わたしは二人いる。
(※2024年11月29日の執筆であり、現在はまた別)
今日は、わたしの抱えている思い、を記します。
わたしが、私をどう見ているか。
わたしは、どのような使命で生きているか。
或いは、不思議なことがこのようにある、
といったことを記しました。
自分のことがよくわからない
わたしは、僧侶である。
仏教の教え人、をしているのである。
一般家庭に生まれたものである。
この現代では、一般家庭から僧侶になる人は少ないらしい。
そんな、あべこべになることがあるのだなと驚きもする。
(昔は、僧侶は非妻帯で世襲など真反対のものであった)

そんな時代に生まれて、わざわざ僧侶として生きていくからには、
訳があるのだろうということであるが、そのとおり訳がある。
わたしには過去に生きていた感覚が非常につよくある。
わたしは、皆さんとそれほど変わらない。
この現代に生まれて、義務教育を受けて育ってきた。
多くの皆さんと同じような教育をうけて育ってきたのである。
こんな剃髪をして、一応袈裟を着けたりして
人前に立っているから、同じ血の通った人間だということを
忘れられているような感じをたまに受けることがある。
もしわたしが髪を伸ばして、青年の格好をしていたら
そうした皆さんはわたしをただの28歳の成年男子として扱うであろう。
血の通った、同じような存在として見てくれるだろうと思うのである。
ところが剃髪をしているだけで、どこかそうでない空気がある。
そんなことは全くない、本体は何も変わらないのであるが。
わたしの珍しいところ(自覚)
ところが、わたしはやはり世間とは異端なところがある。
よければ宗教的真実を伝える人、あしければただの妄想者である。
わたしは、内面では確信しているから正直全く疑いはないが、
それでもこの現代では珍しいことは承知しているので、
一応人々に合わせて自分のことを深く疑いもする。

わたしは、過去に生きていた感覚があったり、
不思議な体験をときどきしたり、
仏教を勉強せず知っているところがあったり、
何かとおかしいようなところがあるのは実際である。
ところが、それに対してわたしは半面では、正直自分のことがよくわからない。
わたしの奥深くに眠る、呼び覚ましてはいけないと感じるような何者かは、
わたしのことも世界のこともよく知っているように思う。
ところがそれは呼び起してはいけないと、現在意識のわたしは弾くのである。強く強く、自分で押し込めている。
わたしは二人いて、どうやらとても苦しい。
わたしは、もはや自分で、これが妄想なのかどうかわからない。
自分のことを信じ切るのが、この現代に生まれた脳の方は怖いようである。
私の中で叫ぶ何かは、人の先頭に立つ役割をしてきた人が多いらしい。
あえて他の言い方をすれば、そんな過去の人の業を強く受け継いでいると感じ続けながら生きてきた。
それを仏教では、輪廻転生というのであろう。
ところが現代では、そのようなものは危険視されており、
もしそのようなことを開放すれば、自ら”魔女狩りに遭う”であろうと、
身のすくむ思いで、これを隠して生きてきた。
飛び出す釘を、自らに無理に押し込めば、どこかが傷つき、それを誤魔化すためにどこかが変形し、それが外部に現れてそこでこじれも生じたり…と悪循環に至るばかりである。
それでも、開放して生きづらくなるよりは、悪循環の方がましであろうとこれをひそかにしまい込んで、大人まで育ってきたのである。
もっと言えば、なぜそのような人生を経ているかについて、
「この時代の人々のことをよく理解せよ、寄り添ってあれ」
「そこから抜け出して、その見本を見せよ、人々の勇気ともなる」
などと幼少期に自覚し、自覚しながらそのように悪循環を致し方なく受け入れるという心で生きてきたものであった。
母はそれを真横でよく知っている。
ゆえに、わたしが誰々だと話しても、
そうでしょうねと言われるばかりである。
というよりも、母本人もまたその類から生まれてきた人であろう。
過去世の罪障とこの境遇
昔はこれが、自分でとにかく苦しかった。
「なぜこの現代はこのような無宗教的状態になって」おり、
「なぜ私はこのような思いで生きていかなくてはならないのか」。
役目としてのものは分るが、それだけでは説明がつかないほどに苦しい。
なぜ勝手にこじれていかなくてはならないのか、と”世を恨めしく”も思ってきた。
役目もあるとしても、それ以上の何かがあり、それを自覚できず苦しんできたものがある。
今となってはこれは、内心のわたしはこれを知っている。
そのような生まれをしているのは「過去世の罪障」によっており、「自分の型で祓うために」このような苦痛を負ってきたのであると。わたしにはわたしなりの罪障というものがあるのだ。わたしに罪障があり、また「その種があるから、そのような環境を与えられ磨かされているのだ」と今ははっきり判っている。やはり自分のせいもあったから、このような境遇を与えられてきたのだ。
これが昔はわからなかった。自覚している役目のものとして以上に、苦痛があり、正直世を恨めしくも思ってきたのである。自覚する役目のようなものであるならば、罪障などはほとんどないはずだろうと思っていた。今となって、成長してきたことでこれをよく分かり、過去世の罪を少しずつ自覚して、祓っていくその過程をも日々陰ながら踏んでいるのである。
このように私は押し込めて生きてきたというのが、自分としての実感であるが、これも本当のところは真実か妄想かよくわからない。
わたしが幼い頃に体験してきたこと
わたしは幼い頃、色んなことを体験した(と今は思っている)。
お釈迦さんがいつも横にいたし、キリストさんが出てくることもあった。
僧侶としての自覚があって、仏教のことをわかっているという自覚があった。
過去世に断食を随分して食べなくてもよい身体になったから、一生少食でやせ型であるが心配しなくてよい、と過去世の僧侶に言われてみたり、
本当にいろんなことを体験した。

古墳を見て歓喜し、幼児でありながら庭に前方後円墳を作ったり、
俳句・和歌に出会って歓喜し、幼児ながらこれらを詠もうとした。
また大坂城に訪れては歓喜し、豊臣をこよなく愛し徳川を嫌い、日々「天下統一」を叫んだ。「人のやれんことをやれ、見えんものを見よ、天下を取れ」とよく叫んだ。
明智光秀や豊臣秀吉の和歌が好きで、雨で曇る車中の窓によく書きつけた。
ところが、自分でこれを振り返ってみたときに、前者の「内面でしかわからないような範囲」についてはやはり妄想であったのではないか、或いはどこかの時点で気付かず記憶を変更したのではないか、などと思うことがあるのである。
今ここに記したようなことはまだ可愛い範囲で、それ以上のこと(後述する)を内心で声なき声などから聞いたという認識が、妄想か真実か、心にある。
時間も経ってきて、人々に話すようになったときに、ときどき立ち止まって「本当なのだろうか、妄想なのではないだろうか」と一応チェックしようと最近してみたりするのである。やはりわからない、全くわからないのだ。
ところが現実として、後者のようなタイプのことがあるということも確かである。これは客観的証拠として、やはり異常な幼児であることは確かであるから、妄想ではなく内面にあのようなことがあったと認識しているのは、やはり当時の事実なのだろうとも自分を慰めてみたりもする。
しかしこのような幼児はまれにいるし、たまたま知能がそのように適合してあのようにあっただけだという可能性も、全くゼロとは言い切れないような気もする。(もしくは、そんな同輩たちも、過去世のものが強く現れてきた同士であるだけの可能性もあるかと思い、少し面白くも思ったりもする。)
このような感じで、
わたしは当時の内面について、もはやわからない。
妄想か、真実か。そもそも真実であっても、それが妄想かもしれない。
このように、わたしは人前で一応堂々と当時のことについて語ることもあるが、内心ではこのような葛藤があることは記しておこうと思うのである。
これもまた、現在意識のわたしが、まだ抵抗しているだけかもしれないが、正直なことはなるべく記しておきたいのである。
これが後の参考資料となることもありえよう。
幼児期の聞いたつもりの天啓
今はまだ軽めの内容だけを取り上げたが、
この極めつけの内容として、聞いたと自覚していることがこれである。
5歳だった頃、幼稚園から帰ろうとするその門前にて。

釈迦が目の前にいる気がする、キリストも目の前にいる気がする。
初めて二人が同時に前に上からスーッと現れて(向かって釈迦左、キリスト右)、
このように言ってきた。後で記憶変更した妄想かも、真実かもわからない。
”われらの説いていることは、一つである。
また同じように、正しい宗教については、それらも実は一つのものである。
次いでこの時代は科学が隆盛しているが、科学も実は根は一つのものである。
これらは全て統合して示すことができ、
その統合的視座の理屈の方面を示すのが汝の使命であり、
汝がこの時代に生まれている意味である。
この時代は、宗教に対する反抗期の時代である。
故に、衆生に納得せしめられるよう、
むしろ汝をこれから誰よりも疑う心に変じる。
自分自身と宗教的なものを誰よりも疑い抜いて、闘い抜いてこい。
その先に、示せ。”
”その仕事を果たすために、お前には色んな能力を与えてある。
頭脳、運動、書、歌、絵…その他何をしても、人並外れて出来るように作ってある。
これは汝の過去に積んできた膨大な功徳により実現することである。
そのことを汝はよく知り、今後も思い知って生きていくであろう。
また、この予言とその能力が、汝が疑っていく旅路において
何度も思い返しまた自分事として実感し、信じる軸となり続けるであろう。
心して、かかれ。”
などと述べられたのである。
やはり妄想かもしれない、笑い飛ばしてもらってよい。
ところが、このことはやはり内心のもっとも軸となって、その後の大人に育つまでの間、「常に実感」し、また自分が「宗教的なものを徹底的に疑いながら強く信じる心の軸としてあり続けた」のである。わたしの人生において、もっとも強い軸はこれであり、これだけに貫かれている人生だと言って差し支えない。
このような内容で困ったことであるが、やはりどうしようもない。
これが「自分の妄想だとすれば大罪であると思い、自分で恐ろしい気持ちもあって、妄想ならば取り除きたいと心から思ってみても、少なくとも今のところは取り除かれず今日に至っている」。
というよりも、現代人として、自分のことが恐い。
このような預言を聞いて、素直に信じられるなら、よほどおめでたいであろう。
自分が誰よりも自分を疑っている、まだその過渡期にある。
かなり薄れたとはいえ、かえってこの預言通りに(悔しいが)、自分を誰よりも疑い続けているのである。
はは、おかしいものだ。
わたしは、やはりわたしが恐い。
誇大妄想ならば、はやく解いてほしいものである。
真実ならば、わたしが私を閉じ込めて、可哀想なものだ。
(1)自分を疑いもする理由
実際、わたしは、結構ポンコツである。愚劣な側面もある。
うっかりも多いし、人名など全然覚えられなくなってきた。
根性があるところもあるがないところはない。
勉強も出来るといっても、上には上がいる。
運動にしたってそうである。
「仏教」にしてもそうである。
ここがまた心苦しいところであるが、
わたしは過去世の本人ではないので、
完全な記憶があるわけではなく、
本質を感覚として知っているだけであり、
それが現在の成長と共に形となっていく手順が必要である。
漢文も完全には読めないし、読めそうにもない論が沢山ある。
禅定も深めきれない、今のわたしの段階ではというだけかもしれないが。
「人格」にしてもそうである。
内心では自分の立派な側面も大いに知ってはいるが、
純粋に至らないところも多々である。誠に多々である。
この時代の常識などは相手ではないが、法のもとに至らぬ自覚がいくつもある。
根性がはっきりしきらないのも、この一つである。
他にも至らぬところなど山ほどある。
過去世との関係がどうなっているか今ではわかるから、この仕組みもわかるがこれはまた別執筆としよう。
「神通力」など、まさに至らない。
わたしには神通力など、今のところは全然ない。
いや、あるし、不思議なことも一定あるが、こんなものでは「ある」とは言わない。
他者のことを見て、先祖代々の霊が見えるなどということもないし、
その人の問題や解決策をそうした視点からはっきり知ることもできない。
人並みかわたしにしかできないような相談相手をしたり、解決できることもあるであろうが、こんなものでは決して至っていないとよく思うものである。
このようにわたしは、結構ぽんこつである。
決して、大菩薩のような状態を示しているわけではない。
愚劣なところもある。そうした種がどこかにあるから発芽もするのだ。
そこで、自分を疑いもするのである。
(2)色んなものを確信している
ところが、やはり実際には、わたしは色んなものを確信している。
疑いきったときに、やはりこれが目覚めてくる。
やはり、あるものが、「ある」のである。
・「善悪の基準」
例えば、「善の基準」について人より判っているものがある。
何のことやらという感じであるが、
法(真理)のもとに世界には真実の善悪の基準のようなものがある。
死するとき、これに裁かれて、赴くように赴く。
この真実の基準は、完全には仏にしか知られないと経文にある。
唯仏与仏(ただ仏と仏のみ)が知って、菩薩は完全には知らないという。
ところが、わたしには一定のものが分る。
これは世間のイメージするような善悪ではない。
むしろ、度々相違するものである。世間が追い付いていない。
そこでわたしは、これに基づき行動する。
昔からこれだけはどうしても変えられない、ここが面白いところでもある。
知ってしまっているものは変更などできないし、
合わせて真実の罪を作るのが嫌だということもある。
方便で合わせることはしょっちゅうである、これは罪にならないことを知っているからだ。
ただし、この基準に絶対に従えるわけでもない。
基準を知りながら、罪を作ることもある。
このズレは参考資料として記しておきたいものである。
また、やはり基準を完全には知らない。
わからないこともある、ただ圧倒的に分っているというだけのことである。
・仏教のことが直感的にわかる
また、仏教のことが直感的にわかるということも確信できることである。
仏教のことが、表に出ないだけで小さい時からずっと心にあった。
そして、勉強せずとも埋め込まれているという確信があるのである。
文字上のことでは、確かにわたしより詳しい人間など山程いるが、
このように識に埋め込まれた感覚のある者はあまりいないであろうし
またその埋め込まれ方が、内心異常なものがある。
言葉に出来ないだけで、本体はものすごく知っている「気がする」。
実際、高校時代に何も見ないで自分の内だけで思案した結果、
勝手に縁起を見て、自分で使用した概念が後になって調べて
ほとんどそのまま仏教にあった。
また或いは、この時代に知られていない方面から知っていることというものが内心には実は沢山あって、なぜこのように伝え間違っているのだろうかとか、なぜ要点を間違えてあまり重要でないところばかり知られているのだろうかとか、そういうことが沢山ある。
また、自分の内から発見するとき、これはどこかに書いてあるだろうと思うことばかりであり、実際に調べてみてその通りに書いてあるのである。数学で言えばラマヌジャンみたいなところがある、見る人から見れば異端と言いたくもなりかねない。しかし、わたしから言えば、むしろ霊識に行を積んで知った感覚ごと埋め込まれていて、これこそ正当と増上慢で言いたくもなる。
これだけは、たしかなもので疑いの余地がない。
疑いようもない。勉強する前から知っていたものは知っている。
これが輪廻転生でなくては、何であるのか説明してほしい。
このことも確信できることの一つである。
・大倭というところが日本の根源であり、世界の根源でもある
これは一寸、本題ではない話になってしまうが、これも確信することの一つである。最近記しているもので、大倭というところがある。矢追日聖という人がいる。そして、これは仏教そのものでもある。
(https://note.com/enman1204/n/nb240cee434a2など)
何故か自分のあれこれは疑いも挟みうるのに、この大倭に関してはやはり直感がわたしの理屈頭脳を超えて、これが正しい!(正しいなどというのもおこがましい、むしろ生みの親である)と言っている。
これもどうしようもない。この理屈主義、懐疑心のかたまりのわたしでもって、理屈の方が偽物だと思うほどである。
これも確信することの一つである。
・その他の確信
他にも色んな確信がある。

・輪廻転生の確信。自分は生まれ変わっているし、動物生命はみな生まれ変わっている。
・自分の輪廻転生の何となくの自覚。その大きさ。
・宗教なるものは真実であり、ただ一つのものであり、これが別の姿を示している。
・世界はいずれ良くなっていく、今は反抗期の最も厳しい谷底である。
・日本神道は真実である、仏教と神道は一つである。今の日本神道は変形してしまっており、古来の日本神道がある。しかもそれは奈良県富雄の辺りにある。
・釈迦はこの世界の創造主である、キリストはその長男である。ムハンマドは弟である。など
このようなことは正直、確信しているが、一応疑っている体裁をとっているものだと思う。こうしたことを、やはり確信してしまっているのである。
(疑う心の方がしんどいものだ、これも修行だと内心が叫んでいる。)
(3)客観的実証が与えられる

このように、わたしは確信する気持ちと、疑う気持ちの間で常に引っ張り合われながら生きてきた。
これが内面の実情である。信じる気持ち半分、疑う気持ち半分。
このシーソーがどちらかに傾いて楽になることは一度もなかった。
ところがこれに、「客観的事実」の方面から、「信じる気持ちを肯定するような実証のようなことが起こり始める」という出来事に、また見舞われるのである。
それは25歳の頃から27歳までの2年間ほどのことであり、
大変不思議なことを沢山経験させられるということがあった。
これについては、本も執筆中であるし、
また一つずつ参考がてら記したいと思うが、
一応重大であったものを二つ記してみようと思う。
・道標、プレゼント(八坂神社でのこと)

最もはじめに起こったことは、たしか25歳秋頃のこと。
日々「あらゆる宗教と科学を統合する理論」について思案し、それがほとんど形になってきて信じられるような心が開いてきたころであった。
カフェに行って執筆しようと京都市東山三条あたりを歩いていたころ、突然八坂神社から「来い」との声なき声がする。どうやら神を名乗っている、あるいは自己の内部の最高潜在意識(神の分け御霊)かもしれない。
「ここまでよく頑張った。これからその道標として、或いはプレゼントとして不思議なことを起こしていく。心して受け取るように」と言っている。夜中八時に神社になど行くものかと思ったが、「道標、プレゼント」という説明に納得がいってしまって、聞く気にもなってしまったのである。
わたしは現代人として「奇跡が起こせるならば、なぜもっと起こさないのか」などといった懐疑心を持ってきたのであるが、「道標、プレゼント」というならばそれが時々に、或いは一部の人に(全人類をひとつの人とすると、一部の人も“ときどき”と似た意味になる)起こされることが納得がいったのである。
そういうならばと思い、八坂神社に行ったところ、本当に不思議なことを起こされてしまった。
(temple morning radioさんにて色々話したものが、こちら)
その詳細はここでは省くが、確かに不思議な出来事であった。
ただし現代人として意地でも疑おうとすれば、どこまでも疑えるものであるから、納得はしたし驚きもしたが、完全確信をさせるものではなかった。
ただ、このできごとから「使命の人への道標、プレゼント」という説明の通り、来るならば来いと受け入れる扉を開くことにしたのである。
その結果、そこから二年間ほどは、不思議なことが連発した。
一度や二度であれば偶然と片づけることもあろうが、ここまで連発してはさすがに信じることになる。
本当に色んなことがあったが、それはいずれ執筆していくこととして、
最後のきわめつけを、記しておく。
・最後のとどめ:大神神社にて霊的な稲光が感光しつづける
最後の決定打は、2023年2月(27歳)の誕生日の一連の旅において起こった。
検証不可能なことではなく、物的証拠が与えられるという出来事が起こったのである。
小さい頃からよく聞き、目にもしていたこととして、霊的なものはカメラに感光することがあるということがあったのだが、これを自身が経験しiPhoneにて感光し、物的に残ったのである。

大倭という、古来の日本神道が残っているところの話を最近記しているが、
大倭(大親元)の日聖法主師のかつて度々記したことに「霊的なものに科学が追い付いて、感知するときは近い」「すでにカメラで、人・場などが揃えば感光する」ということがあって、法主もたびたびその出先の神域で撮影されると光の束のようなものが写ることがあり、小さい頃からわたしは何度もその話も聞き、見もしてきた。
小さい頃から何度も聞き、見もしてきたことであるから、いっそのこと感光を見せてくれたらさすがに諦めもするのであるがと日々思ってきたところであったが、ついにこれを経験するときがくる。
わたしは誕生日(2/16)を非常に大切にしており、誕生日には縁地を巡り、懇ろにお参りするということをするようにしており、27歳の誕生日では大倭と大神神社を巡ることとした。
誕生日の夜、大倭会館に泊まって、まずは朝から大倭神宮に参った。すると、まさに法主と共に感光するところを撮影したことがある本人と出くわし、感光する話を自ら説明くださったのである。そして、その写真をくださり、これを受け取って、三輪山大神神社へと向かった。そして私がいつも異様に引っ張られる若宮社にて、大倭式の祭祀をしたときであった。
以下のように感光が起こった。
大倭祭祀をした直後、同伴者が撮影したものであるが、カメラを構えた瞬間から「稲光」のようなものが絶え間なくギザギザと映り込んでいて、絶句したものである。同伴者はそのまま撮影開始のボタンを押して、24秒間だけではあるが撮影した。
それまで祭祀中などに撮影したことがなかったが、本当は撮影すればもっと感光したりしていたのかもしれない。
その日は、あちこちで祭祀を行ったが、本当に不思議なことばかりであった。わたしが社につくと暴風が吹き始める。祭祀が終わるときに至ると突然ピタッと止む、これをほとんどの社で繰り返した。
この体験は非常に大きく、さすがに物的事物を授けられて、この日以来疑うことは止めていくことにした。初めて「信疑のシーソー」が明確に傾き始めたのは、この経験による。忘れがたい日である。
今は代表的な、きっかけと結びのみを取り上げたが、このようなことが日々沢山起こった二年間であった。
これ以降にも(今もなおであるが少し減った)、不思議なことが日々起こり続けてきた。
これにより、理論に対して実証が得られたような形となって、さすがに信じる気持ちが強くならせていただいた、ということもわたしにはあるのである。
疑いもしているし、信じてもいるし、客観的不思議事もある
以上、わたしの内面として、
疑いもしているし、信じてもいるし、
その両方において揺れ動いてきたこと。
そもそもそのように預言されたという認識が、妄想か真実かあること。
そして、客観的なこととして不思議なことを沢山起こされるということがあったこと。
これらを全て、ありのままに記してみた。
わたしは、この結果、
少なくとも宗教というものが真実であることについては完全確信した。
そして輪廻転生があるということなども完全確信した。
宗教が正しく伝わり直す日が本当に来るということも完全に確信した。ただし、自分の過去の内面で経験したことや、自己の使命については未だ疑いの最中である。
本当に、わからない。
(現代人として遠慮しているところも大きいであろうが)こんなポンコツでもありながら、何もできない自分を思い知るばかりである。
大きな使命とともに
わたしは救世主ではない、ただ大きな使命
ここで一つだけ断っておくが、わたしは別に救世主などではない。
そこまでのおかしさは持ち合わせていないのが幸いである。
実際に、どこかの誰かがキリストの転生として、最後の審判=弥勒下生のときまで実際には何度も生まれてくるということが実際の真実だということはむしろ確信するところであるが、その最後の審判はまだまだ遠い先のことであるし、この現代ではそもそもそういう意味での救世主は出現しない。ただし釈迦の転生もキリストの転生も、教化の化身としてはむしろあって、どこかの誰かであったりすることは積極的に肯定する。同時代に生まれたことも、過去にはある、と妄想狂としてのわたしは信じている。
ただ、このようにそこまでのおかしさは持ち合わせていないがゆえに、やはり自分の正常性を思い知ったりもするところであって、やっかいなのである。
ただし私は、「重大な階段」として生まれてきたということは確信するところである。人に言えないような特殊な過去世の縁もありながら、重大な命(みこと)のものとして存在する。
逃げようとすればするほど、追いかけてくる。
絶対に逃げられない大使命、立ち回りである。
恥ずかしい気持ちが正直強い。人に言えない、隠すしかないのである。
ここで先に述べたポンコツ愚劣な方面のわたしが問題になる。
どうして、このようなポンコツが、そのような存在であるだろうか。
もっと立派に、難しいことができる者は他にうじょうじょいるではないか。
また神通力も、少なくとも現在備わっていないのに、何ができようか。
この問題も、わたしにとって人生の大問題であった。
もっとわかりやすく神秘現象などが日々起こったり、
神通力があったりすればそのような問いもなかったであろうが、
決してそんなことはなかった中で、
「なぜそのような存在であるならば、
もっと遥かに優れた状態の者ではないのか。
なぜ足りないことも多く、欠けも多いのか。」
という問いが、常に心にあった。
最近になってようやくわかった。
輪廻転生というのはそれほど単純ではないのだ。
高い機根のものであっても、欠けて生まれてきたりもする。
高い機根であれば、最強中の最強のようにして出てくるとは限らない。
その反対もまたしかりである。因縁は複雑怪奇である。
(これはまた別執筆に譲る)
ポンコツであることは、大きな使命と矛盾しないようだ。
大きな使命と、ポンコツさを共に抱えて歩むということもあろう。
であるならば、邁進するより他ないか。
もはや使命自体には疑いはないというのが本心である。
まとめ
わたしは、大使命を負って存在している。
過去の内面の記憶は妄想か真実か、もはやわからない。
一通り疑いもし続けてきた。徹底的に理屈を問うてきた。
それでもやはり、確信が真実であって、
客観的なことまで、これを肯定しているようである。
ただし、わたしは少なくとも未だ大いにポンコツである。
或いは一生このまま、使命を果たすのかもしれない。
或いは一部は、ここからまだ成長する自覚がある。

わたしは、ポンコツでありながら、「大きな使命」をこなすようである。
疑いの気持ちはここに対してはもはやない、もはや知る状態である。
なんともこっ恥ずかしいと思っている。
ただしポンコツであるからこそ、寄り添えることもあるし、
見るべきことが見えもするのかもしれない。
仏の御心、神の御心、わたしの悟りえないところである。
正直なところ、わたしに備わる「未熟な種」や「罪障」と、
こうした大使命とを上手く掛け合わせてくる「上(かみ)」には、
まさに”神業を感じる”というのが、本当の声である。
上手く組み合わされて、世界は育てられているのである。
「上(かみ)」(あるいは法、仏)は、人智では遠く及ぶところではない。
わたしは、
一部はこのように自分でもわからないし、
一部ではものすごくはっきりしているものだということである。
どこかに正確に記しておくべきだと思っていたため、記した。
大きな使命と、ポンコツと。
ただ邁進するしかない。果報者でもあると信じよう。
素直に、そう思う本心を書いて、
この稿を終える。
奈母太加天腹、
南無妙法蓮華経、
顕幽不二 還元帰一。
南無久遠本師釈迦牟尼佛
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