食べ物への感謝(24.12.13呟き)
最近、禊をはじめている。
仏教(僧伽)がまともに機能しなくなって、その教えの実践はほとんど途絶えているといって差し支えない。
一部はまともに存続もしているが、全体はそれ以上に広がったものである。
修行は、ほとんど機能していない。
また社会にも浸透しておらず、思えば今回生まれてきたこの時代は、はじめから宗教的精神が消滅或いは忌避されてきた環境であって、私はその中を迷妄しきた。そして、多くの過ちをも成してきたといえる。
そこで、最近はここから=29歳となる頃から、修行をやり直さなくてはならない、この時代における迷妄という修行を終えて、やっと正しい修行を始めるのだという心持ちになっている。
既成仏教が墜落したその中から、朽ちた木から芽を新たに伸ばすべく、堕落した中からわたしは新たな道を行きたい。
という流れで、わたしは禊を始める決意をもって、最近新たに道を歩み直しはじめている。その行く先は全くわからないが、わたしの中での最善手、世界にとっての最善手であることだけは終生確信するものである。
最近していること
そんな中でしていることが沢山あるが、全ての言動或いは心の動きを一つ一つ、それが法に適うものかを問うようになりはじめた。
また或いは、己をなるべく空にして、そこで言葉が出てくるのを待つということをしてみたりする。すると、自分が自覚していなかった罪や気付きが浮かび上がってきたりして、学びがとても大きい。
また先祖供養、霊界供養を正しくするようになった。これまで、ほとんどまともに出来ていなかったと思う。これも、私なりの一つの修養で、自問自答を果しなく続けてくることがこれまでの自分に必要な過程であったから、ともいえると思っている。
それでも時に、それが必要であることを知っているからして、供養事はよほどのときに成してきたが、やはりこれらは常日頃より成すべきことと思う。
しかも日本においては、である。これについてもまたそのうち執筆する。
まあ、これら以外にもしていることは沢山あるが、それらは切り上げるとして。
食べ物への感謝として、思ったことをわずかながら記そうと思う。
食べ物への感謝
最近は食事をする度に、柏手を打ち、各御霊を思い浮かべてお先に召し上がってください等と念じるようになった。
すると現代的な意識が遠のいて、本来自分や祖霊の持ち合わせる感覚が素直に表へ出てきて、食生活が変更されるようになった。
わたしは兼ねてより、質素な食事が大好きで、本当はアワヒエ玄米など、ほうれん草など、里芋などを少しばかり食べるというような献立が好きであり続けてきた。
しかし現代では、かえってそれの方が難しいという事情がある。家族の中で生活すれば、そのような献立は周りには強制できないし、現代生活と歩調を合わせるには色んなことで歩調を合わせておかなくてはいけなかったりする。
そこで、このような食の好みは定期的には実現させるとしても、ほとんど日々の中では奥底に押し込め続けてきたが、いよいよ決心して心の通りの食生活になるべく近づけようとするようになった。
そこで里芋、玄米などを頂くことにした。
供養のあとに、よくカミを念じつつ頂いていく。
昔からそうであるが、この時代に食事量が多いことに私は内心ではいつもたまげている。

今だって、お椀の中に平然と里芋が、半分に切ったものが3つも入っている。このようなことは昔はあり得ないことであった。
こんなに大量に食べることが良いことのようかに思われているが、それこそが成長期の反抗期であって、実はそうではないように思う。
自分の最も素直な心から里芋をいただくとき、このような念を生じた。
普通は食に感謝というとき、生産者への感謝とか恵まれていることへの感謝とか、自然への感謝とかいうことになると思うが、それと似て非なる発見があった。
里芋が、いかなる気持ちで育って、いかなる気持ちで私に、人々に食されているであろうかと、里芋一つの気持ちの側から見るような心が生じたのである。
植物が育つのだって、簡単なことではない。
人は外から植物を育てて、育ちやすい環境を与えて、現代ではもはや単なる物体として大量に育てたりするような感覚から見がちであるが、
個々の植物からすればこの世界に生まれ出て、わたしたちが必死に育つように、苦労があって育っているのである。紛れもなく命であって、人がいかに錯覚しようとも一つ一つのすべてが生々しい命である。
そのように苦労して育ってきて、大量に物体のように食べられて浮かばれるわけがない。人間は、人間の奴隷制度を否定するようになりつつ、結局は人を奴隷のように使ったりしているが、植物をこのように扱っているのも奴隷のように使っている一つのすがたである。
それもカミが起こしている、カミにはじめから内在するものの発現であるのであるが、それはあくまで相対的になっているマイナスの方面の発現であって、最終的には克服されなくてはならない部分なのである。
里芋の、一つ一つが苦労して育った里芋側の気持ちを知るとき、真の感謝の片鱗を知った気がする。現代人が忘れきっているが、本当は思い出さなくてはならない真の感謝というものが恐らくあって、その入口だけでも見た気分であった。
植物は、人に使われることも使命であり、それもまた彼らにとって喜びなのだそうである(日聖法主)。ところが、それは適切に使用されるときの話であって、粗雑に使われるときにはそのようではない。
里芋は、適切に食べられるときにはその使命を美しく果たして喜びもあるであろうが、粗雑に食べられるときには何か違和感のあるものが発せられていることであろう。
そのように知るとき、世界のあちこちで長期間そうした良くない霊波のようなものが発せられてきたであろうことが知られる。その前には古代人の長い長い歴史があるのであって、たかだか数百年数千年の歴史などは僅かな時間であろうから、譬えば長い人生における思春期のようなものであろう。その間に蓄積した膿は、その後しばらくして取り除かれよう。
人類もどこかで気付いて、その浄化に目覚める日が来る、そしてそれが叶うことと信じるが、だからといってそのままにしていてよいわけではない。
気がつく者があるならば、その者から努力していくべきである。思春期の心の中にも大人になる心があって、それが少しずつ芽生えていくように、全人類の中で気付けるものが気付いていくことで、全人類がやがて気付くものである。
里芋一つからこれを学ぶとき、米粒一つ一つを見て、ああ何と一つ一つ尊いことかと思われる。

こめ、の語源には色んなものがあるが、
最も古くはイネという。
イネとは、イのネであり、イとは命(イノチ)にも使われている生命を意味する音であり、ネとは尊いものや根っこに使われる音である。
まさに、日本人にとって米とは、生命の根なのである。これが訛って、ヨネとも言われる。
コメは、小さい実(コミ)から来たとも、小さいもの=込めるものからコメといったともされる。小さく凝縮することを、こめる、こむ、と言ったりするが(渋滞の混むもこれである)、雲(クモ)もこれに由来し、もっと言えばカミ(全ての根源としてこもっているもの)が同語源ともされるから、コメもまたカミに近しい音から来ているかもしれず、古代人の考えがなんとなく思われる。
食べ物をいただくとき、生産者や大きな自然そのものを念じることもよいが、一つ一つの素材の成長を思って、カミ(分かれでた親の方)から与えられているものと理解して、頂くとき生命が調うであろう。
それは死後に思い知る、また人類のいつか科学が霊性に追いつく未来に思い知ることであろう。
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