「わかる」ことの大切さ/”わかる×する”で生きている
今回は「わかることが大切である」ということを記します。
頻繁に示すことなので、ここにまとめておくものです。
はじめに

「わかる」ということを皆さんはどのように考えているであろうか、或いは何を連想するだろうか。
「何かを勉強する」、「日常における色んな理解・わかる」、「気持ちをわかる」、「頭を使う」…。色んな「わかる」があり、連想されるかと思う。
或いは「わかる・理解」ということとよく対比されることに、「する・実践」ということがあり、「(わかるより)する方が大切!」「考える前に行動しよう」などと考えている方もいたり、そういう言葉を耳にしたりするかもしれない。
「わかる」ということは、このように日常において頻繁に行っている。
ところが、「わかる」ということを取り立てて深く掘り下げて考えてみたことのある人は少ないのではないかと思う。
そこで、「わかるが大切である」と言われも、漠然としすぎていて、イメージがしづらいであろうと思う。そこで、いきなり結論を大雑把に述べて説明に入ってみよう。
“わかる×する”が基本構造
いきなり、大事な結論を説示する。

それは、「“わかる×する”が我々の基本構造にある」ということである。
人間が何かをするというときには、その最も基本的な構造として「“わかる×する”で行っている」ということが指摘できるということである。
いきなり何のことであろうかと思われるかもしれないが、「理解と実践」などと表現すれば少しイメージが浮かんでくるであろうか。そこで、さらにこれを詳しく説明する。
例を挙げれば、一気にわかりやすくなるものと思う。
料理
例えば、「料理」というものを考えてみよう。
何かの料理というものは、いきなり「する(実行)」の方面があって実現するわけではない。

必ず先に「何かレシピなど」があって、「その上で調理する」ということによって「料理」が実現しているはずである。
まさに“レシピ”とは「=わかる・理解」であり、“調理”とは「=する・実践」ということである。このような意味において、料理はまさに「わかる(理解)✕する(実践)」で実現しているということが言えるものと思う。
建物
例えば、「建物」というものもそうである。
いきなり建設するという「する(実行)」の方面があって実現するわけではない。

建物というものは、「設計図」があって、その上で「建設(作業)」があって実現する。
これは料理の「レシピ✕調理」と同じことであり、「わかる(理解)✕する(実践)」という構図になっているものであると言えよう。
このように、何かをするというときには、実は「わかる(理解・思考)✕する(実践・実行)」という構造があることになっているのである。理解・思考のようなものを「わかる」といい、実践・実行のようなものを「する」と呼称することにする。
さらにこれを支持する例を足して、補強しておくと。
例えばスポーツをするにしても、「わかる:ルールやフォームなど何をするかということを理解した」その上で、「する:その通りに実行しよう」として、そのスポーツが実現しているであろう。
或いは、この執筆物を皆さんが読まれているのも、「わかる:この執筆物を読もうという意思意図があって」その上で、「する:実際に読むという行為を行っている」ということになっている。
あらゆる意図した行為はそのように「わかる:それをしようと思考して」「する:それを実行する」というようなことになっている。
また或いは、この執筆物を読んで皆さんがどうしようとしているかといえば、「わかる:少しでも何か理解して」「する:それを活かして実践して生きていこう」という目的が潜在的にあるはずである。これも「わかる×する」の構図の現れと言える。

そもそもを言えば、わたしたちの身体がそのように構成されている。「(理解・思考をする)頭」が上にあって、「(実践・実行をする)身体」が下にあり、「あたま」と「からだ」で構成されている。この「わかる(理解)✕する(実践)」がいかに本質的な構造であるかが現れていると言える。
また現代ではPCというものがあり日常の基盤ともなっているが、PCというものも「プログラム」があって、「実行」があるということによって作動し、機能しているものである。
わかる×するになっている理由(メタ)
では、なぜそのようになっているか。
ということまで分かれば、これが必然的であることが分かり、このことを本質的に理解して受容できると思い、あまりにメタな視点であるが一応わずかに触れておこう。

ものすごく大雑把に言えば、「世界そのものが“理(原理、ことわり)”と“事(実際、実行)”になっている」ことに由来しているものである。
(※「“理(原理、ことわり)”と“事(実際、実行)”」とは何かといえば、さらにメタな話になってしまい、あまりに複雑な哲学的議論を用意しなくてはならなくなるので、ここでは自明としたい。その概念は生きているだけで、直観的になにか理解されているはずである。)
例えば、物理運動というものによって自身も世界も存在しているが、この物理運動というものについて「理:物理法則/原理」があって、「事=実際の挙動」があるというようにしてに在ることは皆さん直観的に理解できる、或いはご存知であろう。
或いは図形的なことについて、何か「理:原理」みたいなものがあって、そのもとで「事:あらゆる図形」があるというようなことになっていることもご存知であろう。直角三角形があれば、そこには「理=三平方の定理」があって、そのもとで「事:あらゆる直角三角形」が成立している。

或いは、我々自身の身体もそのように在る。身体はときによって全くの無秩序に機能しているわけではない。「理:身体の一定したしくみ」があって、その上で「事:常に機能している」というようなことになっていることは、自分事としてご存知と思う。
或いは、「理:遺伝子というコードのようなもの」があって、その上で「事:実際の身体」があるというようなことも、この「理✕事」という構造の現れである。
このように、「わかる(理解)✕する(実践)」という基本構造の前に、そもそも世界に「“理✕事”という基本構造」というものがある。
イメージ的に言えば、「理」が中心・根源にあって、「事」はその周りに派生・展開して存在するというような図式が潜在的にあるかもしれない。「原理」と「応用(実際)」というような言い方で一般的に、深く考えられず本質的に知られているものである。
(※この原理・応用というものについて、それ以上に深く考えることなどほとんどの人にはなく、直観的・無意識に知られているものと思うが、ここで立ち止まってそれがさらに何かということを考え出すと非常に難しいことになってくると思われる。哲学でこれに十分な回答を与えたと言えるようなものは未だないのではないかと思っているが、少なくともそれほど周知されたものではないということである。これについては「理論」で説明する。)
そこでこの「理✕事」という基本構造については、本能的に理解している、それ以上問えないような根底的な事実として誰でも何となく知っている大前提として、話を進めたい。
初めの問題にかえって「わかる(理解)✕する(実践)」というものがなぜ基本構造としてあるかと言えば、この「“理✕事”という基本構造」に対応して現れているものなのである。(付け加えておくと、「脳」と「身体」というものも、「理✕事」に対応して現れているということが出来よう。)
このようにして、本質的に「わかる(理解)✕する(実践)」というものが基本構造としてあって、われわれは機能しているのである。
よりよくAをする=わかる×するをよりよくする
そこで、「よりよく何か(Aとする)をする」というときには、
=必ずそれは「(Aについて)“わかる×する”をよりよくする」ことを意味するということになるのである。
料理の例
例えば、「料理をよりよくする(上達する)」ということを考えてみよう。
料理をよりよくしたいならば、まずそもそも「“レシピ”をしっかり理解して(又は“どうすれば、どうなるかというビジョン”が直観的に理解されて)」おかなくてはならない。レシピが全く頭にないままに、調理(する)をすれば、料理は上手く行かない。
また反対に、いくら「レシピ(ビジョン)がはっきりある」としても、「調理(する)が下手すぎ」れば料理は上手く行かない。
「わかる:レシピ(又はビジョン)」がしっかりとあって、「する:調理」がしっかりしているときに、「料理はよりよくできる」ということになっているのである。
建物の例
「建物」においてもそうである。
「わかる:設計」がしっかりして、「する:建設」がしっかりすることで、「よりよい建物をつくる」ことができる。

このように、「“わかる×する”を共によりよくする」ことで「よりよく成すことが出来る」のである。
「何か(A)をする」ということの基本構造に「わかる×する」があるのだから、その「わかる×する」という条件が共に満たされることで、「よりよくAする」ことができるということに必然的になっているということである。
わかるが大切(先行している)

そこで、さらに言えば「わかる×する」という二つの要素において、先に重要なのは「わかる」の方であるということである。
「わかる×する」においては、「わかるが先行している」という構造になっている。
レシピが無くては調理がいくら上手でも料理は実現しないし、設計図が無くては建設がいくら上手であっても建物は実現しない。「わかる」と「する」とでは、「わかるが先行している」のである。
そこで、「わかる×する」ということが大切であり、その上で「“わかる”ことが第一に大切である」ということである。
仏教において

ちなみに「仏教は“智慧”の宗教である」と言ったり、或いは「悟り」というものが究極として説かれたりするが、この「智慧・悟り」とはまさに「わかる」のこと、別の表現である。
故に仏教は、「わかる=智慧、悟り」を説いているのである。或いはそもそも「仏=Buddha」の「budh」とは、「わかる」という意味であり、「仏buddha」とは「わかった人」という意味であり、であれば「仏教」とは「わかった人のその教え=わかった教え」ということなのである。
仏教はこのことを説いているものである。

さらに言えば、「仏陀」の別表現に「明行足」というものがある。
「明」とは「わかる」、「行」とは「する」のことであり、この「明」「行」が共に満ち足りた存在であるという風に表現されているのである。つまり仏陀とは「わかる×するを完成し満ち足りた人」ということが、ここに明示されているのである。
このように、仏教はまさにこれを説いているものであり、それを平易に「わかる×する」と現代風に表現しかえてみているだけのことである。
まとめ
そこで「わかる」ことが先行して大切である、ということである。
人生についても言えることである
これは、何かをするということにおいて基本構造として普遍的に言えることである。それが意味することは、「人生についても言える」ということである。

人生というものも、
①それぞれに何かしら「人生における見方、人生観」というものがあって、②「それに基づいて生きている」はずである。
これがまさに「わかる」「する」となっているものである。
(※「人生観」というものは余りに漠然としているが、
例えば色んな価値観、思想などもこれに属する。或いは部分的に切り分けて言えば、仕事観、結婚観、育児観、社会観、世界観なども人生観の部分となっているものである。
→人生というものは、料理・建物などと違って、あまりにその扱う範囲が広大であるがために、「わかる」の内に含めるものが膨大かつ複雑怪奇であって整理された「わかる」があるわけではないが、実はこうしたもの全てが「人生における“わかる”」を構成しているのである。)
人生というものはただ闇雲に送られている訳ではなく、
今見たようなものが「わかる」としてあって、それに基づいて生きているという「する」があって、生きているものになっているのである。
人生でもわかるが大切
そこで、「人生」についても、よりよい人生を送りたいのであれば、「人生をわかって」×「人生をする」ということが重大であるということであり、さらに先行的に「わかるが大切である」ということである。
例えば、切り出して見れば、「良い結婚観」であると「良い結婚生活」となったりする。反対に「悪い結婚観」であれば、間違いなく「悪い結婚生活」となる。
人生全体において、このようになっているのである。

既に説明したように、わたしたちがどのように生きているかとすれば、
「①わかる:人生観・人間観・自分観・世界観など」をもって、「②する:人生・人間・自分をして生きている」のであるが、ここにおいて「①わかる:人生観・人間観・自分観・世界観など」が先行している。
そこで「①が確立される」ということが、「人生がよいものとなる第一の要点」である。

「生き方など」がわかれば、よりよく生きられる。
細分化してみると、「人との接し方」がわかれば、人間関係がよりよくいく。「考え方」がよければ、それがうまくいく。「感情の扱い方」がわかっていれば、感情を上手く扱ってよりよく生きられる…といったようになっている。
(反対に「①が確立されていないならば、人生はよりよく行きがたい(偶然上手くいっていく場合もあるが、上手くいかないことは多い)」ということである。)
そこで、人生において、「”わかる:人生観・人間観・自分観・世界観など”を養うことが重要」なのである。
人生において「わかることが大切である」とは、こういうことである。
補足:宗教・哲学など
ちなみに、「宗教・哲学」といったものは、まさにこれについて「理解を教えたもの、わかろうとしたもの」、つまりこれについての「わかる」に関するものなのである。

宗教というものは基本的に何か超越的なものから“教わる”という形で(ちょうど親から子に教えがあるような型式)、「わかる:人生観・人間観・自分観・世界観など」を提供したものであり、哲学・思想というものは人間自ら考え抜いて「わかる:人生観・人間観・自分観・世界観など」を探求したものである。
宗教・哲学などは、このようにして存在するということが分かれば、その存在が腑に落ちるものと思う。
この文章を読んでいるのも

また、そもそも皆さんがこの文章を読んでいること自体が、まさに無自覚に「わかる」を獲得しようとしている行為なのである。
本稿だけではない、皆さんが日頃何かを読んでみようとしているのは全て、無自覚に「わかる」を獲得しようとしている行為なのである。
本質的に「わかる×する」という構造は、われわれに横たわっているものであるから、そこから逃れることはできない。まさにその構造の通りに我々は存在・自ずから運用しているのである。
わかるとするの相互作用
今は一応「わかるが先行的である」ということで進めたが、必ずしもこの限りではない。

これはあくまで「敢えてどちらかといえば」ということであって、実際には相互作用ともなっており、「わかる→する」という方向もあれば、反対に「する→わかる」という方向もまた機能している。
例えば、料理も「“調理する”ことで“わかる”こと」もある。
「“する”ことで“わかる”こと」も存在するのである。そこで実際には、「理解して→実行して、実行して→理解して」ということが相互的に作用するということが実際には起こるものである。

「よく考えてから行動せよ」と「考える前にまず行動せよ」という相矛盾した言説があるのは、こういう事情による。
これは共に相互に事実としてあることなのである。このどちらかのみが事実であるということではないから、このような矛盾した言説としてあるのである。
これは「両方が事実であり、ケースバイケースで適合的な事実が異なるということが事実である…」ということが究極の事実である、ということが理解されなくてはならない。
このことを俯瞰してこのように理解していないと、つじつまの合わない対話となりゆくままである。
まとめ

以上、「わかるが大切である」ということを示した。
人生ということにまで進んで話したが、人生だけではない。
普遍的にあらゆることについて「よりよくする」ためには、「わかる×する」という構造が基本としてあって、そして「わかることが大切である」ということなのである。
「わかるより、することの方が大切である」という(ことのみを述べた)言説は”偽”である。
「わかることが、することに先行して、大切である」ということが基本であり、その上で「相互作用」となっており、実際には「わかることが先行して大切であるケースと、することが先行して大切であるケースの両方がある」ということが究極的な真である。
そこで、これをもって伝えたいこと。
・わかるを大切に、バランスを大切に。

「わかる」ことを大切にしようということである。そこで人生自体においても、「わかる」ことを大切にしようということである。
ただし、相互作用もあるので、「わかる×する」が共に大切であり、バランスが大切であることも付記するものである。
人生で、これが大切である。
・この説示により、この類の議論を終わらせたい。
世間には「わかるを重視」「するを重視」の相矛盾した言説があり、よく整理されずにその場の都合で飛び出してきて決着がつかないまま、ふわふわと今日まで来ているので、「実はこの両方が事実であること、わかるが基本的には先行的であること」を事実として広めて、この類の議論を終わらせ、定式化して議論において使用されることを願う。
この両論の、俯瞰的理解なき掛け合いは不毛である。
是非、この文章も“わかって”頂ければ幸いです。
また、自分自身でも考えて“わかる”を養いましょう。
わたしも智慧を常に養うよう精進します。
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社会の精神的な向上を願って、宗教者の道を歩んでいます。
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