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不思議話(3章) 過去世の縁ある人物の生誕祭にて「12年ぶりに顔のひきつりがその日だけ解消する」

不思議話、第19弾。
今回は「過去世系統」です。


過去世の縁ある人物の生誕祭にて「12年ぶりに顔のひきつりがその日だけ解消する」


2023年度27歳のこと(日付は伏せる)。


「顔がひきつる」という霊的現象

「顔がひきつる」という苦悩

わたしは一つ悩みを持っている。
それは「顔がひきつる」ということである。

これは世の人がいう「ひきつり」とは違う。
必死に常に引き留めているが、顔の左半分が常にひきつり続けているのである。よく観察すれば、このひきつりは顔だけではなく、首筋・胸元・左手・左足と左半身すべてに連動している。

これをいつも何とか止めようとしながら、いつも暮らしているのである。
これは実に苦しく(第一の矢として)、いかんともしがたい。

まして、私は人にいつも「笑顔を届けたい」と思っているから、また或いは「法話をしたり相談を受けたり」「人と接してお話しすることが仕事」であるから、顔がひきつることはトラックドライバーのハンドルを握る手がいつも糧に動こうとするほどに難しい問題である。

これが、はじまったのは実に15歳のころ。
つまり27歳のときまで「12年間経っていた」ということである。

原因は何かわからない。
この話はあまりしても意味がないかと思い話さなくなったが、私は15歳当時「人生最大に思い悩んでいる時期」であった。世への怒りが爆発し、家でいつも暴れ叫びながら、内側で気付くことをノートにひたすら書き込むといった日々であった。
誤解を生まないために言っておくが、単におかしくなっていたのではない。成長しきらなくてはならないということを究極目標として、本当の意味で修行していたような時期である。

高校にもまともに通わず、とにかく「内側から湧き起ってくる哲学的・宗教的なことをノートに書きつけ」「真理と人の生きるべき道を問い続ける日々」であった。

そんなストレス過度な日々の中で、いつしか顔がひきつるようになったものである。

明確な境目があったのかは思い出せないが、過度な寝不足やストレス、人間関係の不和などが合わさって一時的に起こっているものかと思って、気にしすぎないで暮らしていた。

一応、精神科にて、それが「ストレス性などのもので治るものか」と何度か聞いてみたが、「原因は不明。治るのではないか?」と言われており、そのうち思索が終われば、ひきつりも治るかと思っていた。

その後三年半かけて、あるときこの思索が一旦完結する。

暴れ叫んでいた時期は、一定超えた頃から嘘のように、思案が深まっていき、また坐禅も修するようになって、後半はむしろ「非常に静かなもの」であった。そんな果てに、「突然すべての思案が結集して、寂静が訪れるという経験をする」ことになった。
(これが仏教に一致していることを確信し、経典で確認して、僧侶となったものである。)

その境地は絶対的なもので、実に安楽で、暴れ叫ぶ境地とちょうど真反対の「静まりきった内面」であった。全ての第二の矢(※仏教用語)的なストレスから解放され、こんなに安楽でよいのかというような内面であって、以降4年間その境涯を愉しんでいた。

治る気配なし

そこでひきつりが治るつもりであったが、一向に治る気配はなかった。
もっと深いところにその根が伸びていて、そこまで解決しないとこれは取れないのかと直感するものがあった。それでも諦められず、何しろ日々において人と話す場面すべてで苦しい思いをするために、なんとかしたいといつも思っていた。しかし、これは治ることはなかった。

時はさらに経っていく。半分は諦めつつ、半分はやはり苦しい。
顔のマッサージ、身体のマッサージなどもしてみるが全然取れない。
内心では、このことが今も日々いつもあるものである。


霊的現象とふと気付く

ところが2023年度の初め頃であっただろうか。
霊的な経験を重ねていった中で、突然気付いたことがあった。

「ん?これって霊的現象(のうち霊障と呼ばれるもの)なのではないか」と突然に思ったのである。
今まで疑いの旅路であったから、そのような可能性を考えもしなかったが、霊的なことを色々と味わった中で半ば確信するものがあった。

そこで、わたしには唯一全力で信頼できる霊感者(Pさん)の方がいたので、その方にお聞きすることにした。わたしは「こうしたことを他者に頼ることを好かない」ので大分と抵抗してきたのであるが、霊的な経験を重ねて思うところがあったので、申し訳ない気持ちいっぱいながらお聞きしたのである。

Pさんは「ちょいと待てよ」と言いながら、目を瞑り指を動かしながら、霊感を開いて見てくださった。ちなみにPさんも、そうしたことをあまり好かない方で、普段は霊感にものすごく抵抗していらっしゃるような方であることは付言しておく。わたしの苦悩を見て、見てくださったものである。

すると反応は意外や意外。
すぐに「笑い出された」。

自己本霊による教え

てっきり私は「よほどしんどい霊でも頼ってきているか」、「過去世・今世の罪障によってそうなっているか」して、深刻なものであって、深刻に向き合わなくてはならないものではないかと思っていたところ、思いのほか単に面白そうな顔で笑われたからである。

「これは面白い(少し笑いながら)!こんなん初めて見た」「高い自己本霊(過去世などの総体のようなもの)が、追い付いてこい追い付いてこいといって、顔をひきつらせているわ」とのご回答であった。
すぐさま腑に落ちて、肩の荷がすっと降りる思いであった。

なるほど「本霊が自分の教育のため」に、私にとって特に嫌なことを敢えてしており、解決したければ原因を突き止めるように模索し続けるしかないようにして、「成長させている」ということのようである。
私の直感としては、「その成長が終わるまでは、多くの人前でわたしは説くべきではない」というお計らいもあって、敢えて私が全力で話せないようにしてあるのだろうとも思うところがあった。

肩の荷が下りると同時に、「追い付かなくてはこれが終わらないとすると、それは一体いつになるのか…」と先が長そうなことに少し残念さも覚えつつ、「覚悟を決めねばならないな」といったような気持であった。


過去世と縁のある(?)人物の生誕祭

それからしばらくして。少し話は変わるが、
私には幼少期から、自分の如くに感じている「ある人物(仮称:義孝)」がいた。

そのことは深く考えないようにしていたが、僧侶になってあるときそれを自覚するような出来事があった。そのときにも、行平のときのように色んな不思議なことに巻き込まれたので、多分自分なのだろうと思うようになった。
はっきりそうとは限らないことは断っておく。
憑依か、縁が深いだけなのか、何かは今もわからない。

その義孝について、今なおその生まれた地域で生誕祭が町をあげてされている。わたしであろうと、なかろうと有難いことである。

そこに奇しくも先日の爽子さんが暮らされており、爽子さんはこの人物に私が縁のあることをご存知であるので、生誕祭の詳細を教えて下さり、連れ添って下さることになった。


藍子さんと初対面

当日、山奥から儀式が始まるということで、そこまで登っていった。
極少人数が集まっておられて、開始時間を待たれていた。
そこに坊主の女性(仮称:藍子さん)がいらっしゃった。

足元は裸足。
現代になかなかの格好である。

反面わたしはそういう方が本当は好きであるので、「いいな、この方は現代のしがらみを脱しておられて強い方だな」と思いながら、突然「縄文時代に戻ったらいいですね」といったことを口走ったと思う。

とはいっても現代人である手前、僧侶をしているとなかなか個性的なスピリチュアル人に出会うことがあって、この人もそういう類の人であろうかと警戒もする。
しかも「にゃーにゃー」などと言っておられる状態であった。
現代人であればどう思うのかもしれないが、私は現代人ではないので、何かわけがあるのかもしれないなと静観することにした。

聞けば爽子さんの知人ということであったので、そこから一日共にされる流れとなった。

次の儀式までは数時間あるということで、そこから義孝と縁の深いところに連れて行っていただく運びとなった。
その最中、眺めのよいところがあったので、そこで大倭祭祀をしたりもした。そのときは藍子さんだけが付いてこられて、横で聴いておられた。


二人で話さないといけないこと

お堂のイメージ(実際の場所とは異なります)

それから色々と過ごしたあと。
突然、藍子さんが「二人で話さないといけないことがありますよね」と言ってくる。

内心ではそんなことはなかったが、しかし藍子さんは「奇人を装っているが奥底はものすごく色々と分かっている」ということは察するものがあったので、本音で何か話し合いたいことがあるのだろうかと思い、「あるような気がしますね」といった回答をしておいた。

そこで、「近くに二人きりになれるお堂がないか」といって探すことになり、すぐに見つかったのでお堂に入り、正座で向き合った。

何やら、今にも怒りそうな顔をしていた。
何を言いたいと思っておられるのか全く分からなかった。

「話さないといけないことがありますよね」と迫ってこられる。
これはなかなか怖い。「間違ってしまっていて危うくなっている霊能者」などは何人も見てきたので、この人もそういう類の人でまた何か言ってこられようとしているのかもしれない。

しかしある意味、もはやその類には慣れているので、今や何を言われてもこちらはブレないから、そのまま泳がせてみるか…と思い、「わかるようでわかりませんが」と答えた。

すると彼女はあきれたような顔で、「では、あなたの中の本体の言葉を代弁させてもらいますね。うるさくて迷惑なんですよ」と厳しい顔で話しはじめられた。

「ああ、わたしの中の人ということにして、何か勘違いされていることで怒りつけたりするのであろう。危うくなった霊能者もどきの定型だから、聞いて流せばよいか。」などと思っていると、

「いつになったら、お前はわたし自身を信じるんだ!胸ぐらでも掴んで、呼び起したい気分なんだ!」と叱りつけられた。

正直、面食らった。

それでも、こうしたことに慣れている私は、「よくそれらしきことを察知してこられたな、随分手練れですごいな」と澄ました気持ちでいたが、半分では先日のPさんのお話もあったので「そういうこともあるのかもしれないか」とも思った。
そこで「いや、分かりますが、こういう霊能者の方を何人も見てきて、騙された失敗もあるのでそれを真に受けるのは無理ですよ」とお答えした。

ところが彼女には私利があるような感触ではなかった。
ただ「迷惑なんだ!という気持ちだけがそこに読み取れた」ので、ああこの人は私欲で言っているのではないのだなということは瞬時に察した。
彼女は「とにかく迷惑なんだ、私が分かるから色々見えてうっとおしい!」といったような感じであった。

そこで、「ここまで根っこから本音で話せる人」はこの時代に珍しいと思い、ずばっと「にゃーにゃー言ったりしているのは何なんですか、怪しく見えてしまう」と聞いてみると、「現代がうっとおしから、変人を装っているんです。そうしておけば人が近づいてこないから」との回答。
ああ、この人は本物だなと思った。

無論、これまでにも記したことのある通り、「霊感があるからといってそれがそのまま全て正しいということは意味しない」。そこにもレベルのようなものがあって、低級な霊感などもあるのであるが、この人は一定信じてもいい人なのだろう。
この出会いは稀有だと思った。

途端に彼女の顔が緩む。
「は~、楽になった。本当にうっとおしかった。もう私の役目は終わり」と嘘のように涼しい笑顔で言っている。わたしは、完全に信じるわけにはいかず警戒だけはし続けなくてはと思いながら、とりあえず彼女からこれ以上怒られるようなことはなさそうだったので、ほっとした。
(わからないものに怒られ続けることは、それがどれほど正しかろうと不健全である…というよりも、そのようなものは正しくないものなのだと言える。)


ひきつり取れる、12年ぶりに。

それから、また次の儀式の場所へ向かった。爽子さんと合流。
その場所について、しばらく休息。爽子さんは、飲み物を買いに行って下さり、藍子さんと二人になった。

今度は意図的に、困らせるように「にゃーにゃー」と絡んでこられる。
私はいつも「目の前の人に合わせなくてはと顔がひきつっている」ので、こういうのは一番ひきつる。(ああ、またひきつりそうなことを…)と思いながら、藍子さんに笑ってみせようかと思ったとき。

顔が全くひきつらない。

「ええ!?」と思わず驚く。顔が全くひきつらない。

いつも気にしている顔のひきつる動きが、全てなぜか鎮まっていて、一切ひきつらない。15歳からして、ちょうど一回り12年も経って久しぶりのことである。

参考までに:記念に自撮りをするように求められた記録(不器量で失礼)

あまりの感動で、嬉しくて仕方がない。
「藍子さん!顔ひきつらないんやけど!」と言う。

彼女が非常に嬉しそうにしている。
すぐさまPさんに言われていた「自己本霊との乖離」ということを思う。

「そうか。先程、藍子さんが自己本霊の言葉を代弁してくれて、自己本霊を呼び起こしてくれて、そのままでいてよいと言われたから、突然治ったのか!」「別に疑ってはなかったが、本当に自己本霊が追い付かせようとして起こしていることであった」のかと信じることができるようになった。

そこに爽子さんが帰ってくる。
「顔のひきつり12年ぶりに治りました!」とご報告する。
爽子さんは「えー!ほんとに!」「すごーい!何があったの!」と大喜びしてくださる。

もう何が何か、わからなかった。
天にも舞うような気持ち、また半面では静寂なる心地である。

「12年悩んできたひきつりが取れるということが判明した」こともまずは喜び。普通に人とお話しできることの喜び=人に伝えていくことができる喜び。自分が自分のままいられる喜び。そして神秘的なことが本当にあるということをも意味することへの喜び。爽子さんや藍子さんのような仲間を得たことの喜び。
自己本霊が追い付いてこさせようとしていることが真実であることへの喜び。これまで感じてきた理論や道程も肯定されたような喜び。生誕祭をいまなおしてもらっていること・人々がその周りに幸せそうに楽しんでいることへの喜び、などが一気に詰まり込んで胸を襲ってきた。

ところが一方では、「明日になれば戻ってしまうのではないか。今日は誕生日プレゼントのようなものに過ぎないのではないか」という一抹の不安もかすかに過った。

そのまま、その日は12年ぶりに心から楽しんで暮らすことが出来た。
爽子さんには、地域の人々や一切の縁に、改めて感謝である。

12年もひきつっていると「神経の物理的な問題が固定化して解消することは限りなく難しい」というようなことが調べると書いてあったので、もはや解消は不可能かと諦めていたが、本当にケロっと治ってしまったので、実に神秘であった。


その晩に緊急搬送される

夜遅く、滋賀のお寺に帰還する。
嬉しさいっぱい、しかし半面では明日にはひきつりは元に戻っているのではないだろうかという直感もありながら、就寝した。

しかし深夜1時頃。あまりの痛さに目を覚ます。
「右耳」の奥深くがとんでもなく痛い。
意識が朦朧とするほどの激痛であった。

山寺で虫も多かったので、虫でも耳に入ったかとゾッとする。
そんなことを考える余裕もないくらい、意識朦朧としはじめる。これは救急車に電話するしかない…、と119番する。

まずは単にどうすればよいかお聞きするつもりが、ここまで来られるという。もう意識も朦朧としていたので素直に従い、そのまま救急病院へと搬送された。

救急医いわく「原因不明ですね。痛み止めだけ出しておくので、また明日精密検査してください」とのことで帰される。隣の檀家さんが救急車の音で起きてくださり、付いてきて下さっていた。

これは少しだけ心当たりがあった。
実は15歳のときに、顔のひきつりに至るには少し時間があり、「まずは喉がおかしくなり」、「次に右耳がいつもトンネルにいるような状態になって」、その後顔のひきつりが現れたもので、「左顔面のひきつりは今もいつも右耳と連動していた」。

顔のひきつりが12年ぶりに突然取れたその反動で、連動していた右耳が急に動いて痛めたのではないかと直感した。
そうなってくると、もはや霊障であり、医学的な範囲のものではないのだろうなと思った。

翌日、耳鼻科に赴いて精密検査を受ける。
「鼓膜が腫れあがっています。医学的に原因は不明です」という診断であった。やはり、そうかと諦めて帰った。

結果的に、顔のひきつりは翌日には戻りはじめ、右耳は一週間で元に戻った。
律儀なものである。
その日特別なプレゼントであったのであろう。「自己本霊が追い付いてこいとひきつらせていることが真実である」ことを身をもって知らせるために知らされただけのことで、「わかったならば、また追い付くまではひきつらさる」といったところであろう。何とも厳しい。

その後、実験として藍子さんと何度かお会いして治るかどうか試してみたが、一切治らなかった。
やはり、あれはあの日だけのものだったのであろう。
今年もその生誕祭にお邪魔したが、やはり治りはしなかった。


余談:長岡天満宮

実は、振り返ってみると、その12年間で一度だけ同様にひきつりが治ったときがあったことを突然思い出した。

21歳頃、「長岡天満宮」に何の理由であったかお参りに行った際のことである。知人と電車に揺られて向かっているとき、突然ひきつりが取れたことがわかり、知人と大喜びした日があった。

こういうのは忘れているものである。
思い出したが、あれも何か縁があったのであろう。長岡天満宮といえば、菅原道真公の所領で大宰府に左遷されるときに「我が魂長くこの地にとどまるべし」と念じたところであり、在原業平としばしば遊んでいた地であるとされる。
何の因縁かは一切わからない。


ここから言えること

以上、不思議話であったが、ここから学べることをいくつか記しておこうと思う。
・霊障というものがあるということ
・霊動:自己本霊とのギャップ


・霊障というものがあるということ

まずは霊的障害(霊障)というようなものがあるということである。

「身体の不調」は現代においては、全て医学的・物質的なところにその原因・解決が求められることが一般となっており、ほとんどそのような視点しかなくなりつつあるものと思う。

「因縁による不調」や、「霊的なものによる不調」などという説は、それで詐欺的商売をするものであるとして怪しまれることが大抵のケースであろうと思う。私も、このような立場をこそよく理解するものである。

しかし、今回の件で可能性のわかることは「身体の不調には、霊的なものもあるかもしれない」ということである。
そこで結論から言えば、「身体の不調には①医学的なもの②霊的なものの二種類がある」ということである。

邪道的な自称霊能者などであればとにかく霊的なことばかりを言ったりするが、それもまた誤りであるし、医学的なものしかないということもまた誤りで、「実はこの二種類あるということが事実」である。

霊的なものは、物理的なものに影響を与えることができる(別執筆する)。
そこで、身体の不調に霊的なものが現れるということがあるのである。

そうなってくると、「霊的不調は医学的方面からは解決しない」ことになる。医学的に原因不明な病気の中には(原因が分かっているようなものの中にも)、霊的な障害による不調があるものと思われる。

これにも色んな種類がある。
(1)他者霊体が作用してくる
(2)先祖の不調が反映される
(3)霊動:自己本霊とのギャップ


(1)他者霊体が作用してくる

まずは最もわかりやすいケースが、「血縁などがある訳ではないという意味での他者である霊体が、干渉してくる」というケースである。
一般に「憑く」というタイプのものである。

例えば、本稿でも紹介した「狸霊の棲む木」というエピソードからも想像がつく。
力のある狸霊が棲んでいる木に配慮を欠いて何か邪魔をした際に、他者霊体である狸霊の不満が爆発して、物理的な作用を生じて母をこけさせて骨折させるということがある。

「物質は、実は霊から発生している」ということが今はまだ科学で明らかになっていない深い事実であるが(こちらの記事参照)、これと関係して「霊界から物質界に作用することが可能である」ようである。

それが信じ難い理由としては「干渉できるならば何故頻度が低いのか」といった問題があるかと思う。回答するに、
①一応別の世界でもあって、干渉できるといってもよほどでなくては強い干渉はしないようになっているから。
②プレゼントは時々しかない。反対に不満もときどき爆発する。大病もときどき発症する。といったようなことと同じである。
③不満を言いやすい相性の人と、そうでない性質の人がいる。
といったところを簡単な理由として説明しておこう。

そこで、霊界から病気を引き起こすということが可能である。
これはまた4章で、日聖師のされていた不思議話を引用して、色々と紹介しようと思う。

私の母も熱を出したり肩こりが酷いときに、それが霊障であるケースがあったようで、「念じた途端に治る」ということを定期的にしていた。
それが激しい場合には、神経系などに強く作用していって、「頭痛を引き起こしたり、精神障害を引き起こしたり、胃を荒らしたり、癌化させたり」することが出来るようである。

これは鎮魂供養することによって、解消する。


(2)先祖の不調が反映される

次に「先祖の不調が反映される」というケースである。

「先祖が苦しんでいるから、身体の不調が起こっています!」などというのは邪道的な霊能者などがよく言い出すこととして非常に敬遠されがちなこととなっている。わたしもこれを手放しに受け入れられるようになったのは、こうした経験を自身が積んでからのことである。

これは事実である。
それを「邪道的な者が、悪用しているだけ」のことである。目に見えない領域のことであるから言いたい放題、事実でないことを沢山言っており、それが故に「先祖による霊障」という現象自体が事実でないかのように曇らせているが、「先祖による霊障自体は事実である」のである。

疑問がつきないことは分かる。
いずれ全ての疑問を取り上げて、全てに回答したものを執筆する予定であるから安心されたい。ここでは、ほんの少しだけ説明することにしよう。

先祖というものはまず本当に存在する。
霊体は情報のようなもので、その領域に永遠に存在する。
また転生は一回一回のおでかけのようなもので、一つ一つの転生は別物であり、転生しても前の霊体はそのまま永遠に存在するというようなことになっている。
これまでに生きた全ての生命の霊は、本当に永遠にここに同時に存在している。ただし、この世の時間とは別の仕組みになっていたり、色々と物質界とは原理が異なっているから、これが実に理解しがたいことになっている。

そして先祖は霊としてここに本当にいて、死後は世界をそのまま眺めており、それぞれの霊的存在をしている。そこで「子孫の行く末はいつも見ており」、「はっきりとはあまり干渉してこない祖父母のように見守っているが如き状況」にある。

そこで「先祖が子孫を苦しめるなどということは一切ない」。
では何が起こって、先祖から霊障が起こるのか。

先祖が苦しみや不満を抱えて死後存在するとする。
すると、その苦しみや不満というものが、自ずから子孫に連動して作用するというようなことになってくる。例えばいくら祖父母が干渉してこなくとも、家に存命で不満が強くあればそうした空気は勝手に孫に反映もされるであろう。

このように苦しみなどが連動し、勝手に作用してくるということが起こる。これもまた、いつもとは限らない。子孫の中に相性のよいものがいて頼りたいという気持ちが大きくなったりしたときに、その苦しみがそのまま現れてきてしまったりする。そこで、一族の中でその霊障を受ける者と受けない者があったりする。
また苦しみは突然爆発してしまったりするように、時期が来て突然その霊障が起こったりするということになっている。

苦しんでいる人がいれば誰にでも出ていったりいつでも出てくるようなことにはなっていないのである。
これは人体の医学的不調でもよくあることであろう。不健康な食生活があるとき病気の形になったり、どれほどウイルスのある環境にあってもたまたま免疫があれば感染しなかったり、身体の不調もよく考えれば複雑怪奇な縁によって複雑に起こっているはずである。

ところが霊的なことになると目に見えない範囲であり分からなさすぎるがために、こうしたことが訝しく思われてしまうだけなのである。

これも鎮魂供養することによって、解消する。


(3)霊動:自己本霊とのギャップ

そして、(1)(2)で見た他者霊体ではなく、「自分自身の霊体」による霊障である。

「過去世の霊体」が起こしてくることもあれば、「さらに本体である自己本霊」とのギャップが不調となって出てくることもある。前者は(1)(2)とも重なるものであるが、この後者が少し特殊である。

この後者、こうしたことによって引き起こされる動きを、日本では昔から「ふるたま(日聖師は現代的には霊動という語も採用している)」と言う。
自分の本心と、表に見せているものが乖離していると顔がひきつったりするように、「自己本霊と潜在意識に乖離があると、その歪みから通常でない動きが出て来たりする」ことを言う。

わたしの顔のひきつりがこれにあたる。
自己本霊が追い付いてこさせようと、顔をひきつらせているということである。
これは「自分が必要水準まで学び成長することで解消する」ということである。

わたしは今なおその格闘中であるから、解消していないが「一日だけ」解消を見せてもらった。
この格闘が、後に色んな人の一つの見本事例となることを、ひそかに願っている。


龍神の雨

また、情報が過多になるので敢えて飛ばしたが、この日ひきつりだけではなく「大雨の神秘」もあった。

山奥まで入っていった儀式のあと、その帰りの参道にて磐座があり、その脇からその奥へ上ることができたのでそこへ上って、大倭式の祭祀を行った。このとき「龍神さんを感じる山」であったので、今日の生誕祭では雨を降らす訳にはいかないから、ご挨拶があるようであれば「屋内に一時いるときにでも固めて降らせてくれないか」といったことを頼んでおいた。

その後、一通り様々なところを巡礼したあと、爽子さんのご招待で昼食を呼ばれることになった。

食事をしていると、いきなり大粒の雨が降り始めた。
「きたきた、有難い」と思って外を眺めていると、雷までどんどん鳴ってくる。

店に並んでいたときはそのような空気はなかったから、偶然である可能性はあるとしても事実として、「店内に入ってから途端にそのような雨模様となった」。

食事が終わるころに、突然にして止む。

「ああ、龍神とは本当にこのようなものであろうか…」と姿は見えないながらも思ったものであった(日聖法主は普通に姿が見えていた)。

無事、その後の儀式やお祭りは、晴れた空のもとで行われ、顔のひきつりが取れた一日であった。


まとめ

いかがでしたでしょうか。

「自己本霊がいる」ということ、「そこに乖離があって成長する必要があると、不可解な動きが起こったりする」ということ、「それは解消しうる」といった話でした。

またこのことから同時に、「身体の不調には霊的な障害というものもあって、そういう方向から解消されることが実は知られていないだけであるのですよ」という話でもありました。

皆さんのお役に立ちますように。



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