男尊女卑など有り得ない/仏教と男尊女卑について~輪廻転生、因縁について(後編その7)~
「輪廻転生と因縁」について、真意を記しています。
今回は“後編その7”で、前回に続き「実際の複雑な実情、事例」を記すものです。
これまでの記事を先にご覧のうえ、お読みになることを推奨します。
おさらい(以下に全てまとめています)
男尊女卑の無意味さについて
また、よく見かけるのが「男尊女卑」に関する諸言説である。
例えば、
(1)男尊女卑を信じている者。
(2)或いは、男尊女卑に過度なまでに反応して、女性のことを過度なまでに主張するもの。
(3)そもそも男女について、自分はその性別でしかないと思っている者。
(4)仏教では男の方が尊いというような記述をしていること。
こうしたものが、問題としてよく見かけるものである。
そこで、まず(1)~(3)という社会によく見る言説に対して言うべきことは、「そもそも今世というものは長い輪廻転生のたった一生のことであり、男女雌雄というものはどちらも経験していくものであって、生命はみなそのような観点からして両性である」ということである。
そのような観点から見たとき、(1)~(3)はどれも無意味なことを言っていることになる。無論、これは輪廻転生が事実であった場合の話である。まずはこれらについて説示したい。
(1)単純に男尊女卑をいう人に対して。
まず単なる男尊女卑は輪廻転生が事実であるとき「本当に無意味」である。
今男尊だと思っている男性も、未来には女性になりうる。むしろそのような軽蔑の罪によって、女性になることすらあるかもしれない。
輪廻転生が事実であるとき男尊女卑は、まず単純にこのように無意味であり、真実ではない。
(2) 男尊女卑に過度なまでに反応して、女性のことを過度なまでに主張する人に対して。
男尊女卑に過度に反応し、「過度に女性のことを主張する」のも、また「同様に無意味」である。
今、自分は女性だということに入り込んでいるもの、或いは男性でありながらそうしたことに理解を示すものも、「皆長い輪廻転生においては両性である」。女性だということに入り込んでいるものも、どこかの来世には男性となったりする。
そこで(1)同様に、これもまた無意味なのである。
(3) 自分はその性別でしかないと思っていること自体に対して。
以上の二つの問題はそもそも、「男女について一回の人生だけを見て、その性別状態(LGBTQも含めて)を固定的に見る立場」から発せられている。
ところが、そもそもそれ自体が輪廻転生が事実であるとき真実ではない。
男尊女卑等以前に、その一回の人生の性別しか見ないという立場自体が、そもそも無意味だということである。
そもそも今世というものは長い輪廻転生のたった一生のことであり、「男女雌雄というものはどちらも繰り返して経験していくものであって、生命はみなそのような観点からして両性である」ということが事実としてあり、「輪廻転生まで含めた目線を持った場合には、“男尊女卑の諸問題”は全く目線が異なるものとなる」はずなのである。
「一回の人生の性別状態しかない」という観点から語られるのか、「色んな性別状態を経験する」という前提から語られるのかでは、そもそもの議論の様相が大いに異なるものである。輪廻転生が事実であるとすれば、この後者の観点から語られて、初めて事実に基づいた議論となるのである。
(4)仏教と男尊女卑について(真理から見た男女について)
そこで、さらにもう一歩向こうの話を次に説明したい。
それは「一回の現世という中での男女の上下については、そもそも真理としてあるか」「男尊女卑といったようなことやLGBTQといったことについて宇宙の“真理”はどうであるのか」といった問題である。
そこで仏教において、ここと連動してくる問題があるので、一緒に取り扱いたい。
仏教では実は、「男の方が尊い」というような記述がある。
そこで、「仏教では、男尊女卑的な内容がある」ということがよく問題となる。そこで、まずこれについて述べるところである。
まず結論からいって、仏教では実は、「男の方が尊い」というような記述がある。あるといって差し支えない。
ただし、何度も繰り返す通り「事実と言うものはそれほど単純ではなく」「実に複雑に語られるところでしか分からないもの」であったりする。この男尊女卑の問題はまさにこのような類のものである。
そこで結論を大雑把にまず記せば。
真理ということからいえば「男尊女卑というようなこともあるにはある」が、「反対に女尊男卑というようなこともあったり」、「そもそも相違するだけで上下があるわけではない」とか、「両方繰り返して経験するという意味で上下などない」と言えたり、「かなり複雑である」というのが真相である。それを踏まえて、「仏教には男尊女卑的な内容がある」ということは確かに事実である。
そこでこれを詳しく説明していこう。
仏陀の、男女に関する所説
仏教に男尊女卑的な内容があるというときには、「仏陀の色んな言行」をもってきて言うものであり、少し列挙してみるとこのようである。
①仏陀には男性しかなれない。(成仏は男性しかできない)
②女に生まれるのは、罪業が現れて生まれるといったことが出てくる。
③釈迦は女性が出家することに大分抵抗した。
といったような内容が実際に経典(言行録)にあるのである。
そこで、これについて解決していく。
③釈迦は女性が出家することに大分抵抗した。
まず「③出家に女性を認めようとしなかった」ということが最も簡単な問題であるので、これから解消する。
これは決して「女性が出家に値しない」だとかそういう意味ではない。
(a)男性僧侶の問題、全体最適の問題
これは「女性を僧侶内に入れてしまうと、男性僧侶の気が散りやすくなり=高い領域に至る者が減りやすくなり」、⇒「そうなると人々を導く力のある者やその全体的レベルが低下してしまい」、⇒「教えが途絶える速度が速くなってしまうことになったり、人々に提供される導きの総量が低下してしまうことになり」、⇒「衆生のためを総合的に考えたときには女性を僧侶内に入れない方がよい」ということである。
「そんな男性に勝手なことを」という声も聞こえてきそうであるが、ここでの問題は「女性は出家に値しない」ということは全くないということ、「衆生にもたらされる導きの総量を長期的に見たときの比較として」という衆生を思った時の理由から発せられたものだということである。
この「③出家に女性を認めようとしなかった」ということは、こういう理由のものであって、男尊女卑ではないということである。むしろ男性の情けなさが原因だと言ってもよいものである。
(b)輪廻転生を前提とする、出家でなくても悟れる
もう一つ重要な点は、輪廻転生を前提としているということであり、「女性がここで出家できなかったとしても、来世に男性として出家することができる」から、「全体の利益と比較したときには申し訳ないが来世まで待ってもらった方がよい」と考えたということである。
男性に厳しく指導すればいいだけではないかというのもナンセンスである。その厳しい指導をもってしても、男性の情けない問題でそれが限界値であることがむしろ事実としてはっきりしているから、その確かな計算の上で弾き出した結論だということなのである。
そこで「出家できなかったら悟りの可能性が落ちるではないか」、それではやはり女性が一方的に不公平を味わうではないかという意見もあるかもしれない。ところが、これもこの点を見落としている。
それは何かと言えば、
(ⅰ)まず出家しなければ悟れないわけではない、という点である。
これも詳しくは別執筆するが、仏教でたびたび誤解されている点である。在家でも阿羅漢という悟りに到達することは出来る。大乗仏教で言えば、むしろ仏陀になるまでには出家と在家を共に究めていくことが必要であり、むしろ在家としての修行も必要であり、仏が何度も在家をして修行することが描かれる。
(ⅱ)もう一つは、そもそも悟りなど基本的には遥か遠く、出家をしたところで悟れるわけではない(反対に在家でも悟る可能性がある)、ということである。
出家できないことが、悟りに至ることをそれほど遠ざけることではなく、そもそも出家してもほとんどの場合は悟れないというものであって、そのように見れば別に今世出家できなかったとしても、それほど差異があるわけでもないのである。
ただ出家した方が悟りやすさが上がるとか、或いは出家という生き方をする選択肢があるということでは、差別がついてしまうかもしれないが、衆生のかつ長期間の全体最適と比較したときには、やむを得ず後者を優先したというだけのことである。
(c)結局、女性出家が許可されている
そして何より、結局これは弟子アーナンダの要請によって許可される。結局、女性に出家の道が開かれるのである。その結果、仏教が健全に伝わる期間は多少短くなった(そもそもこれも男性のせい)と説かれているが、それよりも女性の出家の道が最終的に優先されたのである。そこで、実際にはその不公平性は解消されている。
ただ、女性出家者は男性出家者より厳しい立場を与えられたことが次なる事実である。これについても、またいくらかに理由が分解される。概ね、以下の三つである。
(A)男性出家者を乱さないため
まずは先程と全く同様の問題であり、単にまだ未熟な男性出家者が乱れて悟りの成就が少なくなり、結果的に衆生全体の利益を減少させることを防ぐために、男性出家者以上に行動制限を設けたものである。
(B)社会通念とのすり合わせ、時代環境上の問題
そして一般的に指摘されるのがこの側面である。仏教は確かに、その時代に無いことを革新的に説き示したものであるが、何もかも当時の社会に対して革新的に貫こうとしたわけではない。真実の道ではないものの方便の範囲内で、社会とのすり合わせをして、衝突が少ないように配慮がなされている。
女性の立場については、当時のインド社会では、かなり女卑的に成立していたものであるから、それがそのまま適用されたものである。
「女性も悟りに同等に到達しうる」ということをはっきり説いているので、その最も重要な点において男女平等が示されていることをもって、根本的に男尊女卑を真理として認めていた訳ではむしろ全くないということの根拠に挙げることくらいしかできないかもしれない。
ただ社会がそのような状態であったという前提から見ると、女性が仮に出家集団においてもそのような立場であったとしても、現代人が思うほどの苦痛などがあった訳ではなかったという面もあるように思う。女性でも同等に悟りに至り得るというだけでも、男女平等性は示されていたものであり、それ以上は全体最適の方便から仮にそのようにあったと考える。
(C)真理から見た、男女の差異
そして、もう一点がもっと奥まで覗いたときに、やはり仏教はある意味では「男尊女卑的な要素を有してもいる」ということである。これについては、以下にて詳しく説示するものとする。
①仏陀には男性しかなれない。(成仏は男性しかできない)
次に扱うべきは、「仏陀は男性しかなれない」という問題である。
これは③の点とは違って「男尊女卑的な内容」ということになるが、これが間違いなくそう説いてある。
「女性が女性の身体のまま仏陀になるという描写は存在しない」といってよい。それどころか、「仏陀の身体が男性であること」や、「男性から仏陀となること」などが説かれている。つまり、「男性の身体に在る状態からしか仏陀にはなれない=成仏できない」ということを説いている。
まず結論から端的に言って「仏陀には女性はなれない」「成仏は女性にはできない」(と経典には説いてある)と言ってしまってよい。仏陀には男性しか成れない。こう言うとやはりかなり男女差別的に聞こえるが、実際にはここには非常に複雑なからくりがあり、結局はほとんど男女の差異はない。そこでこれを説明していく。
悟りには種類/段階がある。
まず指摘するべきポイントは、世間で仏教を語るときによく起こる失敗に、「悟り」というものを一つとして認識することがあるということである。一般/素人には、悟りといえば一つであると思われ、或いはその一つである悟るという状態はそのまま=仏と成るということであると認識されていたりする。
ところが実は、「悟りには段階があったり、宗派等によって認識が相当に異なったりする」。悟る=仏に成るということは別に同じことを意味しないことが多々あるという事情がここにあるのである。
ここでは大雑把に、上座部仏教と大乗仏教の二派に分けて説明することにする。
(イ)上座部仏教:阿羅漢(阿羅漢は男女平等)
上座部仏教では、悟るといえばこの中でも段階があるがそれは置いておいたとして、人々が至ることができる究極の状態は「阿羅漢」と呼ばれるのが一般的である。つまり「仏」ではないのである。
ここにまた諸説ある。(1)「仏」という状態は相当に特別な状態で近しい時代では釈迦しか到達することができず、仏とは少し異なるが「輪廻は完成終結する阿羅漢という状態」に至ることができるという説と、(2)この阿羅漢と仏とは本来同じ意味であって「仏=阿羅漢に人々も成れる」という説がある。一般には一応、前者が主流となっている。
そこで、この阿羅漢という完成終結状態には、男女問わずどちらでも成れると説かれている。
つまり、まずこの点、ここに男女差はない。
ところが仏には男性しか成れないという差は残る。
それはそうであるが、釈迦以外は他の男性も仏には成れない。
結局そういう意味では、男女に結局差異はないと言える。
このようにして仏には男性身でしか成れないとしても、結局のところ男女差は実質的にはないといって差し支えないとも言えるのである。
(ロ)大乗仏教:遥かなる仏道、菩薩(菩薩は男女平等)
ではもう一つの大乗仏教ではどうか。
大乗仏教では、上座部と打って変わって「誰でも仏に成ることが出来る」と説く(阿羅漢という状態は方便であって、実はそれ以上の境地があると説く)。では、いよいよ仏に成るにおいての男女差別の問題が発生するのであろうか。
結論から言ってほとんど問題はないと言える。その理由を説明する。
(ⅰ)成仏とは遥か果てになるもの
「誰でも仏に成ることが出来る」と言いながら、「仏陀には男性しかなれない」つまり「成仏は男性にしかできない」と説かれるとすれば、男女差別的でギョッとされるかと思う。ところが、これは成仏という語句の誤用による問題が大きいものであり、これについてまず説明する。
大乗仏教では、「誰でも仏に成ることができる」ということを説く。
ただし、仏に成ることは確かに出来るが、その「仏」という状態は輪廻転生の「完全な最後の状態」を意味する究極的ゴールの状態であって、「そもそもそのような状態に達するのは果てしなく遠い未来」「そこまでに膨大な輪廻転生や段階がまだまだある」ということを同時に示すものなのである。
一方で成仏という語句について現代で一般化してしまっている用法は、単に「死ぬこと」又は「死んで安らかにあること」をいう。あるいは「死んだら本当にある程度すぐに仏に成れる」ものとまで思っている人がいる。
これは実は完全に誤って伝わってしまった結果であって、私は「成仏の安売り問題」と呼んでいる。
この成仏という語句のイメージの元は、「浄土教」と呼ばれる大乗仏教の一派の説くところに由来して形成されたものだと思う。浄土信仰では、「別の仏の世界(浄土)に生まれ変わって、そこでこの世界より遥かにスムーズに悟りに至ることができる」といったことが信仰される。これが、いつの時代からかこれが曲解されて、或いは僧侶が人を導く方便として説いたものとして、「死んだらすぐに仏に成れる」という内容として伝播してしまったのだろうと思われる。
これは世俗に流れてしまった誤解である。
成仏という言葉はあくまで文字通り、本当に「仏という完成者に成る」ことを言うものである。
それは「果てしない輪廻転生の修行の果てに成就される」「とてつもなく難しいもの」である。
これが本当の成仏の意味であって、今の成仏はその転用や誤解の結果のものであって、別物として切り分けて考えてもらう必要がある。
※浄土教においても、確かに「別の仏の世界(浄土)に生まれ変わって、そこでこの世界より遥かにスムーズに悟りに至ることができる」といったことが説かれるが、これもあくまで「遥かにスムーズに」であって「すぐに」では決してないのである。この世界で仏と成ることを目指すよりは遥かにスムーズというだけであって、それでも膨大な時間を要することが説かれているのである。
成仏とはこのような果てしない未来のことを説くものである。
そこで、仏に成るということは遥か未来のことであるということが大前提となる。
するとこのようなことが言える。
(a)遥かなる輪廻転生の過程では両性である
まずは、これからまだまだ遥かなる輪廻転生があるということになる。そして、そこにおいて両性を経験していくということである。
例えば今男性にあってもこれから何度も両性を経験する、今女性にある人もまた同様である。
とすれば、今の男女の状態など、絶対的な意味のものではない。
(b)男性であれば成仏できるわけではない
もう一つは、男性であれば成仏できるわけではないということである。
確かにもし今世中に成仏しうるような話であれば、男性でなくてはならないことになり、男女に差異が大きくあるようなことになる。又はこれを言い換えれば、「男性であるならば仏になる可能性を有しているようなことになる」ということで男女に差異があることになる。
ところが男性でもまず仏になることはできないし、それどころか遥かに成れない。
故に結局のところ男性であるか女性であるかということにおいて差異はないのである。輪廻転生で両性を経験していくその遥か長い過程にあるという意味において、長い目で見れば全員が両性であるから、そのような意味で男女不平等の議論が無意味化するものなのである。成仏が遥か遠い先のことであり、その長い過程の過渡期に過ぎず、結局は両性的であることから、男女差別の問題は実質的にないに等しいということなのである。
これが第一の理由である。
※ただ何故最後だけ男性なのか、仏と成るには男性である必要があるかは残る。
(ⅱ)悟る=菩薩(という状態を意味することが多い)
次に、大乗仏教において「悟る」という語は、そこにまた色んな段階/色んな説があり、そもそも仏になることだけを指すものではない。仏に成る前に、仏と単なる生命の間の状態として「菩薩」という段階を説き、普通人が悟るとは(仏に成ることは遥か未来の範囲外の究極として)「菩薩として何らかの段階を悟る」ようなことをいう。
そこで大乗仏教で「悟る」とか「成仏する」という言葉は、実際には「菩薩になること」を指すことが実は多い。
浄土教において、「浄土に行ってやがて悟る」といっても、仏になることではなく「最高位の菩薩に至ること」を実は指していたりする。つまり仏に成ることではない。(※仏と一体となることで成仏するというようなことを説く即身成仏などの所説においても、自分自身は結局のところ菩薩であると留めて説いているといえる。)
そこで、厳密な成仏においては男性であることが説かれているがそれは一旦置いておいて、大乗仏教で悟るとはまず第一段階としては「菩薩として悟ること」をいうわけであるが、この「菩薩という悟りの状態」においては、「男女身共に説かれて」おり、女性身も積極的に説かれたりする(例えば主要な尊格である観音菩薩は、女性にも化身する)など、阿羅漢のときの議論と同様に「男女の差異はない」ものである。
最後の仏と成るときには男性身が確かに必要条件であるらしいが、結局その成仏というものは遥か遠い未来に到達するもの、果てしなく遠いゴールであって、その最後のときだけが男性身である必要があるだけであって、実質的にほとんどの者がそこまでの前段階として至るべき菩薩においては男性女性どちらでもよく、そこにおいては男女の差異はないといえる状態なのである。
これが第二の理由である。
以上のような意味合いで、大乗仏教においても実質男女の差異はないといえるのである。
註】男性身が仏の必要条件として説かれていることについて
しかし一方で、その果てしない最後の仏においては男性身が必要条件として説かれていることは、またかえって紛れもない事実である。これが、そこまでの過程における非男女不平等とはまた別段階として説かれている問題が確かに最後に残る。
一応これについて説明しておくと、これについてこれといって納得のいくような明文化された説明はないといって差し支えないと思う。女性身は穢れが多いだとか、苦が多いだとかいった言説は確かに見つけることも出来るが、阿羅漢には男女平等に至ることができるし、菩薩も男女平等に在れるわけであるから、それだけで理由になるとは私は思えない。故にここで、この議論は終わる。
結論
結論は、遥か未来の最後においてのみ男性身が必要条件となるが、その過程においては男女は平等である。そもそも果てしない輪廻転生をするものであって、両性を経験するものであり、そういう意味からしても男女平等である。仮に男性身・女性身に差異があったとしても、輪廻転生で両性を経験していくのであるという意味において、長い目で見れば全員が両性であるから、そのような意味で男女不平等の議論が無意味化するということである。
ただし、何故か遥か未来の最後においてだけは男性身が必要条件になる。
ここにおいて男女不平等の所説が出現するが、結局先に見た全員が両性であるという理由によって男女の不平等性は無意味化している。また、最後の身体には全員が男性身になるわけであるから、現在女性である人もそのときは男性身として生まれることが確定しているので何も不平等性が問題にならない。(また現在男性である人も、今後女性も経験したりするものであって、今世男性は別に男性でもないわけである)
補足:何故仏が男性身であるかについての私見
ただ、何故最後が男性身であるか、一応私見を足しておく。
突拍子もない話をするが、仏はそもそも男性身から成るには成るが、成った状態は中性である。男性器が折りたたまれて体内に収納されて、性器が出ているでも窪んでいるでもない状態になると説かれるのである。性欲は滅して、異性を欲することがなく、心身共に中性的状態に達する。これは仏教が中という概念を説くことと本質的には連動している。
そこでさらに突拍子もないことを言うが、例えば男女は相反する二元のものであり、陽陰とも呼ばれる関係のものである。陽陰の関係になっているものは世界に遍満している。親子、太陽地球、陽子電子など挙げればキリがない。この陽陰的二元のものは、それ以前のそのどちらでもない中性の状態がある。一個体が親子になり、ひとつのガス態が太陽地球となり、中性子が陽子電子となったりする。このとき、そのものによって、中が陽陰に分裂するとき、その中はそのどちらかの性になることが原理により決まっていたりする。一個体が親子になるとき、元の一個体は必ず親になる。中性子は必ず陽子になる。このように、中なるものはどちらかの性に寄っていたりする。(より詳細には、どれが陽陰どちらの性によるかには法則性があるものと私見している)
この輪廻転生においては、中性が男性に寄っているというようなことになっている。そこで中性に至り、性が滅して、生命が滅していくのであるが、男性身から入っていくというようなことになっているのである。
より詳細には、「理論」によってのみ語り得る。
まとめ:輪廻転生と男尊女卑について
以上が、輪廻転生から見た男尊女卑について言えることである。
そこでこれらをまとめておく。
・輪廻転生が事実としてあり、性別は両方を経験していくものである。過去にも両性を経験してきたし、未来にも両性を経験していくということで、全員そもそも長い目で見れば両性である。ここにおいて、男尊女卑というものの意味合いはそもそもかなり変容する。
少なくとも長い目では全員が両性であるという視点からすれば男尊女卑など無意味である。また反対に女尊男卑も無意味である。というよりも、自分がその性別でしかないという見方がそもそも誤りである。LGBTQについても、その現世でのことに過ぎない。
その上で、現世単体においての尊卑があるかということについては別議論が必要と言える。
・そこで仏教で考えると、どうも男尊女卑的な内容が説かれているところがある。そこでこれを説明すると、結局はほとんど男尊女卑はないと言える。(ただし、仏陀には男性身でしかなることができないという、男女の非対称性/差異があることは説かれている。そういう意味で、現世での尊卑ということについては、仏教ではわずかに認められるとも言える。ただし何度も言うが、輪廻転生における両性を前提とした上でのことである。)
編集後記
いかがでしたでしょうか。
なかなかセンシティブな領域について説示しました。
本稿を執筆するのに、1カ月以上経過してしまいました。
何度も書き上げようとしましたが、なかなか構造が難しく、頭では理解していても説明するのが大変でした。
まだ文章として磨き上げられていないので、またいつかさらに洗練して記す日が来ると思います。
【ご喜捨のお願い】
社会の精神的な向上を願って、宗教者の道を歩んでいます。
本物の宗教を徹底して示すべく、厳しくともご喜捨のみで歩んでいます。
この時代の精神面を小さい頃から危惧してやってきて、宗教者として生きることを選択しました。社会や宗教界の流れをよい方向へ直すべく、それらに逆流して、目に見えぬ領域の原発処理班のような心地で、活動しています。
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