深夜バスでは決まって、「東京駅で下車する」ように予約することにしていたので、その日もいつも通りそのように予約して向かったものであった。

東京都内にバスが入り、目が覚めていた。まだしばらく時間がある。
起きながら考え事でもしていたであろうか。
何故か、”某地名”のバス停に着いたときに「降りるべきだ」といったような心の声がする。

もはや身体はコントロールされているような感じであり、訳もわからず全く望まぬままに身体がバスから降りてゆく。
こういうときは、いつもある種他人事である。
自分でありながら、それを客観視していて、まるでロボットを見ているような心地に近い。全く意味がわからなかったが、どうしようもなかった。

交差点の大量の花束

目的地ではないバス停で早朝に降ろされてしまった私は、一旦お手洗いで洗顔だけしてから、「土地勘も全くないままにとりあえず歩き出す」ことになった。
本来の目的地まで電車で行く必要があり、費用もかかるし、時間もかかるし。一体何の手間でそんなことをしているのか、意味が分からない。

ところが、その意味はまもなく分かることになった。
歩いてすぐの交差点にて、ものすごい量の花束が手向けられていた。


修行中はテレビもなく、「世間のニュースもほとんどろくに知らない状態」であって、そのままいきなり東京へ出張したものだから何も知らなかったのであるが、「何か特殊なことがあった」ということだけはその花束の量から察せられた。

私としては、そもそも予定と全く違う、降りる意味がないどころかむしろ降りて本来無駄足にしかならないようなバス停で、心の声がして無理矢理降ろされたという都合上。明らかに「霊的な何か(この現場の御霊にお願いされたか或いは何かしらの縁)によって降ろされた」ことを理解した。

であるから、荷物を降ろして、
「何があったかは存じ上げませんが、ここで私を降ろした御霊よ。鎮まりたまえ、安らぎたまえ。今世の悲しみは乗り越えて、善き心で霊界にあられよ。見守りたい人がいるならば、安らかに見守られよ。いつかの罪障は大きく祓われたであろうから、来世ではよい思いをされますように」
といったような感じで、手を合わせ回向をしておいた。

すると、思いのほかすぐに。
案外にその通り「御霊の安らかな心地」がして、上がっていく(?)ような感じがあった。
「恐らく何か凄惨なことがあったはずであるのに、これほど速やかに伝わることがあるのであろうか?」と、(今世は供養初心者であり供養の事例経験もないのでどのようなケースが標準的であるかも何も知らないままなりの)想像とは全く異なったので大分驚いたものであった。

今の私からすれば、ある程度は”供養するということにおける理解”があるから、このときのことを理解できるが、そのときの私は供養など理解してしたこともなく、また”霊的な経験もあまり積んでいない時期”であったので、「この今”自分がしていること”や”感じていること”が正しいのか」もよくわからなかった。

ただ、理解ははっきりしていないながら、先程のように「勝手に内から起こって来て、勝手に認識するままに、回向できているのかもわからないまま、勝手自然に出てくるままに一応“修された”」(ある種他人事というか、わたしは客観視しているような状態なので、修したというのは違和感がある)という状況であった。

もう一つよくわからなかったのが、
すでに述べたように、「死者が案外安らかで、実に聞き分けもよく、よくご理解されて速やかに安らかに上がっていかれたこと」であった。

どのような事故かは分からないが、これだけの花束が手向けられているということはさぞや凄惨な現場で、複数人亡くなっているような感じもあるのに、「こんなに安らかになられるものなのであろうか?」ということが不思議でならなかった。

それどころかこのとき、「わたしたちは大丈夫、心配しないで。(ご遺族に対し)暗い方向へ堕ちてしまわないように…」といったような、残された遺族のことを想っていらっしゃる気持ちが伝わって来たものであり、「このようなものなのであろうか…」と分からないながらただ起こり来ることを、そのまま受け止めたものであった。

ネットで検索し事態を知る

供養をした後。
しばらくしてから気になって来て、ネットで検索してみた。
すぐに事故のニュースを発見するに至った。

思っていたよりも遥かに不幸な出来事であり、心が非常に傷んだものであった。ただ勝手ながら慰められたのは「何故か、静かに優し気に見守ろうとする御霊のこころ」であった。

こんなことがあるのか、それとも私の感性違いなのか、それはよく分からないというのが今なお本音であるが、今起こった奇怪なこと(予定外のバス停で降車させられること等)は確かに事実であったから、自分が苦しんでも仕方がないので、素直に感じたまま心にしまって、用事へ赴いたものであった。

以後、この事故のご遺族のニュースが流れるたびに、あのときの御霊の見守る心地を思い出し、心を同じくしてニュースを見て、そのたびに供養の念を少しでも手向け
「ご遺族の方が決して倒れてしまわず何とか前を向いて過ごすことができるように」「この御霊の心地が伝わり及びますように」と念じてきたものである。

この話はあくまで私が人知れず経験していたことであり、私の中で起こった主観的なことに過ぎないことを強く断っておく。

実際のご遺族の方がおられて、それもまだ間もないことであるから、「ご遺族のお気持ちを苦しめるようなことになってはならない」という点から話しづらく、この一件は公にはしてこなかったものである。

しかし、この一件のご遺族のお振舞は実にご立派である。(その詳細は各自にお知りになられたい。)
最近そのご遺族の方が被告と面会されていたり、「恨むよりもそれを超えていかれるお姿」が拝察され、今であれば、「本当かどうかわからない程度の話であっても、一つの可能性として、お知りになるようなことがあってもお慰めになるということもあるだろうか。そうであれば記しておこうか。」と思うようになり、今になってひっそりと記すに至ったものである。

何度も断るが、これは私が勝手に経験したことであり、事実であることを全く保証しないため、話半分に聞いていただき、もし心の慰めになる方があればそのくらいで聞いておいていただきたい。

ただ私においては、この強烈な経験が「初めての供養(?)の経験」となり、その後において実に学びとなったものである(経験は事実である必要は必ずしもなく、これが仮に勘違いであっても、それもまた経験であって学びとなるものである)。
今回はその学びの中から、「亡くなったときに起こること」「死者は必ずしも苦しむものではない」について記そうと思う。


「亡くなったときに起こること」

まず「亡くなったときに起こること」を記しておこうと思う。

「死す」「亡くなる」というとこの世の終わりのように思われている方が沢山いるが、実際にはそうではない。生命は亡くなっても、たましいがそのまま存続する、あるいは転生していくということは、理論的な方面から記述している通りであるので、そちらをご覧になられたい。

そこで命(ここでは人に限定する)は亡くなるときに、どのようなことになるかということを記しておこうと思う。

肉体から霊体が離れていく

まず亡くなるというときに起こる基本的なことは、肉体から霊体が離れていくということである。生きているという状態は肉体に霊体が結合している状態だということは記述してきたが、亡くなるということはこれと反対のことが起こる=分離していくということになる。

これは宿命によって定まっているものであり、死する日はそもそも予め決定しているから、そのときにのみ本当に起こるものである。輪廻転生を出張とすれば、往きの便も帰りの便も決定して生まれてきているようなことになっているということは理論において記してきた。

そこで、その日に至って霊体は肉体から分離していく。 (少し面白いのは細胞などが死に切るまでは、その分の霊体はまだ肉体でも機能しているらしいことである。これは日聖師談)

夢から覚めたように

そこであの世(霊性界)に切り替わるのであるが、いきなりあの世に目覚めるわけではない。ちょうどこの世界で、お腹から生まれてきてもほとんどの個体がしばらく世界のことを認識できないように、或いは目が覚めてもしばらく寝ぼけて世界を認識しきられない又は夢かどうかわからない時間があるように、あの世に切り替わってすぐにそれを完全に認識することは無いらしい。
個体によっては胎内記憶まであって胎内から出たときから意識があるような個体もあったり、目が覚めた瞬間から世界をはっきり認識するようなこともあるように、死した瞬間にそれをはっきり事実と認識することが出来るケースもあるようである。

このしばらく認識しきられない期間、夢でも半分見ているかのような期間を、比喩をもって一定期間として示したものが、一般にいう四十九日などの正体である。これはあくまで一定の目安であって、本当に絶対に四十九日などというものではないというのが真相である。妊娠で言えば、十月十日のようなものである。

その人の持ち合わせたビジョンが出てくる→現実へ

そこでその夢のような心地の際に、その人の生前に持ち合わせたイメージのようなものが見えて来たりすることもあるらしい。極楽往生を真剣に念じていた人であればそういうものが見えたり、花畑が無意識化に刷り込まれていれば花畑が夢のように出て来たり、三途の川が出て来たりするそうである。ところが、これらは全て夢のようなもの、その人ごとに無意識化に持ち合わせたものから合成されるものであって事実ではない。ただ事実としては、あの世は(設計図という情報界が実際の建物と重なって存在するように)この世と重なるように存在しており、そうしたビジョンのものはないらしい。
そこで一定期間が過ぎて各自に事実に気がつきはじめる頃、ただ現実の相が出てくるといったことになっている。

いつまでも死んだことを自覚しないケース

そこで、多くの者は自分が死したこと、あの世に切り替わったことを認識する。ところが一方で、それを受け入れられなかったりして、そんなはずはない、これは夢の中ではないかと疑うものもいて、そうした者は死しながらこの世に相当思いを残したまま、受け入れるまでそのまま霊的に暮らすことになる。
たしかに意識がそのままたましいとして残るとしたら、死して切り替わったとしても単に生きている中の夢なのではないかと疑い始めたら、なかなかそれを自力で本当に死んでいるということを理解するのは難しそうである。
これは、突然死したケースなどに多い。突然死してあの世に切り替わると、単に意識不明な中で見ている夢なのではないかという勘違いをしやすくもなる。
こうしたたましいは、夢にしてはあまりに長いかと自分で気付くか、誰かこの世のものから教えられるかすることで、ようやく死を自覚する。

生前を全て振り返り、それに応じた階層に位置付く

話を戻し、このいずれのケースにせよ、どこかで死を自覚する。あの世での認識がはっきりする。
このときに次に起こることが、自分が生前にしてきたことを全て振り返るといったようなことである。ちょうど夢を見ていた中で朝目が覚めたときに、夢の内容をまず振り返るようなものであろう。
そこで一生の全てを思い出し(この世とあの世は半分は真反対の性質があることになっており、あちらは情報世界であって、情報がはっきりしているためにそのようなことが可能になる)、それに基づいてこころの世界における水準が自ずから決定し、そのこころの階層に入るというようなことになる。

そこで、その階層に応じて自由度が異なる。
ちょうど物質界で物質的豊かさに応じて行動の自由度などが異なるように、霊性界では霊的豊かさに応じて行動の自由度などが異なる。
また物質界では物的距離に応じてその距離が異なるように、霊性界では霊的距離に応じてその距離が異なる。
こうしたことが霊性界では霊性界のしくみで、複合的に仕組まれてある。

そこで典型的に起こる問題として、御霊と御霊は滅多に会えないということである。
よく世の中では、死んだらあの世で会えるといったような言説があるが、あれは実は全然そんなことはない。
まず距離でいえば、御霊と御霊の距離はこころの距離となっており、同じ物質空間に重なっていても、霊的な階層や性質が異なれば、会えるような距離にはなっていない。
また自由度も重要であり、低い階層であれば行動の自由度もないので、他の御霊のところへ行くような自由も大いに制約が勝手にかかってしまうようなことになる。もし、似た階層にいたとしても、今度はこの自由度の制約からやはり会えないというようなことになっている。
真反対にそれなりの階層にいたならば、もし階層や性質さえ近く、霊的距離がある程度近いのであれば、自由度もあって、会うということもできる。そういうようなことになっている。

故に、さきほど死して長らく自覚できない者というのが登場したりするのである。死して自覚できないのは、よほどこの世に未練があったりするケースであるが、それは同時に霊的な階層がそこまで高くないことをほとんどのケースで意味しており、それ故に他の御霊が教えてくれるというようなことは発生しないのである。
こんなことになっている。

「亡くなったあとに起こること」について、ひとまず概観を解説した。
また、どこかの記事でさらなる詳細を記していく予定である。

「死者は必ずしも苦しむものではない」

今回はもう一点、「死者は亡くなったとして、必ずしも苦しむものではない」ということを記したい。本人が亡くなったときに「納得できているかどうか」ということが、実はポイントになっている。

では「納得できるかどうかのポイントはどのようなものであるか」というと、これにまたいくつかあるので今回はこれを記す。

(1)「生前、本当の意味で気持ちよく生きているかどうか」

第一に「生前、本当の意味で気持ちよく生きているかどうか」である。

生前に、色んなものへの執着が強い場合であると、突然亡くなったような場合、生への誤った執着が強く現れ、非常に苦しむことになる。反対に、「そうした執着はなく気持ちよく生きるような心地で日日在った場合、突然亡くなったとして、そのような綺麗な心地が維持される」ものである。

我々或いは現代人からすると、「死というものは非常に重く、全て悲しいこと」であるかのように思われてしまうが、「本当に輪廻転生していて、死後が情報として永遠にある」という霊的世界からすれば、「死というのは旅行の終わりのようなもの、夢の終わりのようなもの」で、終わってしまってもたましいそのものが終わるわけではなく、案外「あっ終わってしまった」くらいのものであったりするのである。

無論、“こちらにいる人間”は、旅行や夢に必死な最中であるから、我々はそのようにまで思うことは多くの場合難しいであろう。
長年生きて大分高齢になった方が「いつ死んでもいい」と言っているのは、「旅行や夢に満足して終わりかけている段階」だということである。

(2)「何故ここで命を落としたかを理解し受け止められるか」

第二に「あの世に帰って目が覚めて、何故ここで命を落としたかを理解し受け止められるか」ということである。

輪廻転生という事実の中にあって、我々は死せば単に「あの世に帰る」というような状態となる。まるで夢から覚めるように、あるいは旅行から帰ってきて直後のまだ旅行気分のままのような心地となる。

たましいの世界に帰ってきたとき、それまでの自分の過去世ともダイレクトに意識が繋がり、色んな記憶を取り戻したりする。
※これは亡くなり方によって差が大きいところであるが、突然亡くなったような場合は何が起きたのかわからず、目覚めきることが出来ないまま意識がこの世に留まるという状態が起こったりする。そこにおいて、亡くなったという出来事に対して理解できるかということが重要である。

そもそもの前提:人生は予め決まって生まれてきている
そもそも私が思うに、「人生は予め決まって生まれてきている」。
※これについても別の記事ですでに色々と記している。

物理学的には不確定性原理というものが言われており、未来は確率的だということが言われているが、これと矛盾するものではない。これは『理論』において丁寧に説明するので、そちらを読んでいただきたい。

ともかく、私が思うに「人生は予め決まって生まれてきている」。
「どのように決まっているか」その一部だけを説明すると、たましいは身体や生物の進化と同じように成長していくが、その「善いエネルギー(功徳)と悪いエネルギー(罪障)に応じて、結び付くことが出来る肉体が決まってくる」。
この世界の進行は神仏や法そのものに定められており、その肉体が辿る一生も定まっている。そうしたことまで含めながら、その功徳・罪業に応じて、肉体及びシナリオに結び付くことになる。

これを一般に「因縁」という。
ただし「因縁」というものは世に思われているような単純なものでは決してない。ここが混乱のもとである。(因縁については鋭意、説明中である)
例えば、「貯金があってもその場で使わずに時遅れて使用したり、病が後ろで進行していても後になって突然出て来たりするようなもの」で、「善いことをすればすぐに善いことがあり、悪いことをすればすぐに悪いことがあるというような単純な仕組みではない」というようなことになっていたりするなど、もっと複雑な仕組みとしてあるのが「因縁の実相」である。

そこで決して単純ではないむしろ複雑怪奇なその仕組みに従って、「そのシナリオが決定されているところ」に結び付いてくるものとなっているのがこの生命の実相であり、そこにおいて実際には「人生は予め決まって」おり、それらは「成長段階や功徳・罪障に基づいている」というのがその実相としてあるのである。

様々な因縁のタイプ
そこで例えば、「事故で亡くなる」というようなとき、そこには「様々な因縁のタイプ」がある。
※これについては正確を期すために、「輪廻転生と因縁について」にて順次執筆しているので、そちらをお読みいただきたい。本稿では、半年ほど前に仮に記していたものをほとんどそのまま記載することとした。

・その代表的なものとして「過去世に罪障があり、それを祓う出来事」として発生するというパターンが主流に存在する。
これにも色んな類型があり、(a)例えば「溜まっていた罪障を、一気に解消してしまう」というパターンもあるし、(b)「ある一度の過去の罪障が非常に重いがために、それをある一回の人生の中で祓う」というパターンもある。
このパターンは人の健康や経済活動のように、「実に複雑な組み合わせの事象であって、そんなに単純なものではない」。

そして「罪障によって例えば命を落とした」とき、あの世に帰ってはっとして、罪障を祓うという設定であったということを素直に理解する者がいる。また反対に、それを認識していても執着から納得できない者もいる。理解したならば、むしろ清々しい心地がするというパターンもあるのであろうと思う。

・また或いは「修行として、苦難を受ける」というパターンもある。
たましいとして成長するために苦難を敢えて受けるような形で出てくる人生の回というものもある。これには自ら望むケースもあれば、与えられてそのような人生に生まれつくケースもある。
例えば、修行として貧困な人生を歩みきって、忍耐力を養ったりするというようなこともある。また或いは、先祖の苦しみの因縁のある家系で障害などが出てくる肉体にあえて生まれて行って、その苦しみを代わりに受ける(代受苦と言ったりする)ことで修行を積むというようなケースもある。
このように自身の”罪業”から来る苦難ではなく、”修行”として受けるような苦難のケースもある。

以上のように、苦難を受けるというとき、それは宿命・因縁であることは事実なのであるが、それは決して世に単純に認識されているような「善いことをすれば良い結果、悪いことをしていれば悪い結果」という極めて単純な様相ではなく、その基本原理が潜むほどの複雑系として在るものなのである。
もしそのような単純な因縁論が正しいと言えば、多くの人が現実を見て到底そうであるとは思えず、因縁の事実を退けてしまうであろう。そして現代が実際にそのようになっている。
ところがそれは基本と応用ということを分かっていないところから起こる事故であり、世に知られるその単純な原理はあくまで純なる基本形であって、現実はその超複雑系として展開しているものであって、もはやそのような単純な原理では全く簡単には理解しえないような事態になっているというだけのことなのである。

そこで、苦難においても因縁が事実としてあるのであるが、単純な因縁理解では到底理解の及ばない複雑なケースが多いのである。そこで上記のようなものを、その例として示したものである。
今回の事故のケースがどのような因縁のケースによるものかは私には分かりかねるが、決して単純なる因縁論から語るものではないということである。

因縁というものが、あの世に帰ればはっきり事実としてあることが分かる。こちらから見れば死は悲しみでしかないが、あちらに帰った側からすれば、この世こそは旅行や夢のような時間であって、それが終わってしまうことを”俯瞰して見られる”ようになり、「自分の人生がなぜそのようなものであったか全体像を理解することも出来」れば、「そこに納得する」ということも全然起こるのである。

ちなみにそのような者の方が「たましいとしては健全」であり、「苦しむことがなく」「良い状態」である。

恐らく、あの事故ではこのようなことが起こっていたものなのだろうと、後になって思われたものである。それはご遺族の方を見ていても思うところである。もし亡き方が納得がいっておらず怨念に苛まれていたならば、遺族にその念が働きかけて、遺族もまた怨念のようなものを発露することになるが、そのようなものをご遺族が心の努力によって鎮めておられるところ、御霊の状態も想像されるところである。

(3)「送り出す側の気持ちや、語りかけ」

第三に、「送り出す側の気持ちや、語りかけ」である。

一生が留学のようなものであるとして、帰ってなお「留学先に一旦置いてきた恋人」などから、毎日のように悲しみや寂しさを訴える連絡が届いていたならば、「なかなか帰ってからも納得しきられず、執着が残ってしまう」であろう。
ある程度の寂しさはよいものであるが、それが「行き過ぎれば過度に感情が刺激されて、執着が生まれてしまったり」する。

そこで「どのように送り出すか」ということが重要である。
まずは、この世に生まれてきた宿命を果たしたことを認めるということが重要である。例えば、いくら早世であったとしても、宿命なのである。それを、もっと一緒にいたかったという気持ちを前面にしてしまうと、御霊のあの世での気持ちを重たくしてしまう。命が終わったならば、それが宿命であることをまずははっきり受け止めて、それはそれとして肯定するということが非常に重要である。
そこには何かの因縁(罪障であったり修行であったり色々)があるのだから、それを事実であるのに否定していれば、そこにこじれを生じて、結局御霊も自分も苦しむことになる。こういうのは、きっぱり認められれば、最も理想的である。

それを認められないのは、ある種現代病である。現代人がこれを聞けば、そんなことは無理だ!と強く思う方もいるかもしれない。しかし、はじめから輪廻転生や因縁が事実であることをはっきり知っていれば、そんなことはなく、むしろ日頃の苦難から常にそのように受け止めて歩むことができるものである。そして、現代は宗教離れによってこうした観点が一時的に喪失されているが、かつてはこれがむしろ当然であったりしたので、これを正面から受け入れられることは案外できたのであって、それが無理だというのは現代人の一時的な視点に過ぎないのである。

そこで因縁というものを事実として認識し、それはそれとして肯定して、その死を否定せず、あの世に帰ったことを認めて、まだまだ輪廻転生は続いていくのだから、これからまだまだ続く未来を思って、そのために楽でいられることを願って送り出すということが肝要である。

 

まとめ

いかがでしたでしょうか。
以上が初めて供養というものに出会った経験、そしてこの件を通して学んだことでした。

私としては寝耳に水のようなもので、急に何も分からないままバスから霊気に降ろされて、供養をして感じたものでした。
この経験は、私の内でこれまで秘められてきましたが、ご供養の一つの大きな勉強ともなったものとして在りました。

重ねて、ご冥福をお祈りいたします。
願わくはこの功徳を以て利他回向し、亡者と生者と共に仏道を成ぜん。


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